戴天
数年ぶりにまみえた信長は、こちらが拍子抜けするほど丁重に元康を迎えた。それまでの不和はあくまで家臣もので、信長と元康の間にはなにひとつわだかまりはないものと、みずから誇示しているようであった。
この同盟については、元康自身も苦労をした。織田との折衝は当然のこととして、家臣の反発が予想以上に大きかった。言い出すと退かぬ三河者ぞろいだから、なだめたりすかしたり叱りつけたり、さんざんに頭を痛めたものだった。
(それも、仕方あるまい。みなはよく飲み込んでくれた。……)
織田との因縁は深い。祖父清康の時代からいまに至るまで幾度となく争い、殺しあってきたのだから、親兄弟を殺し、殺された相手と、遺恨を払って手を取れといったところで、すぐにうなずけるものではない。
清洲に出向くかわりに、信長と同座でなければならぬ、などという難題を、よくもあの信長が受け入れたものだと、元康は驚き混じりに思ったものだ。松平側がそうであったように、織田家中でもそうとうな反発があったはずだった。元康の知る信長であれば、おそらくは、鶴の一声で押さえ込んでしまったのだろうが。……
その信長はといえば、昼間の躁たけた様子とはまるでうってかわって、猫が水を舐めるようにちびちびと酒杯を干している。
そういえば、思い返してみれば、信長はそう酒に強いたちではなかったように思う。つれられて行った村祭りで、率いていた悪童連中と神下がりの酒を呷っていたときも、たいして飲まぬうちから酔っ払い、大笑いをしては絡んできたことを覚えている。上戸下戸というのは持って生まれた性質というが、そうであれば信長はどちらかといえば下戸のたちなのだろう。
「どうした」
ぼんやり眺めていた視線に気づいたのか、目と口の端を上げて、信長が笑った。はぁ、と生返事をすると、喉の奥で少し笑う。
「男ぶりがあがっていて、驚いたであろう」
「はぁ。いえ、別にそういうわけでは」
「……そういうときは、嘘でもはいと言うものだ」
背丈ばかり伸びて、竹千代は実に変わらぬ。ぶちぶちつぶやきながら、どこか浮かれた信長を、元康はまた眺めた。
元康にとって、信長はむかしから大きかった。あのころからすれば確かに、背丈も伸び、幼い柔らかさは削げ、精悍さを増してはいたが、驚くほどの変化といわれると、さして見あたらぬものだった。その点、かぞえ八歳で別れた自分は、信長からみればまるで別人のようだったろう。
「わたしは、ずいぶんと変わったものでありましょう」
「うん? ああ、そうだな」
思案顔で、舐めていた酒杯を置き、ぐいと顔を近づける。
(そういえば、この人はこういう癖があった)
信長は基本的に、不躾な男であった。考えてみれば十年隔たっていたのだから、いまさらに思い出すことが多くある。こういったちいさな癖のようなものがひきがねに、幼い折りの思い出もよみがえる。
そう長く、熱田にいたわけではなかった。駿河でも、どちらかといえばよく遇されたほうだと思う。それでも、熱田でのできごとを、思い返すことは数多くあった。かつてそう呼ばれ、披露目のさいにも信長自身の口から言われた『三河の弟』という言葉を、無邪気に喜ぶことはもうできぬほど、元康はおとなになった。 それでも、残したい心の機微というものは、まだある。
鼻先が触れんばかりの近さで、じろじろ眺めていた信長は、破顔一笑したかと思うと、元康の首っ玉を捕らえた。
「竹千代は、変わらぬわ」
杯を取り落としそうになり、あわててお手玉をしてしまう元康に頬をすり付け、信長は大きく笑う。
「信長殿、髭が痛い」
「ははは、それそれ、そういうところよ。竹千代はまっこと変わらぬし、変わらぬでよいのだ」
つい寄せた眉間の皺を突付き、信長はまた笑った。酒精の混じった声を間近に、元康は手にした杯を干した。
(むかしのままの、笑い声だ)
知らず、目元を綻ばせた元康の様子に気付いてか気付かずか、信長はまた唐突に立ち上がり、庭に続く障子戸を勢いよく引きあけた。とたん、流れ込む正月の冷気に身が竦む。傍らの火桶を引き寄せて抱え込むと、信長が手招きをしてきた。
にじるように近寄り、火桶を抱えたまま見上げると、冴えた冬の大気に、しろく月が浮かんでいる。
「むかし、こんな寒い時期に、おまえを川に放り込んだことがあったな」
「ありましたな。あのころのわたしは泳げなくて、ほんとうに死ぬかと思いました」
「泳げるようになったではないか」
「信長殿に教えていただきましたから」
戦に翻弄されながら、戦など知らずにいられたころだった。それもすべて、信長の努力と、なにより好意によるものだったと、いまではわかる。
ともに天を、そういって取った手を、幼い日の戯れ言ごと、信長は覚えていてくれているだろうか。そればかりを支えに、いままで生きていたのだと、そう口に出すのは、しかし、やはり面はゆい。
「元康」
「はい」
呼ばれ、返すと、信長は首を巡らせて元康を見た。
「ところで、いつまで今川に操をたてているつもりだ」
意味が飲み込みきれず、しばらく元康は投げられた言葉を咀嚼した。
「ああ」
諱のことを言っているのだと、ようやく気付いたところで、確かに信長も変わらぬと、元康はわずかばかり呆れた。
「いえ、とくにそういうわけでは。まぁ、なんというか、機会がなくて」
嘘ではなかった。いまは今川と敵対しているが、元康のみならず、主だった家臣の妻子はまだあちらにいる。氏真の腰が重い以上、必要以上の挑発は避けておきたかった打算もある。しかし、こうして織田との同盟が成った以上、こうした小細工も不要になるから、折りをみて改名するつもりではあったのだ。
「べつに、信を使ってもよいのだぞ」
得意げな信長の顔を見上げながら、元康は二度まばたきをした。
(これは早々に信を捨てたのを、だいぶ根に持っているな)
元信の名乗りは、あまり長く使わなかった。義元からは厚遇されたとはいえ、人質の身である。今川家中からのあらぬ誤解を避けるため、祖父ゆかりの康に変えたが、ここにも面倒なものがいたとは、さすがに予想しなかった。
「竹千代が戻ったら」
うん、と信長が小首を傾げた。
「駿府の」
「ああ、息子か」
傾げた首を戻してうなずく。さすがに寒くなったのか、両手を袖にしまって首をすくめ、どっかり腰を下ろして元康にぴったりすり寄った。
「竹千代が元服したら、いただきましょう」
「うん。では、信康にしよう」
もう戻ったつもりで即断する信長に、竹千代はまた呆れ、また笑った。無事に戻るかすらまだわからぬというのに、せっかちなことだった。
「……うん? ではあれか、おまえは信を使わぬ気か」
ようやく気づいて渋面を作る信長には答えずに、元康は銚子をたぐり寄せ、火桶であぶる。
「しかし、寒いですな。いかがです、おひとつ」
「ええい、変なところで処世に長けおって」
ははは、と笑ってみせると、信長はまた、元康の首を抱えた。注いだ杯を同じように舐めながら、ぽつりと言う。
「元康。おれは、天を穫るぞ」
上げた目が、信長とかちあった。
「ともに穫る気は、まだあるか」
あのときと同じ目で言う。
思わずのばした手を、信長が掴みとった。火桶に暖められた手の熱を奪って、冷えた手が温む。
答えるかわりに、強く握った。握り返された手は、あのときと同じく、大きく、荒れていた。
永禄五年正月、織田信長と松平元康のあいだに結ばれた同盟は、これより信長が本能寺にて横死するまで、二十年あまりの長きにわたり、一度も破られることはなかった。……