二日が過ぎた。
 吐瀉物にまみれて洗面場の床に倒れていた豊が発見されたのは、あれから大体十分後ほどのことらしかった。
 ガスが止まってからの余りに長い着替えを不審に思った母が、洗面場を覗いて、気絶した豊を見つけたというわけだ。
 目が醒めた豊はすぐに病院へと連れられた。
 何一つ異常は発見されず、ひとまず胸を撫で下ろした様子の母だったが、
それからは何事か悩みがあるのではないかと、しきりに気を揉んでいて、繰り返し詮索された。
 女性の体に変わったことがショックだったなどと、「娘」の口から言えるわけもなかったが。
 そうして結局、学校に行く気力の萎え果てた豊は、その後の二日、自室で安静に過ごしたというわけだ。
 長く触れ合いを欠いた親子関係を続けてきた豊には、その二日間の母のかいがいしい看病が、面映くもあり、なんだか不思議な気分でもあった。
 そして、夢を見た。

 茜射す、夕暮れの薄暗い部屋。
 中心に据えられた食卓に、突っ伏した女性が、声もなく泣いていた。
 学校から帰ったばかりの少年は、貰い泣きのように顔を歪めて立ち尽す。
 それは毎日繰り返される光景だった。
 泣いているのは少年にとってこの世で最も大切な存在、母親。
 父がもう帰っては来ないと息子に告げたその日から、母は母であることをやめてしまっていた。
 ただ父の名前を呟き、泣いてばかり居た。
 優しい少年は、母の涙を止めたいと願った。
 母の瞳から零れた涙の雫一滴一滴がテーブルを打つたび、胸が締めつけられて苦しかった。
 だが少年は、彼女の頭を掻き抱いてやるための背丈すら、持ち合わせてはいないのだ。自身の無力に、ただ歯噛みした。
 だから、決意したのだ。
 この人の涙を、自分が絶対に止めると。
 立派になって、強くなって、この人を守ると。

 目が、醒めた。
「ここまでなら悪くないのに……な」
 呟き、苦笑する。
 余りにも幼稚な、それだけにひたむきな、切ない昔の自分。
 8歳のころの記憶だったろうか。
 ここ二日の母との触れ合いが、深いところにあって普段は中々顔を出さない記憶を呼び起こしたのかも知れなかった。
 「さて……と」
 胸元に目を向ければ、やはりそこは隆起している。何としても醒めてはくれない悪夢だった。
 例えば自分が正気を失っているのだとしても、そしてその結果の世界なのだとしても、
自分が今ここに居るという状況には些かの変化もない。
 逃れたとすれば……それは自らの命を絶つという手段によって行えたとして、しかし、
その時の母の心境を思えば、およそ取り得ない方法だった。
 すなわち逃れ得ないのならば、向き合うしかない。豊は今までもずっとそうして生きて来たのだ。
 クローゼットの前に立つ。忌まわしい朝の発端だった、クローゼット。
 今は、向き直ろうとする決意があった。だから、平気だ。
 大きく両開きに引き開ける。ブラジャーとパンティーを取り出す。
 あくまで淡々と、女性の装いを始める。下着の着け方はこの二日で練習していた。
 何の感慨も持たないよう、努める。女性として生きるには絶対に必要なことなのだから。
 制服は机の脇の大きめな小物入れの上に、きれいに畳まれている。学校指定のセーラー服だ。
 何度も手に取ってはみたが、袖を通すまでは行かなかった。少しだけ、気合を入れなおす必要があるかも知れない。
 まずスカートを持つ。腰まで通して、腰骨にかけるようにして引き締め、フックを止める。
 膝下10センチ、今時としては少々大人しすぎるきらいがあるかも知れないが、
股間を覆い隠すためのものでありながら、真下に死角が存在するこの着物は、
ズボン以外に履いた経験のない豊にしてみれば欠陥品とも感じられて、
表面的にはしっかりとその機能を果たしているように見えながら、同時に何も履かないでいるような不安を覚える。
 次はセーラーだ。襟を若干持ち上げ、リボンを通していく。
 結び方については至極難儀だった。
 女生徒の服装など観察したことはもちろんなく、当然リボンの結びなど知るわけがない。
 それでもブラジャー同様、この二日の間に、布団の上に置いて何度もシミュレーションを繰り返し、一応それらしく見えるようにはなった。
 本職に見られたら、やはりどこか不自然かもしれないが。
 着終わってみると、厚いとも丈が長いとも言えないセーラーを盛り上げる胸、かすかに透けて見えるブラの紐、
ある意味で下着だけの状態同然の下半身など、やはり全てが具合悪く思える服装だった。
 女性にスカートやセーラーを着せようなんて考えた奴を殺してやりたいと思う。
 だがどうあれ、この格好以外では通学出来ないのだ。
 余り長く学校を休むと学業にも支障が出るし、何よりもどんな理由があっても母にこれ以上心配をかけたくなかった。
 溜息をついて、ドアノブを捻る。階段の脇の姿見のことが思い浮かんだが、
この格好を確認のためとは言え、全身眺めて見る気にはなれない。
 何か不審な点があれば、母が注意してくれるだろうと考え、階下に降りた。
「おはようございます」
 居間では義父が朝のテレビニュースを眺めていた。
「豊ちゃん……大丈夫なのか? 」
 二日ぶりに見る義父は、心底からと思える心配顔を見せる。
「ご心配お掛けしてすみません、見た通りなんともありませんから」
 無理して笑顔を作ってみせ、『豊ちゃん』なんだな、と思いながら席につく。
「本当に? 豊ちゃん、今まで倒れたりしたことないだろ。やっぱりどこか悪いんじゃ……」
「心配性だな、医者がなんともないって言うんだから大丈夫ですよ、きっと」
「……無理してないかい?」
「顔色、悪いですか?」
「いや、それはないけど……」
「じゃ、心配しないで。本人が一番体のこと分かってるんですから」
 そう言って、話を打ちきる。豊が会話の継続を望んでいないことを知ったか、義父も口をつぐむ。
 この義父も母同様、普段余り豊に構ったりはしない人だから、その心配のほどが知れたような気がした。
 ……真面目でいい人なのは分かってるんだけどな……。
 そう心の中でひとりごち、テレビニュースに目を向ける。
 交通事故情報、美術館強盗の逮捕、殺人事件の裁判などキャスターの口から語られるニュースは、
断片的になって意識の表層をかすめるだけで、理解という形で脳内に入っては来ない。
 豊の身の上に起きたこと以上の事件など豊個人にとって有り得ないのだから、当たり前だ。
 居間での会話を聞き付けてか、母が食堂から姿を現した。
「豊、念を押すけど、大丈夫なの?」
「も、何度言わせるのさ。病人の顔に見える? 学校だってそうそう休んでられないよ」
 両親の視線が、ジッと注がれているのが分かる。どれだけ心配してくれたかが分かるから、それが痛い。
 不承不承の態で母が言う。
「それは、そうでしょうけど、体には代えられないわ」
 異常があるのは体じゃなくて、心なんだよ。
 自嘲混じりに呟きそうになり、口をつぐむ。そんなこと言ってなんになる。
本当に病んでる、な。
「休んでも、誰も何も言わないからね。苦しかったら言いなさい」
 そうだけ言うと、母は食堂に取って返した。義父も顔だけテレビに向けるが、ちらちらと豊の顔を窺っている。
 朝食はひどく気が滅入るものになった。
 両親とも、箸を進めるのもそこそこにジッと豊の顔を見つめるのだ。
「早く食べないと冷めるよ……」
 そう言われると少しだけおかずに手をつけるが、大した間もおかず元の木阿弥となる。豊はもう何か言うのを諦め、食事に専念することにした。
 本当のところ、胸が一杯で味も良く分からないのだが、だからといって食事を途中で打ち切れば、心配の種を与えることになる。
 食べられなくても、胃に詰め込まなければいけなかった。
 どの程度食べればいいのか見当がつかない。
 今の彼女達の記憶にある、女の子の『豊』はどの程度食べていたのだろうか。
 それが分からない以上、男であったときに近い量を胃に入れるしかない。苦しくて吐きそうになる。
「今日は随分……食べるわね……」
 しまった。やはり女の子である『豊』は、相応の食事量らしかった。
これでは無理して食べることで、元気を装おうとしていると思われてしまいそうだ。
 もっとも、そう大差ないが。
「ん……最近あんまり食べてなかったから、お腹減っちゃった」
 青色吐息で言うことではない。居たたまれなくなり、席を立つ。
 げっぷが出そうになりながら、洗面場に向かう。背中には相変わらず視線が刺さっているのを感じる。
 これではますます、元気に振舞ってみせなければならない。
 そうしなければこの人達は心労で倒れてしまうんじゃないかと、冗談でなく思った。
 洗面場の鏡に、顔を映す。顔のパーツそのものに、そう大した変化は現れていないようだった。
 元々が女顔だったためだろう。お陰でここでは違和感を覚えずにすむ。
 だが、この髪。
 長さ、ヘアースタイルなどは変わりないようだったが、髪質は大きく変化していた。
 サラサラと、細く滑らかで、黒絵の具一色で染め上げたような、混じりけのない綺麗な黒髪。
 顔、髪、胸、手、すべらかで細く、適度に丸みを帯びた足。
 手前味噌でなく、今の自分が非の打ち所のない美少女と言える体になっていることが、思い知らされる。
 まるで、何かの作為が働いたかのように。
 そうしたら、顔は動かす必要のないパーツだったってことかな?
 自嘲の笑みが零れる。少年の中で、『女』というものが忌むべき存在になり始めていた。
 乱暴にブラッシングしていく。みっともなくないよう、しかし、出来るだけ女として人目を惹かないような容姿に。
 だがそれがとても難しい努力であると知るのに、そう時間はかからなかった。眼鏡が、欲しい。
「じゃあ行って来ます」
 鞄を手に持って、居間の両親に声をかける。と、ともに母が見送りに出て来た。
これとてついぞ無かったことだ。そして彼女の心配が大きければ大きいほどに、豊は自分自身を追い詰めて行くしかないのだ。
「行ってらっしゃい」
 それだけだった。だがその目はきっと、口以上にものを語っているのだろう。
 豊に、それを見る勇気はない。振り返らず家を出た。


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