聚楽問答

 義兄の顔を見、金吾はふと不安な心持ちになった。
 この夏に、義父の太閤には念願の嫡子が誕生した。鶴松を亡くしてから二年、義父の喜びようはたいそうなものだった。鶴松夭折のおり、魂をなくしたような義父の様子をみていた金吾は素直に喜んだのだったが、ちかごろ不穏な噂を耳にした。
 義父が、義兄に関白職を譲ったことを、ひどく悔やむような言葉を漏らしたという。
 まだほんの十三にしかすぎぬ若造の、自分の耳に入るようなことだから、義兄が知らぬはずはない。そわそわと落ち着かぬ気持ちを抑えきれず、金吾は節句の見舞いと称して、聚楽第の義兄をたずねてきたのだった。
 義兄は、十四も年下の金吾をとてもかわいがり、なにくれと面倒を見てくれていた。金吾が見舞いにきたといえば、忙しい政務を切り上げて金吾の待つ間へやってくる。その、嬉しそうな義兄の顔を見て、金吾の心は騒ぐ。
 (義兄上は、こんなにやつれていただろうか)
 海を越えて出兵した先から届く知らせは、近頃ではひどく精彩を欠くようになっていた。
 はじめこそ勇ましい戦果を華々しく届けていたが、平壌を落としたという知らせが峠だったように思う。それより徐々に後退をはじめ、いまでは漢城も撤退し、釜山周辺へ陣を移し、和平交渉をはじめていた。
 対岸の肥前名護屋城では、すでに厭戦気分が蔓延してしまっていて、とくに負担の大きい九州各地では、負担に耐えかねた民の逃散が止まらぬという。さらに相次ぐ大がかりな普請で、大名家の困窮は極まりかけているという。関白として政治を預かる義兄の負担は相当なものだろうと、幼い金吾にも知れた。
 「義兄上、お体はもうよろしいのですか」
 手ずから渡された饅頭を両手で頂き、金吾はおずおずと訊ねた。つい先日、持病の喘息を悪化させた義兄は、熱海へ湯治に出かけていたと聞いている。あの噂が心痛になっていないかと、金吾は心配でならなかった。
 「……お辰は、良い子だな」
 幼名を呼んだ義兄が、ゆっくりと金吾の頭を撫でる。よちよち歩きの頃からかわいがってくれた義兄は、いつまでもそのころのように金吾を扱うのが癖だった。いつもなら子供扱いをするなと怒るところが、今日はなぜか胸が詰まって、たまらず金吾はうつむいてしまった。
 突然膝へ抱え上げられ、驚いて見上げると、義兄は微笑んでぎゅうと金吾を抱きしめた。小さな子供をあやすように体を揺らし、大きな手でゆっくりと背を撫でる。
 「お辰は、良い子だ」
 もう一度繰り返し、また背を撫でた。
 頬を広い胸に押しつける。心の臓が鳴る音がする。
 「なぁ、お辰」
 しばらくそのまま、ゆらゆらと揺らされるままにしていると、義兄はぽつりと呟くように金吾を呼んだ。
 「はい」
 こたえれば、揺らす体はそのままに、義兄はまた黙った。
 息を詰めて待つ金吾の上に、小さなため息が降る。
 「お辰、義父上は、こわい人だな」
 義父の名が出て、金吾は反射的に身を固くした。やさしく撫でられる手に合わせて、細く息を吐き出すと、義兄はゆっくりと金吾の髪に顔を埋めた。
 「…… おれは、もう、きっと」
 ささやく声音で、そこまで言う。続きを聞いてはいけない気がして、金吾は義兄の着物の端を、ぎゅうと掴んだ。
 「お体を、お大事にしてください。義父上は、もう、お年を召していらっしゃるのですから……」
 拾のためにも、と言おうとして、飲み込んだ。金吾を抱く力が強くなって、呼吸が詰まる。
 ──きっと、そのとき、避けられない結末を、ふたりとも知っていたのに違いなかった。


 

──文禄四年七月三日、豊臣羽柴関白秀次、悪逆非道の行いの末謀反の疑いありとて、太閤より出家命ぜらる。八日、関白伏見へ釈明に赴くも、福島左衛門尉に阻まれ、高野山へ出家せられ、豊禅閤と称せらる。十五日、太閤より切腹仰付らる。
 ──小早川金吾秀秋、関白と同心ありとて、所領丹波亀山没収せらる。後に関ヶ原合戦に於いて徳川内府に内応し、東軍に合力せしは、此時の遺恨ありしぞと囁かるなり。

 

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