花と蝶

「嫌です」
 斬り捨てるような拒絶である。吉継にしては珍しいことだ。市は笑みをすこしだけ深くした。
「俺は、お市様をお守りすると約束しました。違えるわけにはまいりません」
 憤りよりも、だだをこねるような物言いだった。大人びているとはいえ、ようやく少年の域から踏み出したばかりの年頃である。目元にはまだ、あどけなさの名残がある。
 幼い娘たちの笑い声が、遠くきこえてくる。一見すれば茫洋とした、考えの読めぬ男だが、存外に彼は面倒見がよかった。娘たちにもよく懐かれ、顔を見ればまとわりついて、よく困らせてもいた。
 まだまだ未成熟だが、光る才がある。亡夫は彼を評してそう言った。このまま、亡君の妻子のお守りで潰えてしまうには、あまりにも惜しいものだった。
 織田の家中ならば、才知に長けたものは引く手あまたであった。並みいる綺羅星のなかで、彼を推挙するならば――
 羽柴秀吉という男を思いだしたのは、妻のねねが使いにやってきてからのことだ。小谷の落城よりこのかた、かつての浅井旧領を得た秀吉は、なにくれと市を気遣ってくれる。輿入れより以前から、秀吉が市に懸想していたのは知っていたから、いくらかは下心があるのだろうと思う。が、いまはその気遣いがありがたい。
 卑賤の身より成り上がった秀吉の家中は、降した大名家の旧臣遺臣や、他家より引き抜いたものたちを、秀吉やねねの血縁者でまとめるような格好で、出自も身分もあったものではないという。若年の気鋭も多い。これならば、と市は思ったのだ。
「吉継は、私にもゆかりあるもの。決して疎略に扱われることはないでしょう。秀吉は、才知のものをとくに重んじるとのこと。功をなし、立身することも、夢ではありません」
 落城の際に袂を別った高虎のことを、ふと思い出す。功に逸るきらいはあるが、真っ直ぐで熱い若木は、吉継とはよい競い相手であった。
「ですが」
「吉継。あなたは、私と長政様の子なのです」
 両手で白い頬をつつむと、吉継はびくりとひとつ震えて、動きをとめた。色の薄い瞳が、戸惑うように揺れる。
「高虎とあなたが、競うように功をあげるたび、長政様も私も、わがことのように喜びました。あなたたちは、私たちの育てた、私たちの子です。だからこそ、大きく羽ばたいてほしい。わかってくれますね」
 いつもは高い襟に隠された薄い唇が、なにか言いたげに震え、ぎゅっとつぐまれる。拒む言葉を、諦めてしまったのだろう。
 棄てたくて手放すのではないと、わかってくれたろうか。ただ側で尽くすばかりが忠ではないと、伝わったろうか。気にかかるが、詮なきことだ。
「……わかりました」
 それが時流ならば、彼はそう思っているだろう。亡夫の生き様を見て、わずかながら感じるところのあったらしい彼は、こうしてほんのすこしだけれど、あらがうそぶりを見せるようになった。どこか世を儚んだような、いつ消え去ってもよいというような危うさが、ずっと彼にはあった。新たな場で、同じように感じ、すこしでも生きる意味を見いだせばよいと思う。悔いなく生きられれば、それでよいと、市は思う。
 髪を梳き、肩を撫で、抱きしめた身は、まだ薄い。
「よき友を得なさい。そして、ときどきは、顔を見せにおいでなさい。私はいつも、あなたのことを案じています」
 腕におさめた肩が、ひとつ、ふたつ、小さく震えた。はい、と蚊の鳴くような声に、じわりと潤む視界を閉じて、市は大きな息をした。

* * *

 何年もまえのことを、昨日のように思い出す。北ノ庄城へようやくたどりついた家臣たちをねぎらってまわり、ひと息をついたところだった。
冴えた月の夜である。
懐かしい顔をみた。大きく羽ばたいて欲しいと、天下へ送り出した旧臣だった。わが子のように慈しんだ彼は、数年のうちに、すっかり少年らしさを脱ぎ捨てていた。
誇らしく思うとおなじこころのすみで、成長を見届けられなかったことへの、わずかばかりの淋しさがある。
「立派になって」
目は口ほどに物を言う、という。彼はまさにそういう質だった。冷然とした声で、しかし、彼の瞳は揺れていた。
なぜなのだ。そう問うていた。あなたの運命の矢は、もう放たれたのかと。
運命の一本を、市は自ら選んだ。長政も、勝家もそうだ。生き方を、死に方を、みずから選ぶことができる。
色の薄いあの目には、この世を模した、大河の流れがみえているのかもしれない。無数のちいさな支流が流れ込む大きな川、その先の大海までも。彼の諦念にはそうした、なかばこの世を倦んだものがあるように、市には思える。
彼の目は、市に生きて欲しいと願っていた。生きるも死ぬも世の流れといって憚らなかった吉継が、そう願うようになったのは、おそらく高虎のおかげなのだ。なにを成すにも生きてこそ、と強烈に輝く高虎は、夏の陽のように熱く、まぶしい。
おそらく、市と吉継は、似たものどうしなのだ。市は長政を得て生を知り、勝家を得て死を知る。どちらも等しく尊いものだ。みずから掴むと決めたものだった。吉継にとって高虎は、市の長政なのだろう。
彼らのゆくすえは、彼らのものだ。生きてくれればよいと思う。死ぬならば、悔やまずにいられればよいと思う。酷い女だ、と市は自嘲した。残るもの、見送るものの痛みをわかりながら、置いていこうとしているのに、勝手なことだった。
「けれど、一度くらいは、勝手を許して頂戴。……わかるかしら。わからないなら、それが一番よいのかもしれないのだけれど」
一人ごち、ふと笑む。
花は散るが、季節が巡れば、また咲くだろう。燃えた木も、根があれば、また芽吹き、花を咲かせるだろう。
月は冴え、夜というのに明るく世を照らしている。長く目を閉じ、ゆっくりと開いた。遠くから、幾筋もの川のように、篝が列をなしている。篝の川は糸を撚るごとく、ひとつの大きな奔流となって、この城をめざしている。まるで、大河の流れが海へと流れ込むようだと、市は思った。

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