旅兎

兎の恋は秘めて御座る。
殿のまわりをぴょんぴょんと、跳ねて回るが関の山。

 逃げるように、沼田を出た。残した書き置きは、信幸のもとへ速やかに届けられるだろう。朝鮮征伐に向かう信幸の、こころの重しにならぬかどうか、それだけが右近の気がかりだった。
真田の所領を出、街道沿いの寂れた宿に入って、ようやく於順を思い出した。その顔を思い出すのに、ひどく時間がかかった。あわれなほど弱々しい、泣きすがたばかり鮮明だった。
いいかわした仲などと、なぜ口走ってしまったのか。ただ、於順の気持ちばかり振り回してしまった罪悪感は、いまだ生々しい。於順は、その気になっていた ようだった。信幸も、小松殿も、於順の父杉野源右衛門も、みなその気だった。右近ただひとりが、兎のようにただびくびくと怯えていた。
白亳子(白兎)と呼ばれていた、あの幼い頃から、まったく変わっていないではないか。
体ばかり大きくなって、いざとなれば肚も座らぬ。これでは、信幸に従軍できぬのも無理はない。
一枚きりの洗い替えと、金子の入った荷物を、羽織っていた綿入れごと脱ぎおろし、毛羽立ちかけた畳の上に放り投げ、溜息をついた。
今頃信幸は西へ向かっているのだろう。大坂につくまでに、しらせはゆくだろうか。
於順は泣いているだろう。わけもわからずに。

はじめて信幸と会った幼い頃に、もう、こころに決めていた。
父のように、自分はこの人をたすけて、ともにこの地を守ってゆくのだと思っていた。
父や母に心配されながら、病がちだった体を鍛え、白亳子というあだ名など思いもつかぬほどになった。
「はやく馬に乗れるようになりなされ。ともに遠乗りに出かけよう」
小さかった右近を膝に乗せ、笑いかけた信幸の顔など、思い出すのになんの苦もない。信幸の言葉も、しぐさも、穏やかに笑む顔のかたちも、ひとつひとつ数えることができた。
名胡桃が陥とされ、父が死んだとき、自分に城は守れぬと思い定めた。命を賭して守れるのは、ただひとりだけだった。ただ、信幸だけだった。
その信幸すら満足に守れぬのでは、右近にはもう、真田にいる価値が見いだせなかった。
(男にならねばならぬ)
ただ飛び出してきて、何ができると思っていたわけでもなかった。あてもなく、ただふらふらとうろつくしか、できるはずもなかった。
それでも、名胡桃の旧臣たちや、何かと右近を気に掛けてくれる真田の臣たちの中にあっては、ぬくぬくと甘えてしまう自分を、右近は理解していた。自分は弱い人間なのだ。
つよくならねばならぬ。男にならねばならぬ。ただ、ただ、あの方だけを、一身に替えても守り抜けるほどに、つよくならねばならぬ。
それでなければ、幼い頃に、ひそかにこころに刻みつけた、あの誓いを守れるはずもなかった。
初春の日暮れはいかにも早い。すでに足の先さえおぼつかなかった。火を持ってきた下働きの女が、立ち尽くしたままの右近を見て、呆れたような声をあげ た。小さな火を点し、火桶を置いて、もうすぐ夕餉ですよと言い残し、寒そうな様子で立ち去った。
懐をまさぐると、固いものに触れた。翡翠の兎だった。
まだ右近が名胡桃にいたころ、土産だといって、信幸がくれたものだ。
名胡桃に立ち寄るたびに、信幸は何かしら携えて、右近に与えてくれたものだが、ほとんどは焼けてしまった。この兎だけは、お守りがわりに身につけてい た。あの日も懐にあった。不安になるたびに、石に触れた。右近の肌で温もった石の兎は、あたたかくなめらかで、信幸の手のようだった。
いまの右近の手にはいかにも小さい、石を握りしめると、目の奥が熱く滲んだ。かたく目を閉じて、右近は耐えた。
於順は泣いているだろう。源右衛門は落胆するだろう。小松殿は呆れるだろう。信幸は。
信幸は怒るだろう。於順との閨に乱入した、あの夜のように、怒るのだろう。
あるいは、微笑うのかもしれなかった。眉尻を下げ、眉間を寄せ、困った顔で、微笑うのだ。
信幸の顔であれば、何であれ鮮明に、瞼の裏に浮かんだ。そしていつまでも残るのだ。目を開けても見えてしまうのが怖く、また目を開けて消えてしまうのもいやで、右近はますます固く目を閉じた。
「信幸様」
絞り出した声は掠れてしまって、右近は小さく鼻を鳴らした。
「……源三郎様」
震えてしまう声が情けなかった。泣かぬと決めたのだ。布団の上で、静かに世を去る、信幸を看取るその時まで、溜めておくと決めたのだ。
いつか黄泉路へ発つ日まで、この恋は秘めておくと決めたのだ。

於順を迎えようとした信幸に怒りを感じたのは、嫉妬だった。
小松殿を怖ろしいと感じたのは、信幸を手に入れたことへの羨望だった。
この恋は秘めておくと決めたのだ。
いくさ場で、信幸のいのちに触れる。それでよいのだ。それしかないのだ。
この恋は、秘めておかねばならぬのだ。

兎は狐に、いつかは狗に、磨いた牙に毒を掛け、
殿をお守りみせましょう。
それまでさらば。
おさらばわが殿。
お健やかなるお体を、兎は祈っておりまする。

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