夏星

 城を下がると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。
 湖水を渡って吹く南風に、夏のにおいが混ざっていた。
 月がないので、星がよく見える。
 湖につき出して浮かぶ長浜の城は、日が落ちれば日中の暑さも嘘のように和らいでいる。ふと思い立ち、吉継は浜に足を向けた。
 草鞋を脱ぎ、袴をたくしあげて、湖水に足をひたすと、波を感じる。
 湖水には、川水の流れとは、またちがった趣がある。
 寄せては引き、引いては寄せる。風に似ている、と、すこし思う。
 梅雨が明け、夏がくる。
 あれから、ニ度目の夏である。
 小谷落城ののち、しばらくお市の供回りをつとめていた吉継だったが、才を惜しんだお市の肝入りで、羽柴秀吉に召し抱えられた。その秀吉は、長篠に出張ってきた武田勝頼を打ち払うべく、信長の出陣にあわせて従軍している。
 小姓から馬廻りに取り立てられた、主だった子飼いたちは、かたや手柄を求め、かたや初陣の武功を得ようと、さまざま気負い立って、秀吉に付き従っていったが、新参の吉継は留守居である。
 もとより、手柄や武功といったものに、たいして興味を惹かれることはなかった。吉継が采配をとるのは、ひとえに敬愛する主君と、友のため――かつてはそうだった。
 いまは、どうか。
 お市のたっての望みで、栄達の道を残した吉継であるが、いまだ秀吉を、旧主長政のように仕えるに足る主君であるか、見極めきれずにいる。
 才がある。器量もある。運も、あるだろう。惹かれるものが、ないとはいわぬ。
 それでも、これぞ仰ぐ主君と、まだ割り切れてはいなかった。
 あの男――藤堂高虎が、あのとき言っていたのはこういうことかと、今になって理解したように思う。
 かつてともに肩を並べた友は、いまはどこでどうしているのかわからない。
 ただ、生きている。そんな気はしている。
 宵闇に沈む水面は、星明かりを揺らして、またたくように滲んでいる。
 首を巡らせ、小谷の峰を望んだが、月もない夜である。やはり宵闇に沈み、稜線も定かでない。
 星が消えたあたりから、おそらく山麓であろう。
 きらめく星のような日々の眠るところだった。
 あの、大きな篝火を目に灼いた日から、前にも後ろにも進めずに、立ち止まったままでいる。
「――おまえは、夢のありかを見つけたか」
 問う声に、答えはない。


 設楽原での決戦は、織田・徳川連合軍の大勝利であったという。
 秀吉や配下の武将たちも、さんざんに手柄をたて、凱旋ののちは盛大な宴になるであろう、と、城内は一足早く浮かれた空気が流れていた。
 秀吉の奥方、ねねからの召し出しがあったのは、その日の仕事も手仕舞いになった頃である。
 長い夏の日も陰り始めた廊下を渡り、奥に出向くと、やはりすこし緊張する。案内の侍女がちらちらと吉継の顔をうかがうのも、落ち着かなかった。
「大谷吉継、参上つかまつりましてございます」
「ああ、吉継、わざわざ呼び出してごめんねぇ。ちょっとおいで」
 手招くねねにふたつまばたきをしてみせ、吉継はひとつ頭を下げ、ニの間の襖をこえた。
「お市様から、文をいただいてね。吉継の様子はどうか、元気でいるか、くれぐれもよろしく、って。それと、これ」
 手箱から取り出した文を渡され、吉継はまた、ぱちぱちまばたきをした。
 表書きの、柔らかい筆致に、覚えがある。
「お市様から、吉継にって。ちかごろ文を出していないんだって? 忙しいからって不精しちゃダメだよ、せっかくお気にかけてくださってるんだから、たまには文をして、安心させてあげなさい」
「……はい、申し訳ございません。私などのために、お手間をおかけしてしまって」
「なに言ってるの! うちの子になったんだから、吉継だってあたしの子供みたいなもんだよ。しかも、吉継はお市様からの預かり物でもあるからね。このくらい気にしなくていいの」
 明るく笑うねねに、吉継はいっそう恐縮してしまった。もう一度深く頭を下げ、渡された文を大事に抱いて、吉継はそのまま城を下がった。
 屋敷に戻る気にならず、吉継は浜に足を向けた。まだ沈みきらぬ夏の日は、湖水に残照をきらめかせている。
 昼間に灼けた砂は、まだ熱をもっている。構わずに腰をおろし、そっと文を広げると、女性らしい流れるような手が踊る。
 内容はといえば、他愛もないことだった。清洲での日々のこと、三姉妹のこと、吉継を案じていること、たまには文をよこしてほしいということ。
 読み進めたさきで、吉継は目をとめた。
 高虎の話を聞いた、という。
 織田の一族の者に、いっとき仕えていたらしい、いまはそこも辞してしまってどうしているかはわからぬが、ともかく、逞しく生きているようで安心した――と、お市は締めていた。
「……そうか。おまえは、まだ駆けているのだな」
 夢を追っているのだろう。
 あの、まばゆい夢を胸に抱いて、生命ごと預けるに足る主君を、探して駆け続けているのだ。
 最後の光を残して沈んだ日と入れ替わるように、先駆けの星がまたたいている。
「俺は、見つけられるだろうか、ここで」
 長政と同じものを、秀吉のもとで見られるとは、吉継は思わない。それは、長政のものだ。ほかの誰にもなしえぬものだった。
 長政とは違うものを、生命を預ける夢を、ここで見つけられたなら、一歩前へ踏み出せるような、――あの日々を思い出にできるような気がした。
 先駆けの星を追うように、ぽつりぽつりと光りだす星を数えた。
(いつか、また、出会えたなら、そのときは)
 夢を手にしたと、そう胸を張っていたい。
 だから、もうすこし、駆けていて欲しい。たどり着かないでほしい。吉継が夢に追いつくまで。
 すこし理不尽な思いで、ひとつ大きな息をした。

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