ささくれ
情交は好きだ。
別に、誰とでもよい。情も、なくてよい。ただ、素肌に触れていると、なにかから赦される気持ちになる。
布で隠されたものを触れ合わせるだけの行為に、どうしてそんなことを思うのか、自分でもよくわからない。ただ、足下にぽかりと開いた大穴があって、そこから冷たい風が吹き付けてくると、どうしても耐えられぬのだった。
ぽろりとこぼしたら、哀れげな目をされた。
「ええ身なりをして、立派な拵えの刀まで差したはるのに、難儀なお人やなあ」
行きずりの女だ。そう下賤の生まれにも見えぬが、どうかは知らぬ。
声をかけると、ついてきた。どうせ、顔につられたに違いない。それなり、整った面であることは、自覚がある。
ついさっきまで睦んでいたというのに、肌が離れてしまうと、もうこれなのだから、確かに、難儀な男だろう。
「好いたお人は、いてはらへんの」
「好いた」
「……ま、いててもどうでも、叶うんやったらこないなことしてへんわね」
ひどく突き放すように、女は笑った。自分のことを言っているのかもしれぬ。叶わぬ想いを抱えているのか。そう思うと、なにやら親しみに似た気持ちがわいてくる。
「叶わぬ、というか」
「うん」
女は、話を聞いてくれる気になっているようだ。
「叶ったら、どうしていいのかわからん」
「なんで?」
「欲しいものを、自分で手にしたことなどなかった。ものも、ひとも、こころも。だから、どうすればよいのか、これっぽっちも見当がつかない」
ものも、ひとも、お仕着せである。武家のならいだ。武家でなくても、そんなものかもしれぬ。父母も兄も、いま生きる誰もみな、そういうものだと割り切っているだろう。
決められた妻を娶り、肌を合わせれば情もわく。そういうものだ。自分にも、ないとは言わぬ。年の離れた妻は、初々しく素直で、可愛らしい。愛しい、と、思うときもある。
――ただ、それが、誰かを重ねたものでないかと言われれば、否と言い切れぬ。
鬱屈する思いは、ちいさなことにもささくれる。ほんのわずかなささくれが、くだらぬものにひっかかり、大きくなる。
実に、難儀なものだった。
「そんなしんどいこと、やめてしもたらええのに」
そうやって凄惨に笑うから、女は怖い。ひきずって、ひきずり回して、ぽんと棄ててしまえる。棄てれば、あとは路傍の石ほどの価値もないのだ。
さんざんひきずり回している最中らしいその女は、またそっと寄り添ってくる。
慰めてくれるつもりなのか、慰められたいのか。そんなことは、どうでもいい。
どちらも慰みになるなら、どちらも損はしないだろう。
袷を割って、触れた肌は、柔らかい。女の肌だ。
あのひとは、こんなではなかった――そう、ちらりと思ってしまうので、またささくれは大きくなった。
***
はじめて会ったのは、大坂へ人質に出されたときだったはずだ。
それまで信繁は、上杉にいた。これも人質である。上杉はおもいのほか役にたたぬ、さいわい関白殿に伝がある、おまえすぐに大坂へゆけ――放り投げるように、簡単に言ってよこした父に、信繁はさすがにあきれたものだった。
人質、なのである。逃げろといって、その夜のうちにとはゆかぬのだ。なんとか景勝出陣の隙をつき、上田にもどって、急いで上方へ向かった。関白のほうも、 たまさか上杉にやっていた人質を、無断で鞍替えさせてくるなど思ってもみなかったようで、ずいぶん始末に難儀をしたらしい。
対応についた石田治部が、まるで般若のような形相になっている、と、笑いながら告げてきたのが、大谷刑部少輔吉継、そのひとだった。
「おかげで、宥めるのが大変でな」
「面目次第もござりませぬ」
「いやいや、真田殿は噂どおりの策士ぶり、ここまでされればいっそ清々しい。上杉や北条や徳川や、梯子を外された歴々にはじつに気の毒だけれど」
まったくである。あるが、まあ、そのあたりの面々は、良くも悪くも武田慣れしている。それなりに手は打っていようし、そもそもはなから真田など、さほど信用してはいまい。
問題は、『慣れていない』上方である。
秀吉はすでに、ころころ転がる真田の成り行きに若干の不快を示してもいるらしい。そのあたりをできるだけ繕っておくことも、信繁の役目である。さいわい、 景勝は、父昌幸にはどうでも、信繁には目をかけてくれている。ひそかに文をよこし、立場上おもて立って支援はできぬが、不自由があればできる限りのことは するから言ってこい、と、破格の扱いであった。
人の好い男なのだ。景勝のことは、信繁も好ましく思ってはいる。まつりごとだから、ままならぬこともある。……だが、まつりごとが、人の好悪で左右されることも、往々にしてあるものだ。度し難いが、世の中とはそんなものだった。
まこと乱世とは難しい。
みるからに清廉そうな、目の前の男も、どうだかは知れぬ。
押し黙った信繁を、吉継はどうやら緊張とみたようだった。忙しい身だろうに、だれそれへ紹介に、だの、どこそこへ連れていこう、だのと世話を焼いてくる。
じっと見つめる目に気付いたのか、すこし照れくさそうな顔で、彼は言う。
「わたしにも、離れてくらす弟がいるので、なにやらひとごとのように思えなくて」
「……私にも、兄がいます」
「うかがっている。勇猛な方だとか、あやかりたいものだ」
お世辞にもよい体格をしているとは思えぬが、そんなことを真面目な顔で言うので、信繁はちょっと笑ってしまった。
吉継はぱちぱち何度かまばたきをして、ふと頬を緩めた。そのときはじめて、目があった。
肌は女のように白く、琥珀のような色の薄い瞳をしている。異相、とまではゆかぬが、艶やかな漆黒の髪や、派手さはないが慎ましく整った容貌とあわさると、どこか作り物のようにも思える。
ぱっと伏せた瞳を、惜しい、と思って、戸惑った。
「――不躾に、申し訳ありません」
あわてた風を装い、頭を下げると、吉継は、いや、と早口で繕った。
「変な色をしているだろう。人にはあまりよい顔はされないので、気をつけていたのだけれど、気安かったので、つい……。気を悪くしないでほしい」
「そのような。美しいと、思います」
ぽろりとこぼれ出た言葉に、自分で驚いた。吉継も驚いたのか、垂れ目を大きく開いて、こちらを見ている。
はにかんで笑うので、こちらが照れた。
兄と思ってくれてよい、と言われ、はい、とこたえた。
思えば、このときから、すこしなにかを踏み外してしまっていた気がする。
***
昼間から女を抱き、酒を食らっていれば、一刻やそこら寝たところで抜けはしない。
鬱屈をためていたばかりに、ひどく懐かしい夢を見たのも、悪かった。そのまま帰る気にならず、またしばらく引っかけていれば、抜けた以上に酒精はたまる。
寝静まった武家街を、おぼつかぬ足でふらふら帰り着くと、厄介なひとがいた。
「……おや、こんばんは」
「遅かったな」
設えられた床が、酒精にかすんだ目にまぶしい。妻にも、女中にも、もちろんこの人にも、他意はないのだ。待てど暮らせど信繁が戻らぬので、遅くなってし まって、もう泊まってゆけと――ただ、それだけに違いない。小大名の次男坊の、慎ましやかな屋敷である。たいした奥もなければ、表も狭い。客間といって、 たいそうなものはありはしない。それが舅なら――婿の寝間の、隣間を使ったところで、まあ、たいした問題にもならぬだろう。
それで、夜遊びのすぎる婿殿に、説教のひとつもしてやろう――と、舅が襖を開け放して待っていようと、文句の言えた筋合いではない。
問題はつねに、信繁の側にある。
「ずいぶん飲んだようだ」
「ええ、まあ」
「……女癖の悪さは、わかっていたが。身を固めた程度では治らぬものか」
ため息をつき、首を振る舅――吉継の前に、斜めに座る。眉を跳ね上げたのを、見えていないふりをした。
「信繁」
「はい」
「なにか悩みごとでもあるのか」
思わず吉継のほうを見ると、なにやら難しい顔をしている。
「上田でいたころは、ここまでではなかったと、信幸から聞いた。たしかに、いろいろ気苦労もあったとは思う。思うところがあるなら、言ってみなさい」
力になれることがあるやもしれぬ、と、吉継は言うのだ。
ぞわ、と背を走る悪寒に、信繁は震えた。
これは、怖れだ。弾けるように思う。
足下の穴が、大きく口を開けた気がする。目の前がぐるりと回る。
すがりつくように、吉継へ倒れ込んだ。腕を掴んだてのひらの、震えが止まらない。
「どうした」
「……やめてください」
優しく触れてくる手が暖かく、身も世もなく叫んで、振り払ってしまいたい。ひどく攻撃的な衝動がわきあがり、力任せに細い身体を引き倒した。
「……信繁」
「優しくしないで、いつものように、怒鳴って、叱ってください」
てのひらに力を込めると、骨が軋む感触がある。苦痛にか、顔を歪めるのに、詰まった胸が、ほんのすこし通る。
「……俺を、ほかの奴らと同じにしないでください」
吉継は、優しいひとだ。こんな、どうしようもない婿だろうと、弱みをみせれば手を延べる。情がうつれば、棄てられぬ。そういったものを、彼はいくつも抱えていた。
彼の、とくべつななにかでありたかった。
なにごとにも気を配る質のこのひとが、信繁にだけは、すこしぞんざいな扱いをする。そのたびに、どこか歪んだ喜びがあった。
ひとを棄てられぬ彼の、赦せるぎりぎりのふちを歩くと、悪寒に似た快楽がある。まるで、親の気をひきたくて悪さをする子供でしかなかった。
ため息をつき、吉継はまだ掴みしめている信繁の腕を、爪先で抓った。
「痛い」
「痛くした。……まったく、おまえは、難儀なことだ」
どこでこれほどこじらせた、と、ぶつぶつぼやくので、そのまま胸にすがりつく。
「……どうせ、こうやって弱みを見せて縋ったら、誰だって受け入れてやるんでしょう」
「誰でもいいわけないだろう」
後ろ髪を引っ張って抗議をしてくるが、否定はしなかった。
こういうひとなのだ。情のひとだった。情をかけた相手から、情に訴えられれば、流される。彼は彼でこじれていて、自分につけた身の値が安すぎるから、これ くらいで間に合うならいくらでも、などと思っているふしがある。それがまた、いろいろなものを巻き込んで、こじらせていってしまう。
とくべつでいたい、そんな欲は、彼に出会ってはじめて知った。叶わぬものを得て、ささくれ、こじれて、もつれていく。
これは、ほどけることはないだろう。
「俺をこんなにしたのはあなたなんだから、責任とってください」
詰る言葉は、懇願の色をしている。
こうすれば絆されるのを、信繁は知っている。
あきらめたように、呆れたように、――恍惚のように、またひとつこぼされたため息を、信繁は唇で受け止めた。