蘭陵王
大谷吉継という男を知ったのは、秀吉の播磨攻めに従軍してからのことだ。
もとは浅井に仕えていて、お市の方と三人の姫が落ちるのに供をしたのだという。しばらくはお市の方についていたようだが、そのお市の方の推挙で、秀吉に仕官したのだときいた。
羽柴の家中にあっては珍しくもの静かで、平時ではいるやらいないやら、ひどく存在感の薄い男であった。
いっぽう、戦時ではとくに用兵で目を見張る働きをみせる。黒田官兵衛などの軍師たちと、ときおり話をしてもいるようだから、そういったところに才があるのだろう。
といって、武働きに劣るわけではない。剣をよくするらしい彼は、時に武功をあげることもあった。傲るでもなく、いつものとおり涼しい顔をしている吉継は、ずいぶんよくわからない男であった。浮くほどの個性をみせるわけでもない。話しかければ、時折とぼけた返事を交えるものの、ごく普通の受け答えをするし、自分に比べればよほど付き合いやすい男の部類に入るだろう――と、突っ立った背中を眺めながら、石田三成は思う。
吉継が見ているのは、誰ぞが無断でたてた高札だった。近頃、城下で頻発している辻斬りの下手人は大谷吉継である、と、ご丁寧に顔絵までつけられている。
取り巻く町人たちが、一人また一人と吉継に気づいて、ひそひそささやきかわすのが見えた。ちっ、と舌打ちをし、三成はわざと足を踏みしめるように、草履を鳴らして隣に立った。
「ああ、――三成」
大きくはないのに、凛と通る声をしている。一瞬、呼びためらったのは、まさか三成の名を思い出そうとしたためか。そう思うと、気に食わぬ。
「上手いものだな。よく似ている」
よこしていた目を戻し、吉継はいつものように、気の抜けたようなことを言う。
「そんなことはどうでもいい。引っこ抜いて捨ててしまえ」
「なぜ」
「なぜって」
小首を傾げる仕草で問う吉継に、三成は眉間に皺寄せる。
「おまえではないのだろう」
「ああ」
「ならば、これはおまえを誹謗するためだけのものだ。不愉快だ」
「そうか。三成は優しいな」
流れるように、そんなことを言い放つから、この男は手に負えない。ごまかそうとしているのではない。思ったことを言うと、こんなことになる。案外と歯に衣を着せぬ、というか思いついたことをすぐに口にするやつだというのは、つきあいはじめて知った。それで嫌味に聞こえぬのが不思議である。
「これが立っているというのに、俺が捕まらずにこうしてのこのこ往来を歩いているのだから、それ自体が俺は下手人ではないという証左になるだろう。人の噂もなんとやら、という。ほかに面白い話でもできれば、すぐに忘れるさ」
「しかしな」
「それに、」
珍しく言いよどみ、言葉を切る。
気味悪がって避けてくれるくらいのほうが助かる、などと、小さな声で呟いたのを、三成は聞き逃さなかった。
「どういう意味だ」
「聞いたとおりだが」
「だから、なぜ避けられたがる。特段人ぎらいというわけでもあるまい。おまえはべつに――」
ふいに、背を刺されるような思いがして、三成は鋭く振り返った。害意というにはひどく粘ついた、重く、昏いそれは、三成の首筋に張り付いて、ぞわりと毛穴を逆立たせる。
「あまり見るな」
囁き声で、吉継が言う。こういうときは、立てた襟が役にたつようだった。唇を読まれることがない。
これ見よがしに息をつき、高札を見る。顔絵は、まるで見て描いたかと思うほど、よく似ていた。
「……たちの悪いのを、ひっかけたな」
首筋を撫でながら、三成は低い声でチクリと刺した。手のひらには、まだ逆立った肌が触る。
嫉視には、三成もいくらか覚えがある。が、これはそのなかでもいっとう面倒な類のものだ。
どうもこの男は、誰ぞに懸想されているらしい。その向け方が、いくらか常軌を逸している。悪意に踏み込んだ恋慕など、行き着くところはろくなものではない。
心当たりはあるのか、と問えば、あるといえばある、と、曖昧な答えをした。
「付け文が届いた」
「ほう」
「誰が届けたかは、家人の誰も知らぬという」
「ほう……待て、どういうことだ」
「はじめは俺の部屋の前に落ちていた。いろいろ書いてあったが、要は惚れたと。返しようがないから、そのままにしておいた。次の日は、文机の上にあった。その次の日は、城の詰めの間にあった」
それが、そろそろ一月になるというから、三成は心底あきれかえった。文の内容は語らぬが、それこそろくでもないに違いない。
「よく耐えたものだな」
「時たま、こういう輩が出てくる。いちいち気にしていてはきりがない」
なるほど、と三成はまたあきれ、納得もした。ちょっと面倒な類の輩を、どこかしら惹きつけるなにかを、吉継は垂れ流しているらしい。危うげな、無造作に手折りたくなる雰囲気を、彼は確かに持っている。またこの男、諦念なのか単純に面倒臭がりなのか、強く押せばそのまま流れるようなところがあって、そういうところもたまらぬのだろう。
気に食わぬ、と三成は思った。懸想というなら、自分もしている。いつもは聡すぎるほどなのに、妙なところで勘の悪い吉継は、恋情と友誼の区別をいまひとつつけられていないふしがある。家中でも、いくらかから憎からず想われているのだが、気付いているのかいないのか――いるのなら相当な性悪だが、いつもの調子でヒラヒラと飛んでいるのだった。
この高札も、おそらくは吉継が、なかば周囲を案じ、なかば面倒がって人を遠ざけようとするのを見越してのことだろう。
三成は、知っている数人の顔を、順に思い浮かべた。城に出入りができるということは、家中のものに違いない。三成の知らぬ者も、とうぜんいるに違いないが、ともかく警戒しておくにこしたことはない。万一ということがないでもない。
ひとまず当面腹立たしいのは、この胸糞悪い高札であった。悪瘡気ニツキテ面体隠シ、など、出鱈目もよいところだ。ほんとうは別の理由があることを、三成は知っている。
「吉継」
呼ぶと、首をまわしてこちらを見た。癖なのか、この男は真正面から瞳を見据えてくる。規則的にまばたきをする瞼が伏せられたすきに、三成は素早く頭巾を奪い、高く立てた襟を引き下げた。
形の良い小ぶりな唇が、見開かれた切れ長の目とおなじくらいに、ぱく、と開く。一拍おくれて、囁きかわしていた町人たち――とくに娘たちがとたんに色めき立つのを、背に感じる。
「こんなもので隠しているから、妙な噂がたつのだ。せっかく見目良い姿をしているのだから、堂々と晒していろ」
「……余計な世話だ」
いつもは涼しいばかりの顔をすこし歪め、襟を戻すと、吉継は珍しく乱雑な手つきで三成の手から頭巾を奪い返し、いつもより深くかぶる。
「怒ったのか」
「……怒らぬとでも思ったのか」
「いや。だが、おまえの怒った顔は初めて見た。たまにはよいな」
「これっきりにしてくれ」
そそくさと背を向け、歩き去る背を追いかけながら、三成は唇がムズムズと疼くのをこらえた。きっと明日からは、市井の娘たちの間で、吉継は蘭陵王などとあだ名されるに違いない。これが厭で顔を隠していたのだろうに、まるで逆効果になったとは、それは不本意極まりないことだろう。なにごとも想定内、という態度を崩さぬ吉継をまんまと出し抜いたと思うと、実に愉快だった。
「吉継」
いつもより早足な背に声をかける。返事がないので、構わず続ける。
「しばらくおまえの邸に泊まり込むぞ。いいな」
不審な輩が出入りしているとあっては、見過ごすわけにはいかない。それが惚れた相手となれば、なおのことだ。……と、三成は言い訳をした。あわよくばという下心は、まぁ、なくもない。
「……勝手にしろ」
放り投げるようにこぼされた返事をしっかり拾い上げ、三成はしてやったりと、今度こそ笑った。
辻斬りの下手人が捕らえられたのは、それよりふた月後のことである。
不穏な付きまといは消えたものの、男女問わずの矢雨のような付け文に吉継が閉口し、三成がやつあたりをうけていた、ちょうどそのころであった。