都内某所。都心とは思えない広さの敷地の中。
緑深い木々に囲まれるように、二人だけが暮す別邸があった。
本邸はあまりに広く、この家に慣れていない二人には圧迫感がある。
そこで、将来の若夫婦だけが住む別邸が建てられたのだ。とはいえ、普通なら大豪邸といっていい広さである。

「ああ、疲れた!」
「ご苦労様」

 繭美はドレスを脱がせてもらってから、風呂に入り、寝間着に着替えて晶の寝室に来たところだ。
白を基調に黄色と黒で彩られた華やかなパーティドレスは彼女にとても似合ってはいたが、
デザイン優先の服は体に負担が かかった。おまけに笑顔で居続けたので顔も引きつりそうだった。

「あのドレス、もう着たくないな。重いし動き辛いし、まともに座れないし。あれならまだ着物の方が断然いいよ」
「うーん、特注なんだけどねえ。お気に召しませんでしたか?」
「飾っておくだけならいいんだけど、フレア部分が重過ぎて引きずるような感じだったな。
シルク素材は、肌触りはいいんだけどね。なんか体に変な力が入っちゃって肩まで凝っちゃった」

 彼女は晶に体を揉んでもらっていた。
まだ少し湿っている洗いたての長い髪を体の両脇に流し、うつ伏せになったまま目を細めて気持ち良さそうに身を任せている。
いつもならマッサージ師を呼んでまかせるところだが、これもまた二人の交歓の一環なのだ。

「それより、どうにかならないのかな、あの退屈なパーティ」
「君の御披露目だからね。これからも御付き合いしていく方々ばかりだから、挨拶は欠かせないよ」
「けっこう大変なんだ‥‥いやになっちゃうな」
「まあ、そう言わずにさ」

 楠樹繭美として新たな生を送り始めた彼女は、今まで想像もしていなかった社会で生きることになった。
その過程で、第二の人生を送っている人間が意外に多いことを知った。海外との交流の席でも似たようなものだった。
中には第三の人生を送っている人までいたのには驚いたが、晶と繭美のようなケースは他に例がないようだ。
お影で、一度会えばほぼ総ての人に顔と名前を記憶してもらえるのは二人にとって幸運なことだった。

「結婚かあ。本当はさ、ボクが弓奈をお嫁さんにするはずだったんだよね。立場が逆になっちゃったけどさ」

 繭美が"俺"ということは二度となくなっていた。
その代わりに、晶と二人きりのプライベートな場では"ボク"というようになった。
日本人形のような飛び切りの美少女がボーイッシュな台詞をしゃべるのは、なかなかに妖しい魅力がある。

「それがご不満?」
「ううん。本当ならボクは死んでいるはずだったのに、こうして生きている。
弓奈とも性別は入れ代わっちゃったけれど、一緒になれる。
そりゃ、女って現実にまだ十分慣れていないってのはあるけど‥‥幸せだよ」
「僕もね」

 繭美の上に晶が覆い被さり、唇を重ねてくる。
 二人はたっぷりと数分間、舌を交わらせて口淫を楽しんだ。
唇の端から唾液がこぼれ、ベッドや寝間着についてしまうのもお構いなしだ。
晶の手が下腹部に伸びる。繭美はわざと邪険に、晶の手を払いのけた。

「晶、最近ムードがないよ」
「いや、その。ここしばらく繭を抱いてないから、少しでも早くって思ってね」
「その台詞、聞きあきたなあ」

 そう言ってから二人は、かつて立場を取り替えて同じような台詞を相手に言っていたことを思い出し、同時に吹き出した。

「それではどのようなシチュエーションを御望みです? お嬢様」

 繭美は口に指をあて、少し考える振りをする。そして透き通る甘い猫なで声で囁いた。

「じゃあ、山奥の露天風呂でね、晶に思いっきりバックから突いてもらうの。もちろん裸でだよ?
そして大きな声で、『晶、愛してる!』って叫びたいな」
「‥‥そりゃまた大胆なご提案で」

 いささかげっそりとした表情で晶が返す。
 実は二ヶ月ほど前に南洋の個人所有の島で、二人きりの時間を過ごしてきたばかりである。
一月近くのバカンスを終えて日本に戻ってきた時に、繭美には水着の跡はなく、
全身が小麦色だったと言えば大体どんなことをしてきたかは想像していただけるだろう。

「今は仕事が忙しいから、だめ。また来年ね」
「じゃあ、ボクも手伝う。事務処理なら任せて。こ
れでも経理の資格は持っているんだから。あ、ワープロ1級もこの前取ったよ」
「事務処理は、ちゃんと専門の人を雇っています。君の出る出番は無し」

 晶は冷たく宣言する。彼女の仕事振りに疑問があるわけではないが、正直な話、
彼が処理する書類は様々な重要事項を決定するものばかりで、他人に任せられる物ではない。
一つ間違えば、相当な損害や人的被害が生じかねない。
今の彼に回されている書類は、まだそれほど重要な物ではないが、慎重を期さねばならないのは確かだし、
また早く仕事に慣れる必要もあった。

「それだったら今度のお泊まりは、間を取って今年の年末はどうかな?」
「グループの新年会があるから、だめ。僕が出ない訳にはいかないからね。もちろん繭にも出てもらうよ」
「いやだなあ。人に頭を下げられるのって、いつまでたっても慣れないよ」
「でも早く認めてもらわないと、繭と結婚できないからね」
「それを言われると弱いな」

 婚約指輪を嬉しそうに眺めながら、繭美が言った。
大粒のピンクダイヤの周りにルビーを散りばめた指輪だ。
実は石だけで都心の高級一戸建てが買えるような値段だったりする。
 晶がしみじみと呟いた。

「やっぱりね、男って損だよ」
「やっとわかった?」

 嬉しそうに繭美が言う。かつて弓奈に、仕事ばかりと責められていたのを、今反撃しようというつもりのようだ。

「責任は重いし、会いたくない人とも話を合わせなくちゃならない。仕事仕事‥‥ああ、女が羨ましいよ」
「あれ? 晶が弓奈だったときは、男に産まれたかったって言ってたよね」
「よくそんなことおぼえているね」

 晶が笑った。

「男になって良かったことは‥‥眼鏡が必要なくなったのと、生理が無いことくらいかな。僕はけっこうつらかったからね」
「ボク、軽いよ。ちょっとお腹が張って体が重いかな? って感じで」
「それはずるい」

 恨めしそうに晶が睨むが、繭美はまるで気にしていないようだ。

「そうそう、生理で思い出した。
先生に聞いたのだけれど、ちゃんと妊娠できるようになるには、まだあと3、4年はみたほうがいいんだって」
「長いね」

 長いわと繭美も言ったが、仕方のない話だ。
晶の精子も、まだ十分に妊娠させる能力があるというわけではない。
肉体は急速に成長できても、やはりまだ生命を産み出す器官は自然な成熟を待つのが今でも一番よい結果を生むのだという。

「でも、その頃には戸籍上でも20歳を越えるから、堂々と結婚できるよ」
「今だってもう、結婚しているようなものだけどね。
それより繭、お義父さんとお義母さんを大切にしてさしあげろよ。ここのところあまり家に帰ってないだろう?
随分寂しがっておられたぞ」
「そうだね。明日、お墓参りがてら帰るね。お詫びに虎屋のようかんを買っていかなきゃ。お義父さん、あれが大好きなの」

 墓とは、自分自身の墓のことだった。明日は士狼が事故に遭った日で、ちょうど八年目にあたる。
二年前に楠樹家に身を寄せてから、繭美は高前士狼の墓を作って、七回忌の法要を行うと共に自らの想いを封印した。
 男の自分は死んだ。そして、私は女性として愛すべき伴侶を得て、生きていくのだと決意したのだ。
 楠樹家の義父母は、両親の思い出がほとんどない繭美(士狼)にとって、
初めて家庭の暖かさを味わせてくれたかけがえのない人である。
二人にはどれほど不安定な心を癒してもらったかわからない。
今、こうして女性として明るく生きていけるのも、義父母のお蔭なのだ。
 その二人に惜しみなく注いでもらった愛を、繭美は晶に注いでいる。
彼との間に子供が産まれれば、もちろん子にも溢れんばかりの愛情を与えるだろう。

「まだ嫁入り前なんだから、いくら婚約中とはいっても、あまりこの家ばかりに居てはダメ。ちゃんとお家に帰りなさい」
「だって、ボクの家にいると晶とエッチできないもん。それともボクがジャマなの?」

 繭美は目を潤ませながら、ほっぺたを膨らませる。晶はがっくりと肩を落とした。

「繭、順応し過ぎだよ。女の子そのまんま」
「だってボク、女だもん」
「いくら婚約中とはいっても、まだ嫁入り前の娘が男の家に何日も泊まり込むのは不健全なの」
「そんなこと言っていいのかな? 晶のここ、がちがちだよ」

 繭美の手が、すっと晶の股間に触れる。
言葉とは裏腹に、彼の股間は既に臨戦態勢を整えつつあった。晶は天井を見上げて言った。

「‥‥男って哀しいね」
「ほらほら。このままボクが家に帰っちゃっていいのかな?
でも晶、ボクを襲ったら淫行罪で逮捕だよ。一応まだ、戸籍上では十八歳未満だもん」
「いい加減にしないと、こうだ!」
「きゃあ!」

 ベッドに押し倒されて、繭美が悲鳴を上げた。もちろん演技だ。キスを求める晶に、唇を合わせる。
下敷になった繭美が夢見るような表情で言った。

「いいよ。晶の子供をいっぱい産んであげるから。そのかわり‥‥」

 抱きつきながら繭美は晶の背中を強くつねった。

「浮気はだめだよ。晶はボクだけの晶なんだからね。
こんなボクにしちゃった責任はとって貰うよ? それが男ってものなんだからね」
「はいはい。お嬢様、仰せのままに」
「うん、よろしい」

 生真面目に答える晶の表情がおかしくて、繭美は笑った。
そのまま晶は彼女の服を脱がしてゆく。
明かりが常夜燈に変わると共に、二人の甘い声が響いてくる。
 こうして今日もまた夜は更けてゆく。

 二人の数奇な運命は、始まったばかりだった。


     『二重螺旋』・完


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