その日の豊の目覚めは、しょっちゅう快活な一日を送るには好ましくない、ひどい悪夢に度々苛まれ続けた人生の中でも、
指折り数えて間に合うほど上に順位付けられるくらいに、気持ち悪いものだった。
 脱水症状でも起こしたときのようにカラカラに乾いた、喉。
炎天下で急激な運動をした後と同じく全身を這う汗の玉、湿った肌の感触、
そしてそれを吸い取ってベチャリと肌に密着する寝間着を見れば、
実際に体に変調のひとつも来たしているのではないか、と思える。
 張り付いた布地の感触が不快でしょうがなく、本来なら窓を全開にして新鮮な朝の空気を全身に浴びたいところのはずなのに、
何故か窓に手を触れることすら躊躇われた。
 何もかも不愉快で、そして奇妙な朝。
 こんなにも異常な目覚めをもたらしたほどの、おそらくは悪夢、だというのに、豊はその内容をわずかも憶えていない。
思い出したくもないと心が訴えかけている。
だからそのこと事態は助かったという感慨すらあるが、
しかし、豊は自分自身忌んでやまない悪癖として夢というものを微細漏らさず克明に記憶してしまう性質なのだ。
たった今見た夢の断片すら思い浮かばないなど、まるで初めての経験だった。
だからこそか、云い難い違和感が思考に付きまとって離れない。
 だからと言って考え込んでも答えなど出るとは思えず、豊は取り敢えず布団から出ることにした

 豊には全身汗みどろで登校する趣味はない。
朝からシャワーを浴びる習慣はないが、とにかく悪夢と一緒に汗の匂いを洗い流してしまいたいかった。
 替えの下着を用意するためクローゼットを開ける。
 しかしごく何気なく伸ばされた手に触れた布地の感触は、長年慣れ親しんだトランクスの持つ綿地のそれではなかった。
「……え? 」
 もっと柔らかく滑々としたそのもの、そこにあるはずのないもの、それは豊の知識の中では女性が身に着けるべきもののはずだ。
だから、こんなところ、男子高校生である豊の衣装箪笥に納まっていることなど有り得ない。
有り得ないものが、現にそこにあった。
 少なくとも豊自身には自分の下着をそっくり女性ものに替えた憶えなどない。
だからと言ってじゃあ誰が? 母親? それとも父親?
 馬鹿なことを考えて、と頭を一振りする。悪戯には度が過ぎるし、それ以外でこんなことを豊にする理由など思い付かない。
そしてそんな風にじゃれるには、親子は余りにも疎遠だ。
 ふっと豊は我に返る。なんでこんなことに考えを巡らせているんだろう?
本当なら「わっ」とか驚きの声のひとつもあげて、大慌てするくらいがちょうどいい状況なんだろうに。
 変に冷静になってしまい、慌てる機会を逸したな、と思った。しかしとにかく困った状況であることには違いない。

 仕方ないか……。
 どうして自分のクローゼットに女性ものの下着が納まっているか、などと言うことはさて置いて、
早く支度をしなければ学校に遅れてしまう。
 下着の替えは母に言えばなんとかなるだろう。
詮索はされるだろうが、恐らく簡単に言い抜けることが出来るだろう自分達親子の冷めた関係を今だけは少し感謝した。
 階下に降りようと扉に向き直ったところで、また奇妙な感覚が豊を襲った。
 奇妙な感覚が襲った、とは適切でないかもしれない。
正確には本来感じるべき感覚、股間に感じるはずの重み、男性器の感触が無いのだ。
「……な!? 」
 今度こそ、パニックだった。震える手で寝間着のズボンに、手をかける。
それは萎縮しているとかそういったレベルのものではなかった。
まるでそこに、なにもないのだ。いわば喪失感といったようなものが股間を占めている。
 尻に引っ掛かって下がりにくい下着ごと、ズボンを降ろす。
 また、パニック。
 尻に引っ掛かる? 何故? そして、この手で引き下げた、この下着。
「なんで……女の子の……」
 自分が今まで履いていたもの、それは女性ものの下着だった。
 足から力が抜け、へたり込む。
 呆然と情報を整理出来ない脳に視界を通して入り込むのは、予想通りに男性器を失った、股間。
陰毛の向こうに刻まれた、襞の絡む縦筋。そしてそれに絡む、パンツ……女性のもの。
更にそれを守るように両脇にある、丸みを帯び、筋肉に乏しい、太腿の光景だった。
「え? え? え? 何……コレ?」
 まだ、悪夢の中に居るのだろうか。恐ろしく現実感のない、いや恐ろしすぎて現実だなどと認識しようもない、光景だった。
 自分の肉体が女性のものに変容している。
 だが、現実だった。事実だった。どんなに否定しようとも、これが幻想でないことは、嫌というほど分かっている。
嫌でしょうがなくとも、分かってしまっている。
 視界が回り始めたような気がした。重い風邪にかかったときのように、回転する世界、重力。唐突に食道を駆け上がる、吐き気。
 座ってさえいられず、膝を揃えたまま横ばいに倒れる。苦しさに涙が目尻に浮かんだ。
「僕は……気が」
 狂った? 再び押し寄せた吐気の大波によって、口から漏れでようとした言葉が中断される。
 そんなそんなそんなそんなそんな──
「う……そ」
 ヒィヒィと、口だけでする呼吸音を漏らしながら、豊は腕を曲げる。
 手を押し付けるように触れた胸は……柔らかかった。
「……ッ!!! イヤだあァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
 涙とともに絶叫が迸った。


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