季節は春。
 つい先日までは時折冷えこんで寒くなったりしていたが、桜が散った今では防寒着はもう必要ではない。
それでも、足下から入り込んでくる夜気はどこかまだ冷たい。ロングスカートであることに少しだけ感謝をしながら、慎は夜道を歩く。
 この辺りは駅から歩いて三十分ほども離れていて(だから家賃も格安なのだが)、古くからの住宅が多くを占めるのだが、
まったくのコンビニ不毛地帯だ。商店街というにはあまりにもささやかな、八百屋に肉と総菜の店に鮮魚店(といいつつ雑誌や雑貨がメインの謎の店だ)の三軒 の他は、
数年前に二十四時間営業になった地元スーパーか近くの小中学校相手の小さな文房具屋くらいしか店が無い。
その他の物を買いたければ、駅前に行くしかないのだ。
 深夜の住宅街だけに、時折、家の中からテレビらしき音が漏れてくる程度で、街路はひっそりと静まり返っている。
時折、猫が盛(さか)っているような声が夜の町並みに響き渡る。
 いつも見慣れているはずの景色に、少し違和感があった。
 普段なら不安に思うこともない道なのだが、この体ではどうも心細く感じてしまう。
こんな体に変身してしまったからなのか、なぜか酔ったような、景色が歪んでいるような妙な感じがどうしても抜けない。
 おまけに、ノーブラ・ノーパン状態。どうにも心許ない。心の中でどうでもいいことを考えながら、不安を紛らわす。
 やはりスカートには違和感を押さえきれない。しかも下着無しだから、足を動かすだけで下半身に空気が入ってきてしまう。
ズボンでは感じられない感覚だ。ぶらぶらと揺れるモノがスカートの布地に擦れるのもいけない。
ちょっと油断をしたらすぐに勃起してしまいそうだ。玉がないのも不安だが、あればあったでぶらぶら揺れて気になって仕方がなかったことだろう。
 大股に歩いてスカートをばふばふと鳴らしながら慎は、メイド服って意外に重いもんだなと思った。
 一見、ふわふわとした外観のメイド服は、ホワイトプリムと呼ばれる頭飾り(キャップ)つきの本格的なものだ。
だが下に着ている濃紺の服の布地は安物のコスプレ衣装とは違い、地味でシンプルなデザインだが、しっかりと作り込まれている。
見せるためのメイドコスとは違い、本来は作業着なので丈夫なのは当然なのだが。
 白いエプロンをかけて「女装」をしていることもあってか、妙に心が浮き立つ。
「メイドっ娘(こ)、見るとやるとじゃ、大違い」
 うむ、決まったな。などと内心で悦に入っているうちに、住宅街を抜け、大通りに出る。
国道ではないが渋滞する道路の抜け道として知られているので、この時間帯でもそれなりの量の車が往来している。
 慎はバスケットを右手に持ってぶらつかせながら、かすかに排気ガスの匂いがする夜気を吸い込む。
 長い夜はまだ、始まったばかりだった。

 ***

 道路に沿って十五分ほども歩いて着いた二十四時間営業のスーパーは、不必要なまでに明るい照明に照らされていた。
いつもなら十分足らずで着くはずの店にその倍近くかかってしまったのは、やはりこのメイド服――いや、スカートのせいもあるのだろう。
 この店は、圧縮陳列などと称して圧迫感があるほどの品物を揃える新興量販店に対抗してなのか、住宅地のスーパーにしては恐ろしく品揃が充実している。
 食料品は言うに及ばず、週刊誌や新聞、日常雑貨、衣料品、そして元々は薬局だったというこの店のいわれもあって、二十四時間常駐ではないが薬剤師までい たりする。
医薬品も扱っているし、実は避妊具も種類豊富だったりする。
 自分の頭のはるか上まで商品が詰められた棚を見て、地震が起こったらどんな惨状になるんだろう、と慎が思ったところで、
ようやくさっきから感じていた違和感の正体に気がついた。
 背が縮んだので視線の高さが全く違うのだ。一気に三十センチほども低くなったので、まるで違う世界のように感じられる。
「目眩がしそうだ……」
 いつもなら軽々と手が届く最上段の商品に手を伸ばすが、棚の縁に引っ掛かってなかなかうまく取れない。
爪先立ちになって手を伸ばしていると、誰かが後からひょいとそれをつかんで慎が持つ買い物カゴの中に放り込んだ。
その中には、家から持ってきたバスケットも一緒に入れてある。
「重いでしょ、それ。これを使ったら?」
 大柄な女性が慎が持っているカゴを、彼女の脇にあった手押し車に乗せた。元々そこに収っていたカゴは、彼女の後ろにいる男性に片手で手渡した。
「うぉっ、糞重いっ」
 その声を聞いて慎は男の顔を見上げ、小声で呟いた。
「うわ……竜太かよ」
 彼は大学の同窓生の上庄竜太(かみむら・りゅうた)だった。よりによって同じゼミに入っていた奴だ。
住んでいる場所がわりと近いこともあって、卒業後もなにかと飲みに行ったりと腐れ縁的な付き合いが続いている。
 ということは、この人が噂の“怪物姐(あね)さん”の未里(みさと)さんということになる。
 バツ2で、それぞれの結婚相手との間に生まれた女の子と男の子の二児の母。
 二回離婚しているということからもわかるように、気が強く、それでいながらとても面倒見がいい。時には押し付けがましいほどに強引に、ではあるが。
だから姐さんと呼ばれ親しまれているという。
 しかも腕っ節の方もとびきりで、長刀と合気道の達人。できるならば合気道の宗家を継いで欲しいと師匠に懇願されたほどの実力の持ち主だと聞く。
おまけに空手と剣道、居合抜きに棒術までも並外れた実力だというのだから傑物としか言いようがない。
酔っぱらって暴れていた二メートルもあるような外国兵三人をそれぞれパンチ一撃で沈めたとか、北海道でヒグマと素手で一騎打ちして勝利したとか、
芦ノ湖畔にある秘密組織に入らないかと誘われたとか、外国の傭兵部隊から指導者としてオファーがあったとかいう謎の逸話にも事欠かない。
 ちなみに年齢は不詳だ。三十代であることは間違いないそうなのだが、弟の竜太も、これだけは絶対に口を割らないので正確なところは不明だ。
 慎はそれだけのことを頭によぎらせると、慌てて頭を下げた。
「あの、取っていただいて、ありがとうございます」
「んまーっ! なかなか礼儀正しい子じゃない。竜太と交換したいくらいだわ」
「おう、ぜひ交換してくれっぐはぁぁっ!」
 抜き身のチョップが竜太の首を刈り取る。ぐぇっとうめいて、竜太はカゴの中身を床にぶちまけた。
「ほら、この子の邪魔になるから、とっとと片付けなさい」
 一瞬、この人になら頼れるかもと考えたが、やめておいた方が無難だと考え直した。かかわる人が増えるとどうなるか、予想がつかないからだ。
 いくら彼女が人間としては強い部類に入るとは言え、なにしろ相手は悪魔と名乗り、自分をこんな体に変えてしまった人外の化け物だ。
しかも彼女は二人の子供の母親である。彼女を不幸に陥れては目覚めが悪い。
 どうせ巻き込むなら竜太の方だが、こっちは役に立たないのは明らかだ。それどころか、調子に乗って自分を犯しかねなかった。まったく、冗談じゃない。
「あのー、どうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。こんな夜中に、そんなかわいい格好で夜道歩いて大丈夫? 家まで車で送ってってあげるよ」
「あの、結構です」
「遠慮しなくていいのに」
「いいえ、本当に結構ですから」
 竜太は慎のアパートを知っている。同乗している彼が黙っているわけがない。
 慎はきりきりと痛む胸を心の手で押さえつけ、精一杯の笑顔を浮かべる。
 内心は吐きそうだった。
 こんな作り笑いがとっさにできるなんて、気持ちが悪くてしかたがない。
「いやーん! かぁわぁいぃい〜っ!」
 突然未里は、「かわいい」に奇妙なイントネーションをつけて慎を抱きしめた。
「あぶふぅぅっ!!」
 がっしりと抱きしめられ、豊満な胸に顔を押しつけられて慎は悶絶した。背骨がみしみしと悲鳴を上げているようだ。
「こら、お姉ぇ! 姉貴っ! 姉ちゃんッ!!」
 復活した竜太が背後から彼女を抑えて、何とか呼吸を回復することができた。
「あらら、ごめんなさい。かわいらしくって、つい。ごめんなさいね」
「はい、いえ……とんでもないです」
 無意識に髪を撫でつけ、頭の飾りを直している自分に気がついて慎は内心でうめいた。どんどん女性化が進んでいるような気がしてならない。
 早く買い物を済ませて家に戻り、なんとかあの悪魔を説得して元に戻してもらわないといけない。
 慎はもう一度、ぺこりと頭を下げて、カートを押して買い物を続けた。

 ***

 レジにはこんな夜だというのに、五人の精算待ちの列ができていた。
 人がいないのか、動いているレジは一つだけだ。
 カーゴを押しながら列の最後尾に並んだ慎は、肌に突き刺さるような気配を感じて、首を巡らせた。
 いた。
 一人や二人ではない。十人近くの男達が、遠巻きにこちらを眺めていた。
 中にはケータイで写真を撮っているのまでいる。
 自分を撮影しているのだろうか? まったく物好きにもほどがある。ふぅ、と溜め息をついた慎の身体の奥で、ずくん、と何かが蠢く。
 どこまでも甘く、それでいて不快な疼き。
「あ……」
 頭の中で、かちりとスイッチが入る音が聞こえたような気がした。
 ぞわわっと全身を包む異様な感覚が血液を一瞬にして沸騰させ、脳にピンク色の脳内麻薬を大量分泌させる。
 見られている。
 それだけじゃない。
 やつらは自分を、この俺を――視姦している。
「ん……ふぅっ……」
 全身からくすぐったさにも似た快感がわきあがる。皮膚感覚が鋭敏になって、少しの刺激でも快感としてとらえてしまっているのだろう。
服を着ている以上、この感覚から逃れることはできない。
 まるで視線が実体化し、全身を無数の指でまさぐられているようだった。

(全部脱いじゃえば、楽になれる)

 一瞬、恐ろしい誘惑が頭をよぎるが、頭をぶるぶるっと左右に振るってその考えを振り切る。冗談じゃない。そんなこと、できるものか。
 だが、体はどんどん発情してゆく。
「はっ……ぁはぁぁ……っ」
 思わず口をついて出た溜め息に、すぐ前に並んでいた人の良さそうな老人がこちらを向いた。

(っ――!)

 老人の視線が顔から胸、そして腰へと動き、再び上へと移動して胸のあたりで止まり、表情がいやらしく崩れた。
見られているだけで乳首が疼く。慎は胸を腕で隠そうとして気がついた。

(胸、おっきくなってる!)

 いつの間にか、もっちりとした肉の塊が、メイド服がきつくなるほど内側から押し上げていた。
押し潰され気味の塊は、布地という手の平でがっちりと鷲づかみにされ、慎が少しでも身動きをしただけでも乱暴に愛撫をされているような感覚を与える。
「ん……ふぅっ」
 顔が熱くなっているのが自分でもわかる。
 体内におさまっていた精液とぬめった蜜が、股間からとろりとろりとこぼれ出て、腿から足首へと伝い落ちているのが感じ取れた。
 背筋に氷を突っ込まれたようだった。
 思わず下腹部を緊張させた瞬間、何かをしぶいてしまったのがわかった。

(しょ、小便を漏らしちゃった……のか?)

 そうではない。漏らしたのは愛液だった。
 慎はスカートの上から股間を押さえた。
「やっ……」
 失敗だった。
 触った瞬間、手を離すことができなくなってしまった。厚い布地を通してさえわかる湿り気だけではない。
敏感極まりないペニスを布地にこすりつけてしまい、慎は突き抜けるような甘い衝撃と共にスカートの内側に射精をしてしまった。
 それだけではなく、自分の意思に反して手は止まるどころか激しさを増している。

(まずい、まずいよ。こんなところで……ンッ! オナニーなんか、しちゃ……)

「す、すげぇっ! メイドっ娘が立ちオナニーしてるぜ」
 シャッターの合成音が、店内の抑えられたBGMを圧倒する。
 老人は鼻の下を伸ばし、食い付くように慎を見つめている。
前後に並んでいる客や店員までもがレジを打つ手を止め、こちらを見ている。だが、動く手を止められない。
 竿の下に手を伸ばすようにしているが、どうしても先端がスカートの裏地に触れてこすれる。
数秒おきに射精感が込み上げ、裏側に白濁液を発射してしまう。と同時に、女性の部分から体の奥へと別の熱い感覚が走り、熱いしぶきが漏れ出てしまう。
「あ……はぁぁぁぁぁ……」
 蕩けるような快感で、下半身が無くなってしまったようだ。
 床にへたり込みそうになった慎の腰を、ぐいっとつかんで引き上げる手があった。
その人はそのまま慎を小脇に抱え、前で股間を突っ張らかしている男達をかき分け、同じく前屈みになっている店員の前に慎が持っていた買い物かごを乱暴に置 いた。
「お勘定」
「あ……はい。はいはい」
 夢から覚めたように正気にかえり、レジを打ち始めた店員だが、居心地悪そうに足をもじもじさせているところを見ると、
下着の中に射精をしてしまっていたのかもしれない。

 ***

「心配で戻ってきたらあんな風だったじゃない? やっぱり戻ってきて正解だったわ」
 慎は未里の運転する車に無理矢理乗せられていた。
 彼女が渡した濡れタオルで、体液にまみれた下半身はだいぶすっきりとしている。
無言で渡された女性用ショーツを、居心地悪そうにしながら、ゆっくりと穿く。尻の方はともかく、前の方のおさまりがどうにもつかない。
大きさは既に親指よりちょっと大きいくらいまでに縮まってしまっているのだが、仕方が無いので股間にはさみこむようにした。
でも、勃起をしてしまったら股からぴょこんと顔を出しそうな状態だ。
「何があるのかは聞かないけどさ。ああいうのは良くないよ」
「……」
「別に、答えたくなければ答えなくていいけど。で、こっちでいいの?」
 慎は黙ってうなずいた。
 買ってきた商品はバスケットに詰められて、後部座席に座っている慎の横に置いてある。自分でやった記憶が無かったので、未里が詰めたのだろう。
当然、コンドームがあるのもわかっただろう。しかし、彼女は慎を問い詰めることはしなかった。
 このあたりの道は熟知してるのか、未里は要所を押さえて慎に道を訊ね、彼が住んでいる場所へと車を走らせてゆく。
そのうち、ようやくアパートが見えてきた。
「あの、このへんで結構です」
「そう?」
 徐行運転をしていた未里がブレーキを踏んで車を止める。
「あの、本当にありがとうございました」
「いいええ。何なら、お家の人に挨拶していってもいいけど?」
「いえ、あの、結構ですので」
 かかわる気まんまんだな、と思った。
「……そう?」
 いかにも残念そうに答えて、未里は助手席に置いていたハンドバッグを手に取り、中を探って一枚の名刺を取り出した。
「これ、私の連絡先。いつでも電話してくれていいから」
 慎が黙ったままでいると、エプロンのポケットに無理矢理名刺を突っ込んだ。
「あたしがガツンと言ってあげようか? これでも腕にはちょっと自信があるし。あ、でもいきなりマシンガンで撃たれたらちょっと危ないかも」
「ちょっとですか」
 真顔で言われると、冗談だか本気だかわからない。
「うん。ちょっとだけね。それ重いし、あたしが持っていってあげてもいいわよ」
「いいえ、結構です。送ってくれて本当にありがとうございました」
 慎は重いバスケットを引きずるようにして車から下ろし、未里に頭を下げた。
「何かあったら、電話して。すぐに飛んで行くから」
 ドアを閉めると未里は名残惜しそうに慎を見ていたが、アパートの方に歩き始めたのを見て、車を発進させた。
「ふぅ……」
 本当に助けを求めなくても良かったのだろうか。
 夜空を仰いだ慎に、再び出現したアパートの部屋の扉が目に飛び込んできた。


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