「話を聞いていますか?」
その人物──橋本と名乗った厚生省の若い役人はやや疲れた表情をしてそう言った。
無理もない。橋本は今日一日だけで28人の少年に同じ事を言っているのだ、そしてこの少年で29人目なんだろう。
少年はなにか酷く悪い夢でも見ているような……いや、むしろそう信じたいのだろうけど、彼の耳に今入ってくるのは絶望的な現実を実感する言葉ばかりだっ
た。
「あの、すいません……あの、なんかよく理解できなくなってきました」
橋本は極めて事務的に振る舞っていた。しかし、そこで初めて背もたれに体を預けるように椅子を座り直すと、左手でおでこをさすりながら視線を切って何か
を考えていた。
無理もない話だ。年端の行かない少年達──僅か15歳の中学校を卒業したばかりの子供たちに、日本が抱える絶望的な現実を『教育』して、
そしてさらには嘆かわしいその身に掛かる運命を納得させなければならないのだ。
悪名高きTS法が成立したのは西暦にして2050年のこと。21世紀の初頭、日本では人口構成の歪さが問題になり始めていた。
少子高齢化問題を解決する省庁横断型大臣が任命され、主に厚生省と総務省が様々な問題へ取り組んだ。
しかし、税制上の優遇措置や契約結婚制度の整備などをした所で、夫婦は増えても子供が増えない現実は重くのし掛かっていた。そして日本が最も恐れていた
事が現実になる。
2015年には人口の本格減少が始まり2049年、日本の人口は遂に1億を切った。僅か50年足らずで人口が1/3に減ってしまった原因は色々と取り沙
汰された。
鳥インフルエンザに始まった新種の感染症問題、少子高齢化より景気回復を優先したデフレ脱出を目標とする労働時間規制緩和措置、
男女雇用機会均等法とジェンダーフリー法による女性労働者の労働強化による出産環境の悪化、そして賃金格差。
結婚しない、結婚できない、子供を産めない、3無い時代と呼ばれた40年が2050年の時点で未成年者人口1000万人割れを招いた。
GNP=国民総生産が世界ランキング10位を下回った時点で、国内は騒然となった。
その結果、子供やその親の意志を全て無視するTS法が生まれた。
特別に選抜された男子生徒を強制性転換し、20歳までに最低2人の出産が義務付けられる措置、TS法。
人権団体も無視できなくなった現実がすべて平等と言う理想を引っ込めざるを得なくなってしまった。
そして今、一人の男子生徒がこのホテルのサロンのような部屋で、黒ずくめの大柄な男二人が背後に立つ環境下で橋本の話を聞いている。
「確かに……いや、そもそも納得しろなどと言う事自体無理なのは良く判っているよ」
橋本は初めて事務的ではなく、生きた人の言葉として少年に語りかけ始めた。
「今まで君は男として生きてきたし、ここまで大きくなった。将来の夢はサッカー日本代表だったそうだね。君のことは全部調べさせて貰ったよ」
額をさする手が止まって、まるで彫像のように固まった橋本はフゥと一つ息を吐いて、一気に喋り始めた。
「今君が置かれている状況は絶望的なものだよ。極めて平等な選出法によって選ばれた君には申し訳ないけど、とにかく運が悪かったとしか言えないんだ。
今の君には逃げる権利も方法も無いし、それに、もしそれが成功したとしても君の親族、そう、お父さんやお母さんや弟さん、家族みんなが酷い目に遭う事にな
る」
「もう受け入れるしかない状況なんだよ。まぁ、これから言おうと思ったんだけど……最後の最後でたった一つだけ逃れる方法があるけど、それは後で話をしよ
う。
でもね、とにかく絶望とか落胆とか、酷い言葉ばかり使ってきたけど、悪いことばかりじゃないんだよ」
いつの間にか少年は橋本さんの目をジッと見て話に聞き入っていた。
「僕は今33歳になるが、毎月の給料から差し引かれる税金の額は支給額の35%に及ぶんだ。そしてそれ以外に、お金を使えば消費税として13%を請求され
るんだ。
でも、TS法によって女性になって25歳までに4人以上の子供を産むとどうなると思う? 基本的に税金は全部免除になるんだよ。
買い物をするときだってTSカードを提示すると、消費税は国庫負担と言ってね、要するに君は払わなくて良いんだ。
それだけじゃないよ。まぁ、今の君にはどうでも良いことかも知れない。
飛行機や電車だって普通の人よりは大幅に安い値段で使えるんだ。もちろん君の大好きなサッカーだって、スタジアムはフリーパスだよ。
そういえば今度のワールドカップにもTS招待席が設置されるそうだ。今じゃチケットを巡って暗殺や買収まで行われる有様だけど、君がこの運命を受け入れた
らフリーパスだよ」
橋本はここまで言うと寂しそうな笑顔を作って両手を左右に広げ肩をすくめた。
「だからといって、それがどうした?って話なのは良く判っている。君の人生が大きく変わってしまうことになるんだからね」
その言葉の後、重苦しい沈黙が3分位続いた。3分というのは感覚的な物だ。この部屋のどこにも時計は無いし、窓も無い所だから時間の経過を知る術もな
い。
もしかしたらホンの10秒程度の沈黙だったのかも知れない。
橋本は何か意を決したように胸のポケットから銀色のケースを取り出した。音もなく蓋が開いたそのケースには飴みたいな物が2つ入っていた。
赤と青の飴、それを左右の手に一つづつ持ち直して橋本はまじめな顔になった。
「良いかい? よく聞いて欲しい。僕の右手にある薬は運命を受け入れる赤の薬だ。これを飲んでしまうとすぐに眠くなる。
そして次に目が覚めた時、君は新しい自分に出会うだろう。誰もがうらやむような美しい女性になっているはずだ」
そう言って右手をゆっくりと開いてよく見ろと言わんばかりにやや手を持ち上げた。そして今度は左手を広げて、また、よく見ろと言わんばかりにやや手を持
ち上げた。
「こっちの薬は全てを拒絶する青の薬だ。君の運命は過酷で残酷でそして理不尽だ。しかし、この薬を飲むと全てから逃れられる。すぐに眠くなって──」
少年は思わず言葉を繋いだ。多分言う事はこれしかないだろう、そんな予感が頭にあった。
死だ。きっと毒なんだろう。それを確かめるようにやや強い口調になった。
「眠くなって、どうなるんですか!」
橋本はゆっくりと目をつぶり答えた。
「永遠の眠りにつくことになる……そうだよ、死ぬ薬だ。死んでしまえば全て忘れてしまえるよ」
ゆっくりと目を開いた橋本はいつの間にか涙目になっていた。
唇がワナワナと震えている、そして固く口を結んだ後、絞り出すようにこういった。
「生きていれば良い事もあるだろう。死んでしまえば楽になるだろう。僅か15歳の君に選択を迫る不甲斐ない大人を許して欲しい……さぁ……選んでくれ」
そこまで言って橋本の右目から一筋の涙が流れた。真剣さだけが伝わってくる。
あぁ、きっと俺は良い担当に出会ったんだ。少年は心からそう思えた。
ゆっくりと延ばした少年の右手は空中を泳ぐようにゆっくりと橋本の右手へと伸びていった。しかし、毒々しいほどに赤い飴玉の直前で右手が止まった。
ホンの一瞬、そうホンの一瞬だ、瞬間的に少年の15年分の人生がフラッシュバックしたような気がした。小学校の卒業式が生々しく思い出された。
中学校の修学旅行が蘇った。幼稚園のあの下手くそな歌が思い出された。
そして、とても大きく優しい目を思い出した。天井を見上げる少年の顔を覗き込んで微笑む大きな優しい目。お母さんの目だと気が付いた時に橋本は口を開い
た。
「本当に良いんだね?」
気が付けば俺は赤い飴玉を右手にとってシゲシゲと眺めていた。手の上に乗る赤い飴玉、いや、その薬は細長くやや曲がっていた。本当に毒々しいまでの赤
だ。
後に立っていた大男が大きなグラスにたっぷりと水を注いで少年に差し出した。
全く無言で表情のない顔だけが不気味だった。
少し水を口に含んで、大きく息を吐いた。知らずに涙が溢れてくる。グラスを持つ手が震える。体中がこわばって小刻みに震えていた。
ふと顔を上げたら橋本は涙をハンカチで拭っていた。そして両手で顔を覆い何かを呟いていた。
唇だけが見える状況で呟いていた。申し訳ない……申し訳ない……
意を決して薬を勢いよく口に放り込み一気に水を飲んだ。グラスにたっぷり500ccは注がれていた水を全部飲み干した。
空になったグラスを眺めながら、ふと少年は我に返って思った。
これからどうなるんだろう? 俺はどこへ行くんだろう?
急に後へ引っぱられるような睡魔が来た。世界がグワーンと歪んでいく感じがした。目の前の椅子に座っているはずの橋本が急激に遠くに行ってしまうような
錯覚に陥った。
そして椅子へ倒れ込んだ。最後の力を振り絞って目を開いたそこには、あの黒ずくめの大男が立っていた。
薄笑いを浮かべていたような気がしたけど、薄れ行く意識の中でその理由が解らなかった……
◇◆◇
「名演でしたね橋本主任。最短記録の18分ですよ」
大男はグラスを片づけながらそう言った。もう一人の男は眠りに落ちた少年の足を揃え、ストレッチャーに乗せる用意をしながら相槌を打った。
「このガキ、主任の演技信じ切ってましたよ。まぁ、年端の行かないガキを騙すなんて簡単なもんですけどね」
そう言って大男は二人して笑った。顔を覆っていた橋本は、肺の中の空気を全部吐き出すように息を付くと、ハンカチで額の汗を拭った。
「いやいや、途中で危なかったよ。最後は笑いを堪えるのに必死だったね。まさかこの少年が泣き出すとはねぇ。まぁ、感動の中で新たな人生に踏み出すんだ。
良い事じゃないか」
せせら笑いを浮かべながら橋本は携帯電話を取り出してどこかにダイヤルした。
「あぁ、俺だ、橋本だ・お疲れさん、29人目の候補者、たった今説得を完了したよ。うん、今回も赤玉だ。今月はまだノーミスだぞ! インセンティブボーナ
ス頂きだ!」
大男二人は少年をキャスターベットに乗せて上から毛布をかぶせ、更にその上からベルトで固定した。
「たった今固縛を完了した。国家の為に犠牲になった可哀想な少年に、新しい人生をプレゼントしてやってくれ。あぁ、そうだ、とびきりの人生だ」
くっくっく……失笑を漏らす黒ずくめの男二人と共に橋本は出ていった。
たった今15年間の男としての人生を終えた少年と共に……
少年の意識が全くない状況で、少年は全ての権利を剥奪され新たな人生へと歩みだした。