垂井問答
まだ歩きなれぬ城の廊下を、孫九郎は擦るように歩いた。夜はとうに更けていて、月は真上からはや傾きかけている。
孫九郎が幼君より垂井を拝領したのは、ほんの数ヶ月まえのことだった。幼君より、といえば聞こえがよいが、実質徳川内府から貰ったようなもので、おそらく天下はこのまま内府のもとへ滑り落ちるものと、孫九郎は思っていた。
誰もが、そう思っていた。
(内府が天下を受け止めると困る者は、いくらでもいるのだ)
困る者の筆頭と目された男は、そう言って笑った。孫九郎の好かぬ笑い方だった。
太閤の死後、あのころ誰もが予測したように、天下が崩れることはついぞなかった。といって、太閤の徳のため、などと無邪気に有り難がるほど、甘い見方をしている者もいなかった。ひとえにそれは、前田・徳川という大大名が取り仕切ったからで、それ以上でも以下でもなかったのだ。
次の『殿下』はどちらか──在番の諸将で、ひそかに賭けあったのを覚えている。
太閤がどうして天下様と呼ばれるようになったかなど、それこそ天下に知らぬ者などいなかった。
幼君を擁した守役の前田か、政を一手に取り仕切る徳川か。あのころみなの関心事といえば、いつ事が起こるか、いかにして勝ち馬に乗るか、そればかりだった。
結局事は起こらず仕舞いで、前田大納言は彼岸へ立ち、徳川内府の権勢はもはや揺るぎない。
朝鮮役の論功行賞すらまともにできぬ豊臣政権よりは、置目に反しても行おうとした内府へ諸将が流れるのも当然でしかなかった。忠義や恩義で家臣は養えぬし、そもそも太閤にどちらも持たぬ者とて少なくはない。そして──徳川内府は、その筆頭でもあったのだ。
その内府が、上杉を討つとして会津に下向した。孫九郎は、かねてより親交深い大谷刑部少輔の与力として、ともに下向するはずだった。
病を得、目を悪くした刑部少輔が輿で到着したとき、彼はとても嬉しそうだった。罹患の後、塞ぐことの多かった彼にしては珍しいことで、孫九郎は何かよいことでもありましたかと訊ねたのだった。
「治部から、連絡があってな」
介添えの手を借りながら、刑部少輔は心なしか弾んだ声で話した。
先頃、かねてより憎まれていた者たちから襲撃を受けるという醜態を演じたかどで、所領佐和山に蟄居する石田治部少輔を、孫九郎はあまり好んではいなかった──というより、はっきりと嫌っていた。だが刑部少輔は、なぜか治部少輔と親交深く、ともに太閤の小姓であった頃から、ともすれば他の者と軋轢を産みがちな治部少輔の面倒をなにくれと見ていたのだという。
「嫡子の隼人を、会津へ参陣させてもよいという。追々知らせが来ると思うから、しばらくこちらで待たせて貰っても構わぬだろうか」
嫌も応もなかった。一頃よりはずいぶんよくなったとはいえ、病の身に敦賀からの長旅なのだから、疲れを癒やす意味でも数日は留まるべきだった。
目を病んだ彼に、ようやく手に入れた城を見て貰えぬのは残念だったが、天下の名城には及ばぬにしろ、それなりよい城だと自負してもいる。ゆるりと身を休め、久々に語り合うのも悪くないと、そう思っていた。
今にして思えば、あのまま何も聞かず、会津へ発っていればよかったのだ。
あれからずっと、孫九郎は悔やみ続けているのだった。
幾日たっても、治部少輔の使いは訪れなかった。こちらから何度も使いをやったが、そのたびに治部少輔からは、「刑部少輔殿に佐和山までご足労願いたく」などというしらじらしい返事がかえってきた。
病とわかっている刑部少輔をわざわざ呼びつけるなど、そのまま彼を捕らえてしまうつもりに違いない。彼の家臣も、孫九郎もそう主張した。彼はひどく迷ったようだが、結局は佐和山へ赴くことになった。
──そうしたら、治部少輔は言うに事欠き、ともに内府を討とうなどという。
激怒した刑部少輔はとりすがる治部少輔を突き放して、垂井に戻った。
しかしそれから、彼は逡巡を見せ、東下に踏み切れずにいる。……
「これは、平塚様」
前触れもなく訪れた孫九郎に、夜番が居住まいを正す。夜更けに訪れた非礼を謝して、刑部少輔の様子を聞くと、夜番はわずかに逡巡して、お待ち下さい、と残して立った。
ほどなく戻った夜番が孫九郎を促し、刑部少輔の寝所の前まで来ると、灯りが落とされている。音もなく障子が開かれたところに、わずかな手燭の灯りが漏れるばかりで、孫九郎は眉を寄せた。
「お休みなのでは」
声を潜めて訊ねると、障子を開けた宿直──確か、湯浅五助といった──は首を振り、体をずらして促した。
「燭の灯りはもう見えぬから、無駄なことはよいと申されて」
手燭を持ち、五助が奥への簾越しに声を掛けると、「お通しせよ」と落ち着いた声が届く。
一つ深い息をして、孫九郎は暗い部屋へ足を踏み入れた。
簾をあげ、踏み入ると、板敷きの床がぎしぎし鳴る。その音に誘われるように、刑部少輔は孫九郎のほうを向いた。
「すまぬな、因幡殿には不便であろう」
身を向きかえ、刑部少輔は五助に灯を指示した。使われていなかった燭に灯が入れられると、ぼんやりと橙の明かりに、練絹を纏い座した刑部少輔のすがたが浮き上がった。
「人払いをしたほうがよろしいか」
刑部少輔の訊ねに首を振り、ああと気付いて、「いえ」と声に乗せた。
「構いませぬ」
五助もあの場にいたことだから、特に聞かれて困ることはない。言外にそれを滲ませると、刑部少輔は小さくため息をついた。
「いかがなさるおつもりです」
あれから、佐和山には二度、使いをたてた。そのうちの一度は、孫九郎がたった。治部少輔は、刑部でなければ意味がないといって取り合わず、孫九郎はまた治部少輔への忌避を強めるという有り様だった。そのたびに刑部の表情は暗く陰り、口数は減った。
「このままにはしておられませぬ。内府ははや、江戸へ到着したことでありましょう。退き口ならともかく、参陣のしんがりなぞ、笑いものになりましょうぞ」
孫九郎が語気をやや強めると、刑部少輔は比例して弱めた声で「うん」とこたえた。
わかりきったことを言う意味を、彼も理解はしているのだ。このまま、宙ぶらりんでいるわけにはゆかぬ。内府は、刑部少輔へ内々に、上杉との折衝を求めていた。ここで上手く纏めれば、病で一線を退かざるを得ず、諦めかけていた加増への道も見えてくる。友人とはいえ、下手を打って失脚した相手にかかずらわって、せっかくの機会をふいにするべきではないのだ。
「因幡殿。……わたしは」
刑部少輔が、ひとりごとのように孫九郎を呼んだ。
わたしは、と繰り返し、しばしとどまる。
「怒らないで聞いて欲しい。……わたしは、治部に、ともに起とうといわれた、あの時に」
ぽつぽつと紡ぎ、刑部は見えぬ目を開いて笑った。
「わたしは、思ったのだ。戦場で死ねるのかと」
刑部がゆっくり落とした瞼に、孫九郎は後ろから殴られた思いで途方に暮れた。
弱音を吐いてもいいだろうか、とこぼした刑部少輔に、否と言うことはできなかった。
「わたしは、因幡殿、このまま朽ちるくらいなら戦場で死にたいと、そう思ってしまったのだよ。そして、その誘惑から、逃れられなくなった」
「しかし、それでは」
思わず挟んだ声に、刑部少輔はゆるゆると首を振った。
「わかっている。わたしは一国を預かる身、家臣や領民のことを思えば、負けるとわかっている方に賭けるなど、あってはならぬ。……わかっているのだ」
うなだれてしまった刑部少輔を見、孫九郎は言い募ろうとした喉を詰まらせた。
(俺がもし、刑部殿のような立場であったなら、やはり……)
孫九郎とて武人である。刑部少輔の迷いは、刃の鋭さで孫九郎を抉った。
会津征伐が徳川内府の思うように進めば、刑部少輔の加増は間違いなく、このまま天下は内府の手に落ちる。そして、死地を得ることなく、刑部少輔は病に朽ちてゆくはずだった。……
「情けなや!」
夜闇とともに落ちた、重苦しい沈黙を破ったのは、簾越しに響いた五助の声だった。
「わが主が、これほど女々しき人とは思いもせなんだ。なんと情けなや」
「五助、刑部殿になんという口を」
「よい、因幡殿。五助、なにか言いたいことがあるのであろう。遠慮せずに言え」
慌てて止めに入ろうとした孫九郎を制し、刑部少輔は五助を促した。
「それがしは、情けのうござる」
ぐず、と鼻を啜る音とともに、五助はまた繰り返した。刑部少輔が、薄明かりの下で苦笑する。
「それはわかった。なにが情けないというのだ、言うてみよ」
「されば、なぜ殿は、我らにともに死ねと言うてくれぬのじゃ!」
語尾を震わせた五助の言葉に、刑部少輔は息を呑んだようだった。
「大義名分など、後からどうにでもつければよいのじゃ。殿に仕えて、殿の苦しみを知らぬ者なぞいるものか。病で死ぬのは厭だ、戦場で死にたいのだ、みなともに死んでくれと言えばみな喜んでお供しようほどに、なのに殿はぐじゃぐじゃと、これを情けないと言わずしてなんと言うのじゃ」
咳き込むように一息で並べたて、五助はまた大きく鼻を啜った。
ちらと刑部少輔を盗み見る。吸い込んだままとどめていた息を、長く吐くのが見え、孫九郎は揺れる燭の火に目を落とした。
命を惜しむな、名を惜しめ、そう言い合って戦場に出た日々は、もはや遠くなりつつある。
戦を押さえ込みながら、いっぽうで戦を続けるしかなかった太閤の瓦解を、内府はつぶさに見極めた。このまま内府の天下になれば、内府は今度こそ戦を止めるだろう。幼君には対抗する力もなく、名を上げる機会は消える。
そうなれば、孫九郎は、垂井の小大名として、知行録の隅に記されるばかりに違いなかった。
このままで終わるのか、歴史に埋もれて死ぬのか──くすぶる気持ちは、孫九郎の心底にも、確かにあったのだ。
(どうせ死ぬならば、後世に名を残す働きをして死にたい)
むくむくともたげる思いを押さえきれず、孫九郎は低く笑った。
太閤のもと、とんとん拍子に駆け上がった刑部少輔を、孫九郎はどこか甘ったるい、柔らかいものと思い込んでいたことに、はじめて気づいた。孫九郎とおなじ気概と鬱屈をもつ、ひとりの武人であると、はじめて気づいたのだった。
居住まいを正し向き直ると、床のきしむ音につられて刑部少輔が顔を向けた。憔悴したそのおもては、濁った目の底に、小さな火を灯している。
「それがしにも、ひとつ名を上げる機会をくださらんか」
きっぱりと言うと、刑部少輔は目にみえて狼狽した。手探りでにじり寄り、孫九郎の膝を捕らえると、跡がつくほどきつく袴を握りしめた。
「何を、因幡殿」
唇をわななかせ、それだけをようよう呟いた。鼻を啜る音が、また背中から聞こえた。
「義によって、と言いなされ。大谷刑部は、義によって、石田治部に加勢いたすと。それがしは、義によって、大谷刑部に加勢いたしまする」
震える唇を見下ろし、孫九郎は痛快な気持ちで笑った。
ばかな、と力なく呟いて、刑部少輔は深くうなだれた。
「治部は、勝てぬ」
「やってみねばわかりますまい」
「勝てぬのだ。あれでは勝てぬ。負ければ、ただでは済むまい。ようやく、因幡殿は、ようやく所領を得たのではないか。それをあたら」
「それがしは欲が張っておりましてな。この程度では満足出来ぬのです。──これで終わりとうはないのです」
しかし、となおも言い募る刑部少輔の拳を、孫九郎の荒れた手が包むと、ようやく言葉を切った。
記憶にあるよりずっと窶れ、筋張った手の甲を、あやすように撫でる。
「内府は慌てましょうな。会津にある諸将も、驚き、動揺しましょう。あの大谷刑部が、と」
文字どおり、激震が走るに違いなかった。誠実理知で聞こえた大谷刑部少輔が、石田治部に与するなど、誰も思いもよらぬに違いないのだ。そしてその動揺が、思いもよらぬなにかを動かすかもしれぬ。
「勝てぬ。であれば、勝つ積もりで負ければよい。私欲にあらず、ただ名を惜しむばかりと。──ともに、立派な死に花を咲かせましょう」
「……ともに」
「ともに、にござる」
てのひらに包んだ拳が、ひとつ大きく震えた。力を込めて握った手のうえに、ぽたぽたと滴がおちた。背中越しの五助は、いつしかむせび泣き、嗚咽を噛み締めていた。
(刑部殿とともにならば、死出の旅路も楽しかろう)
震える肩を見下ろし、孫九郎は思った。
──されば平塚因幡守、東軍の猛攻を撃退せしこと数度にわたり、もはやこれまでとて、大谷刑部少輔へしばしの別れなりしと辞世を送るに、
名のために捨つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば
斯くて平塚因幡、東軍のさなかへ馳せ入りて、遂に打ち取らるなり。大谷刑部少輔、大いに感じ入り、返して曰く
契りあらば六つの巷に待てしばし おくれ先立つことはありとも
とぞ詠む。小早川金吾が手勢迫り来たるに、大谷刑部もまたこれまでとて、見事に腹を切り果てたり。敵に我が首渡すまじとの主命なれば、大谷が首、近侍が持ち去り、今に至るとも行方知る者無し。──
──又曰く、平塚因幡が辞世、斯く斯くと伝わりしけるも、もはや真偽定かならずとて、仮に記すものなり。
君がため捨つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば