翌朝、いつものように6時前の起床となる二人。今日は散歩はやめておこうと話が決まりベットの中でゴロゴロしている。窓の外はシトシトと雨が降ってい た。
「窓を開けたいね……」
 そんな事を言いながら香織はモソモソと着替えて窓をそっと開ける。湿気を含んだ風が部屋に吹き込んできて、昨夜の営みを思い起こさせる臭いが洗い流され ていった。
勝人も起き出して来て着替える。香織はベットシーツを剥がし布団を綺麗に畳んで重ねた。
 完全に身に付いた整理整頓意識の意味、それを今更ながらに香織は実感している。つまり、それは主婦の動き……

 7時前になって香織は台所へ降りていった。やかんをガス台に掛けてお湯を沸かし、冷蔵庫を開けて朝食のメニューを考える。
 同じ頃になって母親が起きてきた。半分寝ぼけ眼だが、主婦歴の差がもろに出てテキパキとメニューを考え準備していく。
 しばらくあって父親と弟が起きて来て家族が全員揃った。母親はニコニコしながら香織と朝食を仕立てている。

 居間では父親が勝人とアレコレ話をしている。それをチラッと見た後で母親がニヤリと笑い香織に囁く。
「妊娠中は程ほどにね……ところで彼は上手なほうなの?」
 香織はちょっと赤くなりながら答える。
「多分普通じゃないかと、彼しか知らないし……」
 母親と娘でそんなウェットな会話が出来るのも僅かなのかもしれない。その短い時間を最大限楽しんでおきたいという雰囲気なのだった。
 朝食の準備が出来上がり皆で揃って幸せな食卓、これを大事に出来なかった故に壊れて行ってしまう家族が余りに多い中、今、川口家の食卓には暖かな時間が 流れている。

 いってきま〜す、と元気良く弟が出て行き、家族は4人でゆっくりお茶を飲んでいる。
「今日は大安吉日だ。じゃぁ、行ってきなさい」
と、そういって母親は香織を促す。香織は母親をジッと見据えて涙を浮かべた。この時、初めて二人は母と息子ではなく母と娘になったのかもしれない。

 婚姻届がただの契約書ではなく二人の人間の契りだと言う事を両親は知っている。
 それは山あり谷ありの人生において、終生変わらぬ誓いであると覚悟するからこそ出来る物なのだと思っている。
 そしてそれを目の前の娘が誓おうとしている。母親は何時までも母親であり父親は何時までも父親だ。しかし、娘は嫁になり妻になるのだ。そして、母親へ。

「あなたの幸せを祈るからね」
 母親は静かに眼を閉じて涙を流した。
「お母さん、行ってきます」
 香織も涙を流す。
「香織……俺は父親として言っておかねばならない事がある」
 父親の一番長い日。

 娘を持つ父親にとって、それは何年も掛けて少しずつ積み上げていく覚悟である筈なのだが、香織の父親は突然娘を持たされてそれを言わねばならないのだ。
 どれほどの心痛なのかは誰にも実感できない。

「香織、婚姻届を出して武田家の嫁になる以上は、他家の人間になる」
「はい」
「今後私の許し無く玄関の敷居を跨ぐ事は許さない」
「……はい」
「そして……ただいまと帰ってこれるのは今日が最後だ」
「……はい」
「……幸せを俺も、祈る……」

 そういって父親はまた泣き崩れた。香織の記憶に父親が泣く光景は一度も無い。しかし、僅か4日の間に2回も父親は号泣しているのだった。
誰憚ることなく男泣きに崩れるその姿こそ夫となる勝人にとっては最高のプレッシャーだ。

「終生全力で守りますからご安心ください」
 勝人は蒼白になりながらも笑顔で答えた。勝人の手を握り父親は言う。「娘を頼む、娘を頼む……」と。

香織は居たたまれなくなって立ち上がると2階へ上がっていった。ゴソゴソと支度を整える音が聞こえる。
 やがて支度を整えて香織が降りてきて両親の前に立った。セーラー服でもジャージでもなくありあわせの服でもない、綺麗に着飾った年頃の娘がそこに立って いる。

「お父さん、お母さん、行ってきます」
「あぁ、気をつけてな」
「お父さんはあぁ言ったけど、いつでもここへ来なさいね」

 両親は香織を送り出す。勝人は深々と一礼し部屋を出た。

「生涯僕がいつも傍らにいられるよう頑張ります」

 16才の少年とは思えない覚悟を決めた勝人は、香織の手を握って自宅へと歩いていった、
 玄関の前で二人を見送った両親は呟く。これでいいんだ、と。

 昨夜と同じ道をたどって勝人の家に入る香織。勝人の両親が用意して待っていた。

「今日から、ウチの香織さんね」
「未熟者ですがよろしくお願いします」

 違う形の母と娘になった二人が挨拶する脇で、別の形の親子の儀式が始まってた。

「勝人! 気合入ってるか?」
「おう! 大丈夫だ!」
「何より嫁を大事にしろ! いいな!」
「おう! まかせとけ!」
「いくぞ!」
「おぉ!」

 そのやり取りを母と娘がシラーっと見ている……いや、この場合は微笑んでいるとしておこうか。

 市役所で婚姻届を出す二人。後ろには勝人の両親が立っている。香織はバックから自分の両親の同意書を出して婚姻届に添えた。
 役所のスタッフが書類を確認し婚姻届が受領される。若い夫婦となった二人を見てスタッフが微笑んだ。
「大変な役目を負ってしまいましたね、頑張ってください」と。

 なにかW杯の優勝決定PK戦並みに緊張していた勝人だったけど、拍子抜けするようなあっけなさで届けは受理された。
背後の両親も苦笑いするほどの緊張だったのだが、それ以上に言える事は受理する側のスタッフから「おめでとうございます」だのといった言葉が一切出なかっ た事だった。

「ま、公務員なんぞこんなもんね」
 母親の一言で緊張の解けた勝人は香織を抱きしめて香織にだけ聞こえるように囁いた。初めて口にする心からの言葉──

「愛してるよ、香織」

 香織はハッと気が付いた。これは今の今まで一度も聞いた事が無かった言葉だ。
 そして何となく妊娠しちゃったような気がしていた一番の理由なのかもしれない。輝くような未来をイメージできなかった核心なのかもしれない。
『女性』にとって特別な意味を持つその言葉を始めて勝人は口にした。それも自分にだけ聞こえるように。

「うん、私も……愛してる」

 勝人の腕の中で涙ぐむ香織。今ここに新たなる夫婦が誕生した瞬間だった。

「さぁ行きますよ」
 そういって母親が歩き出した。父親も二人に声を掛けて歩き出す。

 普通、婚姻届を出した日といえば午後は親戚周りで費やされるのだけど、勝人と香織の夫婦にとって親戚デビューは後とされた。
二人が未成年である事、香織が妊婦である事、そしてなにより、勝人の妻がTSレディである事は親戚一同からアレコレ言われる原因にな
りかねないと両親が思ったからだった。

 香織が義務を果たして何の束縛も無くなったら、そのとき改めて結婚式でもやって親戚一堂に披露すれば良いだろう。そう話がまとまっていた。
 だからこの日の午後はどこへも行かず、ただ勝人の実家で一日ゴロゴロしながら色んな話をし続ける日になった。
雨が降ったりやんだりを繰り返す不安定な一日だった事も理由だろう。
 それに、明日には二人とも施設へ帰ってしまうのだ。勝人の両親だって子供たちと話をしたかった部分も大きい。
これといって昼食もとらず、母親と香織が果物の皮むきをして皆で食べたり、お菓子をかじってお茶を飲んで、話はとめどなく溢れるように続いている。
 サッカーの事、学校のクラスメートやタワーの仲間達の事、学校のシステム、供食体制や医療の体制、そして、他のTSレディ達の人生。
様々な問題が発生し批判と好奇の目に晒された結果、一般の目に触れにくい形へと移行していったTS法の現場を両親は垣間見たのだった。

 その日の夜、新たな夫婦の誕生を祝うべく、海を臨む高級ホテルのレストランで二つの家族が全部揃っていた。
皆のグラスにシャンパンが注がれる。乾杯の音頭をとるのは勝人の父親。

「新たな夫婦に幸多からん事を願って……乾杯!」

 コック長の丹誠込めたメニューが続々と運ばれてくる。おいしい…それ以上の言葉はない。しかし、この時の二人には料理の味などどうでもよい事なのかも知 れない。
きっと国道から外れた裏街道沿いに深夜まで暖簾を出しているラーメン屋のカウンターで、二人してニラレバ定食と餃子でも食べながら話をしたとしても幸せ いっぱいなんだろう。
いやむしろ、そんな何でもない日常の光景の方が今の二人には幸せかも知れない。
 妙な先入観で色眼鏡の視線を浴びる事もある香織にとって、その他多くの一般人と同じように見られて誰からも気が付かれない静かな夜は、最高に幸せかなの も知れない。

 豪華なコースの締めくくりを飾るデザートを食べながら勝人の父親が二人に言う。

「今日は二人用に部屋を取ってあるから泊まって行きなさい」

 え?と言う顔で二人してビックリするのだけど、そんなもんだよと言って勝人の父親は笑っているのだった。香織の父親も笑っている。笑いながら言う。
「結婚式の夜はお泊まりさんだよ、なんと言っても幸せな初夜だからな」と。

「誰にも遠慮する事なく二人で話をしておいで。もっとも、今まで散々話をしたかもしれないけどね」
そんな言葉を母親が漏らしている。

 勝人はふと、家族みんなが気を使ってくれている事に気が付いた。食後のコーヒーを楽しんでいる香織の手を取ってニッコリと微笑む。
その一連の動きで香織勝人の想いがわかったようだ。勝人は急にまじめな顔になってテーブルを見渡し宣言した。

「今日は僕らのためにささやかな結婚式をありがとう御座いました。今日僕の妻になってくれた人のために僕は生涯全力で守ることを誓います」

 テーブルを囲む者だけがささやかに拍手をして祝福する。続いて香織も口を開く。

「不思議な巡り合わせで今日私はこの人の妻になりました。まだまだ未熟者ですから勉強の毎日になります。これからもよろしくお願い致します」

 また小さな拍手が二人を包んだ。
 きっと幸せってこういうことを言うんだろうなぁ……
 香織は今日この日までの、ジェットコースターみたいな半年を思った。

「香織」
「なに?」
「キスして良い?」
「……うん! もちろん!」

 二人の幸せなキスがディナーを締めくくる最後の出し物だった。
 皆で立ち上がって拍手しレストランを出る。ロビーで皆に見送られて香織と勝人は最も豪華な部屋へと案内された。タワーにある香織の自室並に広いエクセレ ントスィート。
 海の見えるソファーに二人で腰掛けて海を眺めている。言葉が無くても幸せな感情が溢れてくるようだった。

「なぁ香織」
「なに?」
「ずーっと昔の話だけどさ」
「うん」

 勝人はソファーに座りなおして香織の肩をそっと抱いた。

「小さな頃はよく女の子に間違えられたじゃん」
「そうねぇ……小学校の2年位までね」
「その時俺が言ったこと覚えてるか?」
「なんだっけ?」
「女の子だったら俺が結婚するっていったんだよ」
「……そうだっけか」
「あぁ」

 香織の眼差しには信頼が溢れている。後悔は無いと思っている。
 これから自分の身に何が起こるのかを知らないわけじゃない。ただ、勝人と一緒なら何でも乗り越えていけると、心からそう思っている。

「じゃぁ」
「あぁ、なぜか知らないけど予定どおりだよ」
「そうかもね……こうなる事は予定されていたのかもね」
「香織、愛してるよ……心から」
「うん、私も……愛してる、愛しています」

 勝人はがさっと立ち上がって香織をお姫様だっこで連れていく。こうやって抱えられるのは2回目だけど、今日はとても幸せだ。ベットルームへ運ばれてそっ と下ろされる。
 香織は何も言わず微笑んで勝人を見ている。勝人は香織の服に手を掛けて一つずつボタンを外していく。

「今夜も月が出てるな」
「正体がばれちゃったからもう怖くないよ」
「まだ何か隠してないかぁ〜?」
「いいえ……旦那様に隠し事はありません」
「そうか」

 すっかり裸にされてしまった香織は、勝人が着ているYシャツのボタンを外していった。

「ここ数日トレーニングしてないよね」
「あぁ、だから島に帰ったらハードトレで鍛えるよ」
「あんまり汗臭くしないでね。私が大変だから」
「でも、今だって十分汗かいてるけどおまえ平気じゃん」
「あ、ホントだ」

 勝人も裸にされてしまって二人でベットの上にいた。勝人はそっと香織を抱く。香織は猫のように体を預けている。そのまま横になる二人。
窓の外遠くにあの日と同じく月が出ている。

「勝人……今夜も、する?」
「いや、今夜は……どうしようか?」
「好きにして」
「じゃぁこのまま静かに……」
「いいの?」
「あぁ、昨日の夜したし……それに」
「それに?」
「ずっと一緒じゃんか」
「そうね」

 そう言って香織の後ろに廻って静かに抱きしめる。勝人の両手が香織の腹を触っている。勝人の手にトントンという感触が伝わった…

「この子も祝福してくれてるのかな」
「きっと『入ってます!』って言ってるよ」
「参ったな」
「男の子かな女の子かな」
「どっちでも良いよ」
「そうだね」
「今日は色々あって楽しかったなぁ」
「これから毎日楽しくなるね」
「あぁ……きっとそうだな」

 そう言って二人して抱き合ったまま眠ってしまった。疲れていたわけではないけど、何となく眠くなって寝てしまったという感じだろうか。

 窓の外、遙か38万キロ彼方にぼんやりと輝く月が見えている。何となくぼんやりと見え始めた二人の幸せな未来のように、朧気な姿だけど確実に見えてい た。


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