目を開けると朝だった。
結局昨日はそのまま寝てしまったらしい。
いまが6時半だから10時間以上も睡眠に費やしたことになる。
昨日は肉体的にも精神的にも疲労の極致にあったとはいえ、さすがに寝すぎだ。
ひとつ大きく伸びをして部屋を出る。
ダイニングでは父さんが新聞を読みながら朝食をとっている最中だった。
目が合う。
父さんの目の下にはクマができていた。顔全体も心なしかこけているように見える。
出社前から激務をこなした後みたいに疲れ果てているようだ。
この状態はとても気まずい。
図らずとも始まったにらめっこは、父さんが目線をぼくから新聞に移したことで終わった。
このままダイニングにいる気にもなれなかったので、昨日入りそびれたお風呂のことを思い出し、シャワーを浴びることにした。
Tシャツを脱ぐと、下からブラジャーが現れる。
まだ頭の片隅で昨日のこと一切が夢ではないかと思っていた。でも紛れもない現実だとわからされる。
「どうやってはずすんだ、これ…」
そして現実的な問題として、どうやって男に戻るかではなく、着け方も外し方も知らない女性用下着の存在のほうがより深刻だった。
後ろに手を回して探ってみたところ、ちょうど背骨のあたりに外れそうな部分の感触があった。
どうやら金具で引っ掛けてある仕組みらしい。色々な角度に引っ張ったところはずすことに成功した。
はずしてから、これをまた着けるのは絶対に無理だと悟る。
はずしたばかりのブラジャーは、持っているのも何かためらわれたので、なるべく見ないように脱衣カゴに放り投げる。
下のほうも見ないように素早く脱いで同じく脱衣カゴにシュート。
ただ脱ぐだけなのにこの気苦労。しばらく『女』でいれば次第に慣れてくるんだろうけど、そんなつもりはさらさらない。
全開にし勢いよく流れ出るシャワーを頭から浴びていると嫌なことも一緒に流れていくようで気分がよくなった。
このままずっと浴び続けたいと思うほどに。
鼻歌まじりに洗髪を済まし、さて次は身体を洗おうかとスポンジにボディーソープをつけようとして、
「あれ?」
スカスカと空気が漏れるだけで中身が一向に出てこない。
空。
ならば詰め替えのがどこかにあるはずと、浴室と脱衣所を探してみたけど、見つからない。
と、思い出す。日用品全般を取り仕切っているのは母さんだ。聞けばきっとわかるはず。
浴室から出て腰にバスタオルを巻きつけ、ダイニングへ。
「母さん、ボディーソープの替えどこにあるかわか………………る?」
何故かその場が凍りついていた。
起きてきた兄さんと雪と、父さんが揃ってぼくのことを見たまま蝋人形のように固まっていた。目が点になっている。
いつの間にか恐ろしいものの片鱗を味わわせる能力でも身についてしまったのかと、改めて3人を順番に眺める。
兄さんはトーストを齧るところで、雪はフォークをサラダのレタスに突き刺そうとするところで、
父さんはコーヒーカップに口をつけた状態で、それぞれ動作が完全に止まっていた。
その他はテレビはニュースキャスターが何やら喋っていたし、アブラゼミがうるさく鳴いていたので時間自体が止まっているようではなかった。
まあ普通に考えれば当たり前だけど。
5秒経っても10秒経っても動き出さなかったので、3人を放置してキッチンへ入る。
「母さん、ボディーソープどこにあるか知らない?」
プレーンオムレツを焼いていた母さんは、こっちを振り返るなり何かを言いかけて、やっぱり絶句した。
『オムレツを作っていたら目玉焼きになっていた』とありのままに話させることだって今ならできるかもしれない。
「母さん?」
「…………陽ちゃん、うえ裸よ」
何を言っているのだろう。別に男が上半身裸でいようが気にする人は一部を除いていない。
「別に問題はないんじゃない」
「陽ちゃん…………あなたいま女の子なのよ?」
自分の姿を見下ろす。水滴もまだ残る肌に膨らみが。ひとつ。ふたつ。

あ。

シャワーを浴びて、嫌なことどころか自分の立場まで排水溝に流してしまっていたらしい。道理で3人が固まったわけだ。
「すぐ隠しなさい!」
命じられるままバスタオルで胸から下をHIDDEN+。
すると今度は下半身の究極のチラリズムに強制的に挑戦してしまうことになってしまった。まさしく帯に短し襷に長しだ。
見かねた母さんが「待ってなさい」とキッチンを出て行く。
それがきっかけになったのかダイニングの時が動き出し、父さんの「あちっ!」という悲鳴が聞こえた。
数分後、戻ってきた母さんの手には袋に入った薄いピンク色の女性用下着があった。
「はい、これ。昨日連絡を受けてから必要になると思って買っておいたの」
「男物じゃダメ?」
昨日は着ていたとはいえあれは不可抗力だ。今日になってまで着ける気はない。
答えは、無言で渡された袋。
人生諦めが肝心とは誰の言葉だったか。素直に従うほかないようだった。
でも、渡されたところで着け方なんかわからない。昨日はぼくが寝ているあいだに勝手に着けられていたし。
「どうやって着ければ…?」
袋から出し、それっきり動けなくなる。困って視線を巡らすと母さんと目が合った。
……女の先輩にご教授願うしかないようだ。
ということで、キッチンで臨時の下着着用の講習会が行われることになった。
肩紐を調節して、前でフックをかけて留め、胸をカップに収める。
今まで着けていたやつとは違い前で留められるタイプだった。これなら着けやすいうえに外しやすい。
下も穿いたし、隠す必要もなくなったのでさっさと朝食をとろうとダイニングへ…………
肩をがっしと掴まれた。
「女の子は下着姿でうろつかないの!」
女の世界には心得というかガイドラインというか、そういうものが男と違ってかなり厳密に定められているようだった。
母さんは再びキッチンから姿を消す。今度はすぐに戻ってきた。制服を持って。
手渡された制服はどこからどこまでも女子用で、また着ることになるかと思うと動作も自然と鈍くなろうものだ。
リボンが追加オプションだけの上はともかく、まだスカートに抵抗がある。
同じスカートでも、ここがスコットランドでバグパイプを持っていればまだ自然だったかもしれなかったけど、
あいにくここは日本であってスコットランドではない。
スカートどころかバグパイプなんか持っていた日には職務質問されてもやむなしだ。
意識がグリニッジから135度あたりまで戻ってきたところで、黙々と着付けを完了させる。
そこまで見届けると、鬼の形相に近かった母さんの顔が柔和なそれに変わった。
「やっぱり女の子っていいわぁ……」
年甲斐もなく頬を染めて感嘆のため息を漏らす。
ぼくはよくないんだけど…。

今日は昨日と違って時間に余裕があったけど、いつもの20分前には家を追い出された。
早歩きにNGが出されたからだ。
母さんが言うには「女の子はスカートの裾を翻したりしないものよ」だそうで。愛
読書がお嬢様学園が舞台の小説だと言うことが一味違う。言葉の厚み重みはまるでないけど。
久々となる厚い雲の吹き散った青空の下、悠々と学校へ…………とはいかなかった。
周りの視線が気になる。何故か未知行く人やすれ違う人がぼくのことをちらちらと見てくるのだ。
一度気になってしまうと意識しないではいられない。
もしかしたらいまの僕はとんでもない間違いを犯してしまっているのではないかとさえ思う。
裸の王様のように勘違いでこんな制服を着ているのではないか、と。
家に帰りたくなった。一刻も早く。そして制服を脱ぎ捨てベッドの中に潜り込み己の愚かさを呪うのだ。
足は自然と人通りの少ない裏道を選び、歩調はカタツムリのそれに近くなっていた。こ
れ以上なにかきっかけになるようなものがあれば即座に回れ右して走り出せるように。
「──半田君?」
そんなネガティブで野生動物の逃走本能を発揮させていたから、背後から不意打ちをされた時には心底驚いた。
心臓が止まりそうになったほどだ。
「六条……さん?」
恐る恐る振り返ると、六条さんが立っていた。ぼくのことは聞いているのだろう。大して驚いていない様子だった。
「おはよう、半田君」
「あ…、お、おはよう」
挨拶を交わし、それっきりになる。気まずい雰囲気。このあたり限定で気温も数度下がった気がする。
それなのにじんわりと汗がにじむ。
まるでぼくは蛇ににらまれた蛙だ。六条さんに気圧されて動くことができない。
捕食者と被捕食者のあいだで、まさに食べる・食べられるの直前には両者とも動かなくなるという。
死の対話とか呼ぶそれは今の状況にそっくりだと思った。
食べられるのはごめんだけど、ぶたれるくらいなら甘んじて受ける。
昨日だって怒り過ぎてああなってしまった可能性がある以上、ぼくにも責任がある。
このぎすぎすに決着がつくなら1回痛いくらいは安いものだ。ほかに案があればそれでもいい。
これからずっと謝罪と賠償を求められるのはさすがにイヤだけど……。
「六条さん」
「半田君」
ぼくと六条さんの声がハモった。
「あ、六条さんからどうぞ」
「半田君からでいいよ」
漫画のような譲り合い。でもお互い一歩も引かない。意地と意地のぶつかりあい。譲り合っているはずなのに我を通すのに必死になっている姿はなんだか滑稽 だ。
「えっと、そろそろやめにしない? ぼくから話すよ」
ぼくの口元はいつしか緩んでいた。
六条さんも笑ってそれに「いいわよ」と応える。
「えーっと、……昨日はごめん。怒らせちゃったみたいで」
「なんのこと? 昨日は怒った覚えはないけど」
返ってきた答えは、殴られることまで覚悟していたぼくにとって拍子抜けするものだった。
「え、だってあんなに顔を真っ赤にして……」
「そんなことあったっけ?」
嘘をついているようにも、誤魔化しているようにも見えなかった。
舐めて味でわかる人でないと本当のことはわからないだろうけど、本人が否定するならそれを信じるしかない。
ちょうどぼくの利にもなっているし。
「で、六条さんは何が言いたかったの?」
「あ、うん。半田君って女子用の制服着るんだ、って」
瞬間、羞恥の導火線に火がともる。まあまあ棒も間に合わない数秒ももたない短すぎる導火線に。
「あ、こここここれは……!」
事実を否定する理由はどこを探してもなかった。着せられたとはいえ、着ていることには変わりがない。
言い逃れもできなければ捏造もできない。
いっそ宇宙人がやってきて強制的に着替えさせられました、とでも言おうか。と、ここまで2秒弱。
「似合ってるわよ」
「……え?」
「だから、凄く似合ってるって言ってるの」
ちょっとそれの意図するところがわかりにくい。英語で言ってもらったらわかりそうな気がする──
なんて思うくらいに頭の中は混乱していた。
似合っている? 母さんもそんなことを言っていた。
しかしちょっと待って欲しい。『男』に女子用の制服が似合うというのは早計に過ぎないだろうか。
「似合ってるはずないよ。だってぼく『男』なんだし」
「そんなことないわよ! 半田君は……女のあたしが見たって可愛いって思うもの」
ぼくの否定は否定された。それに、
(可愛い? ぼくが?)
「自信もっていいよ。変に思う人なんて一人もいないんだから」
自分の制服姿は昨日見ている。確かに外見に不自然なところはなかった。
でも、内面は不自然極まりなかった。違和感であふれていた。
穿いたこともないスカート。着けたこともない下着。
そのどれもが身体にフィットしながら、心の中では間違ったパズルのピースをはめているようなしっくりこない気分だった。
「まあ最初は慣れないと思うけど、やっていくうちに慣れてくるわよ」
どうしてぼくの周りには、こうポジティブ過ぎる人が多いのだろう。
「さ、もう学校に行かないと」
六条さんがぼくの手を取る。そのまま引きずられるように学校まで連行されることになった。
…………


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