伏見問答
「中納言殿」
呼ばれて、畳に落としていた目を上げた。視線を向けると、家康はわずかに体を傾けて、庭を見ている。
麗らかな日和だった。鳥のさえずる声と、木の葉擦れのささやかな音のほかには、静かなものだ。
「中納言殿は、いまの天下を、どう見られる」
今日の天気でも尋ねる響きで、家康はのんびりと言った。
どう返したものか、景勝は迷った。
迷って、いつもどおり、黙っていることに決めた。
こうしたことは、さきに相手に語らせてしまったほうがよい。
「ここには、わしと中納言殿しかおらぬな。だから、言っておくかな」
こちらを見ずに、家康は続けた。やはり、ただの世間話の口調だった。
「わしは、もらうぞ」
なにを、などと言わずともわかる。驚きもなかった。そうだろうな、と思っただけだった。
太閤秀吉の治世に、思うところはいくつもある。いくつもの歪みが見てとれ、それを直すため、あるいは隠すために、子飼いの能吏たちが奔走している。皮肉なことに、それがまた新しい歪みを生み、もはや塗り込めても追いつかぬほどひび割れかけてもいた。
時が足りなかったのだろうか。急ぎすぎたのか。そう考え、否、と思い直す。そうでもあるが、それだけではない。
景勝は武人だった。感じるものは、秀吉よりむしろ、家康のほうが強かった。
意地の張り方に、どこか通じるものがある。家康は、表向き臣従というかたちになった今でも、頭は下げ膝を屈しても、心までは服さぬという姿勢を曲げていない。三河者の無骨さともいえようが、秀吉の、どこか及び腰にみえる態度も、過剰なほどの警戒も、そういったところにあるのだろうと景勝は思った。
そうしていながら、家康の物腰は柔和で、居丈高でもない。伝え聞く生来の気性の激しさは、年を経て角が取れたのかもしれないし、石田治部少などに狸爺と陰口をたたかれるとおり、何枚か皮を被っているのかもしれなかったが、そういったことは景勝には興味がなかった。
(見ていればわかる)
家康は、注意深く太閤の天下を眺めている。一歩引いたところで、冷めた目で見極めようとしている。世代交代が進んでいても、事あらば、と考えるのは不思議なことでもなんでもなかった。彼はそういう時代に生きていた。
そしておそらく、望むと望まぬとに関わらず、似たような位置に立つ景勝自身も、世間からそう見られている。こうして語る家康も、そう見ていることは疑いなかった。
時代遅れだと、太閤子飼いの者たちは──とくに石田などは考えているだろうが、ほんとうに脅威だと思っているふしはあまりない。それはとりもなおさず、太閤秀吉が生きているからだった。
豊家の治世が揺らぐことなど、露ほども思っていないに違いなかった。
それも仕方のないことだった。彼らはある意味では乱世の申し子であり、ある意味では乱世を知らずにいた。
織田が伸長し、秀吉が地位を得てから取り立てられた者が多かった。それは、楽な戦などはなかっただろうが、いわばとんとん拍子に駆け上がった経験をもつものばかりだったのだ。所領は手柄をたてれば貰え、転々とうつるたびに雪玉のように増えるものだった。
それはとりもなおさず、父祖よりつづく家と家臣領民を守るため、泥を食み血を啜って生き延びる経験がないということだった。
(だから、右のものを左にやるように、国替えなどと言えるのだ)
会津へ移封と告げられたとき、景勝はいったいなにを言われたのかわからなかった。
きっかりふた呼吸ぶん咀嚼し、ようやく頭に血がのぼった。
憔悴した直江に当たり散らしたことをおぼえている。われらがなにをした、湖が染まるほどの血を流し、海が辛くなるほどの涙を流してまもった地をなぜ取り上げられねばならぬ、歯を食いしばって膝を屈し、地を睨みつけて奉公をした挙げ句がこれかと、さんざんにののしったあとで、ふとむなしくなったのだった。
天下に膝を屈するということはこういうことかと、いまさらながらに合点がいったのだ。
これよりさきに、父祖の地である三河より関東へ移された家康のことを、そのとき景勝は思った。おなじ屈辱を、家康は景勝よりさきになめた。そしておそらく、しぶしぶ下げた頭を力任せに押さえつけられる屈辱のない、己の天下を――景勝と同じように、思ったのにちがいなかった。
(天下など、わしには負えぬ)
思いはしても、手をかける思い切りは、景勝にはない。天下を手にして、秀吉は狂った。伝え聞く信長も、そうであったという。それを間近で見ながら手を伸ばそうとする家康を、景勝はじっと見つめた。
この老人が、いったいなにを考えているのか、景勝にはわからぬ。わからぬが、思い出すものはあった。
意地を張って、生きてきた。武士の意地、領主の意地、大名の意地、そういったものを張り続けて生きていた。景勝の一生は、意地で出来ていたといってよい。家康も、そうであったろう。
「中納言殿は」
言いかけて、家康はふと口をつぐんだ。言わずもがなであったことに、気づいたのに違いない。いやいや、とひとりごち、好々爺然とした笑みを深くした。
「中納言殿とは、戦いとうはないものよ」
「……某は、戦うてみとうござる」
かえるとは思っていなかったのだろう、景勝の返事に驚いた様子で、家康は丸い目をいっそう丸くした。二度のまばたきのあと、ふと苦笑した。
「いまの世に、内府殿より戦巧者はおりますまい」
天下に野心がないわけではなかった。しかし景勝は、己の器もまた知っている。天下を掴む器量ではない。ないが――天下にどれだけの器か、知りたかった。家康の向こうを張って、どれほどやれるのか。直江などはあれこれ持ち上げるが、ほんとうはどれほどのものか、景勝自身が知りたかったのだ。
家康が、深くため息をつく。
「それも、また、重き荷、長き坂のひとつかの。……」
独り言めいたそれには答えず、景勝はまた口をつぐみ、庭に目をやった。ここだけは平和な、大事にしつらえられた箱庭であった。
軽いくせ、踏みしめるような足音が響き、ふたりは居住まいを正して頭を下げた。
かつての力強さを失った音に、その日の近いことを、景勝は知った。
――されば、上杉会津中納言に謀反の兆しありとの報せ数度に及び、内府、詰問使を会津に送りしも、中納言、上洛を拒み、徳川内府の専横を断じて会津に籠もれば、内府大いに怒りて、会津征伐の軍を興す。慶長五年六月のこと也。
――これよりのち、上方にて石田治部少、内府向こう面に兵を興す。これぞ後世に名高き関ヶ原合戦也。
〈終〉