花見舞い
濡れた感触が額に触れ、光秀は目を開けた。離れてゆく細い指は、少し荒れている。
「もう少し、おやすみなさいませ」
やわらかな声が掛けられた。視線を動かすと、微笑む妻のすがたがある。笑みを返してやろうと思ったが、力はほとんど入らなかった。
たちの悪い風邪がはやっている。暮らし向きの悪い民が、そこここで死んでいた。
尾張・美濃全域を席巻しているこの風邪は、織田家中でも例外なく猛威をふるっている。さすがに状況を重く見た信長は、国境の兵を増やし、近隣諸国の動きを牽制するとともに、殻庫を開いて民を支援した。おかげで、春を待たずに流行はおさまりつつある。
調子の悪さに気付いたのは昨日だった。朝から何やら気怠かったが、その程度で休める身分でもないから、少しばかりの無理をした。
それが、どうもまずかった。
「流行の風邪ですな」
そう断定した医者は、ともかく暖かくして、滋養のある食事を取り、何よりも部屋にみだりに人を入れぬこと、と付け加えた。
「この風邪はただの風邪ではございませぬ。ふつうの風邪よりもはるかに罹りやすく、罹れば高熱を発します。命を落とす者もいるほどです。お家のかたがたに もうつってしまっては大事ですから、ご看病の方以外はこのお部屋に近付かぬほうがよろしいでしょうな」
そう言って、医者はひどく苦い薬を置いていった。熱さましなのだそうだが、この薬を飲むとやたらに汗をかくのには辟易した。
「お医者様がおっしゃるには、あなた様はお疲れがたまりすぎているのじゃないかって」
心配げな声音で、妻が言った。確かに、戦に外交に軍の鍛練にと、このところ休む暇もない。しかし、それは織田の将であれば誰もが同じことで、光秀ばかりが音をあげてよいことではない。
憮然と押し黙った夫の様子に、煕子は苦笑して、小さな手洗いの桶を手に立ち上がった。
武家の妻らしく、わずかな衣擦れ以外には、音らしい音をたてない煕子の背を見送る。まとめられた美しい黒髪は、肩を少しすぎたあたりで寸足らずに切り取られている。
(だいぶ、伸びたな)
煕子の髪は、それは美しかった。美しい女の髪は、それ自体が財産だ。だから、金になる。
信長に仕えるまで、光秀の暮らし向きは惨々たるものだった。
その日の食にも困る日々を、不満や文句の一言も漏らすことなく、光秀のために、女の命を金に換えてくれたのだ。
大志を全うするには必要なものがあります。髪など、放っておけばまた伸びるものです。そう、煕子は笑った。
妻にそこまでさせてしまった己を、光秀は今も恥じている。
煕子の背を見送るのは、だから、あまり好きではなかった。自分のふがいなさを思いだし、沈鬱な気分になるのだ。
障子が閉められ、光秀はひとりになった。
あいかわらず寒気はするのに、汗がじわりとにじんでくるのが不快だった。
いつもより、何倍も重い腕をむりに上げ、額に置かれた手ぬぐいを首筋に押し当てた。
はやく治してしまわねば。怠惰者、と信長の怒りを買う前に。
ひとの気配で意識が浮上した。妻ではないようだった。
(左馬介だろうか?)
光秀を父とも兄とも慕う一本気な甥は、見舞いもできないのがずいぶん不満らしいから、煕子の目を盗んで、様子を見にきたのかもしれなかった。
叱らねば。こんなひどい風邪に、家中でふたりもかかってしまっては、煕子の苦労がまた増える。
むりにまぶたをこじあけて、かたわらに座る人物を見、光秀は反射的に飛び起きた。
すかさず伸びた腕が、光秀の額をおさえつけたから、光秀は枕で後頭部をしたたか打ち付けた。
「病人は病人らしく、おとなしく寝ておれ」
もごもごと身動ぎをする光秀の頭を枕に押しつけ、涼しい声で言う。
「しかし、」
「信長が、よい、と言ったのだ」
にやりと笑うのに気圧されて、光秀はしぶしぶ力を抜いた。
光秀がおとなしくなると、信長は何やらごそごそと始めた。
だいたい、どうしていまここに信長がいるのだろう?そういえば、閉められていたはずの障子が、一枚だけだが開け放たれて、梅の咲く庭が見える。
これを見にきたのか。納得したところで、今日来なくてもいいだろうに、と呆れた。
「これを懐に抱いておれ」
うつむいて何やらやっていた信長が、ぽいと布のかたまりを投げてよこした。手にとれば、ほんのりと暖かい。
「……ありがとう存じます」
「まぁ、病人であるから、な」
また、にやりと笑う。
湯たんぽを抱え込みながら、病人だからというなら、できれば障子も閉めてくれればありがたい、と思ったが、言わずにおいた。彼は庭を見にきたのだ。
(そういえば、今年は咲き揃っておりますと、この前言ってしまった気がする)
梅はぽつぽつと花をつけるから、いっせいに咲き揃うことは珍しい。先日、登城したときに、なにか変わったことはないかと問われて、こう答えた記憶があった。そして、信長が興味を示した、気もする。
(……それで、私が家にいる時を狙った、というところか)
脱力しかけたところで、ふと思いだし、光秀は身体を起こした。……起こしかけたところで、また額を押さえ付けられ、布団に戻される。
「寝ておれ、というに」
「しかし、湯のひとつもお出しせず……」
「病人がよけいなことを考えるな。うぬの妻女はうぬよりいくらも気が回るわ。火桶を所望すれば、網と餅を載せて持ってきおったぞ。まったく、うぬにはもったいない妻よ」
言われてみれば、信長が抱え込んだ火桶の上には、白い餅が鎮座していた。きれいに焦げ目のついた色を見れば、うまそうに焼きあがっているようだ。鼻が効かないので、気付かなかった。
「うぬらはしあわせ者ぞ。犬も猿も果報な妻女を取りおって」
しみじみと信長が言うのに、光秀は思わず吹き出し、勢いでむせ込んだ。
木下秀吉や、前田利家の妻を、信長がずいぶんと高く買っているという話は有名だ。信長は男も女も、如才なく気を回すものを好むのだと思っていたが、裏には何やら複雑な思いが秘められているようだ。
そういえば、とふと思う。そういえば、信長とこのように世間話をしたことなどなかったような気がする。それを思えば、信長はこういうむだ話を嫌うたちではなかったか。
(……もしや、)
思いかけて、いや、と考えなおす。
信長は、庭を見にきたのだ。たかだか一臣下が病といって、わざわざ見舞いにくるはずがない。
どこから取り出したものか、焼けた餅に味噌をつけて食いながら、信長は飽かずに庭を眺めている。
湯たんぽのぬくみで、そろそろと眠気が這いのぼってくる。まばたきが重くなり、とうとう目があけられなくなった。
「……そういえば、蘭丸がずいぶんと案じておったぞ」
ひとりごとのようにつぶやいた声にも、満足な返事が返せたかどうか。はい、と答えたつもりだったが、よくて唸り声ほどにしかなっていないのではなかろうか。
聞きのがしてしまいそうな吐息のあとに、ふと、いつもの強烈な気配が緩んだ。
(ああ、それで……)
気付かなかったのか、と思うより先に、意識がとぎれた。
次に目を開けたときにはもう、信長の姿はなかった。片方だけ開けられていたはずの障子も、ぴったりと閉められている。
(夢でも見たかな?)
寝乱れた髪を直そうと、先程よりずいぶん軽くなった腕を上げる途中で、何やら固いものに触れた。
もう、すっかりなまぬるくなってしまった湯たんぽだ。夢ではなかったらしい。
すっと障子が開き、煕子が顔を出した。そちらを向くと、笑った。
「お加減は、いかがですか」
薬湯を手に、やはりほとんど音をたてずに、煕子は枕元に寄った。妻の手を借りて身を起こすと、身体の重みをほとんど感じなくなっているのに気付いた。
汗で湿った寝間着が外気に触れて冷え、光秀はひとつくしゃみをした。
鼻をすすりあげる光秀を見、煕子は小さく笑った。
「だいぶ、よくなったのかしら? お顔のお色が、人並みになりましたわ」
「……ええ、ずいぶん、よくなったようです」
「それは、よろしゅうございました」
にっこりと笑みながら、煕子が真新しい寝間着を差し出す。新しい寝間着に袖を通すと、こんな薄い布一枚でも暖かいのだということがよくわかる。
苦い薬湯をようようすすり、もう一度横になった光秀に衾をかけ、煕子は置かれたままの火桶をかき回した。
「信長様は、こわい方と聞いていましたけれど」
妻の口から信長の名が飛び出、光秀は反射的に身構えた。信長は煕子をかなり評価していたようだが、あのとおりの男だから、概して女子供には怯えられる。 煕子は胆の据わった女だが、こうして信長の評価をきくと、複雑な心地になった。信長に、厭なことは言われていないだろうか。
どう言おうか、考えているようすで煕子はふた呼吸ぶんほど沈黙した。
「おやさしいお方でしたわ。私、お殿様がいらして、もうびっくりしてしまって。おろおろしていたら、『湯と火桶をくれぬか。忍びゆえ、家人には黙っておれ よ』ってお笑いになるのです。私、逆にお気を遣わせてしまったみたいで、せめてと思って、お餅をお出ししたのですけれど、そうしたらお帰りになるときに、 『馳走であった』なんてお礼までくださって。それで、梅をふた枝ほどお分けしたら、ずいぶんと嬉しそうにしておいででしたわ」
おそらく、ずいぶんと気の抜けた顔をしていたのだろう。鈴を転がすように、煕子が笑った。
「よいお殿様で、よろしゅうございましたわね」
笑いながら言われ、光秀は天井を見上げて溜め息をついた。信長の言葉ではないが、まったく過ぎた妻だ。
火箸を置いた煕子が、あら、と声を上げた。
床の間の一輪挿しに、梅の枝が飾られていた。
光秀の記憶では、朝にはなにもなかったように思う。
「信長様かしら。きっと、せっかく見事に咲いた梅だから、あなた様のために飾って下さったのね」
すっかり信長びいきになった煕子が、ちょこんと首を傾げて言った。
(いや、これは桜が咲いたらまた来るぞという、信長様の意思表示に違いない)
庭には、わざわざどこかからか移してきたという、大きな桜の木がある。それも、信長から贈られたものだった。
次こそは、きちんと対応してさしあげねば、今度こそへそを曲げてしまわれる。
溜め息をつき、光秀は衾の中で、湯たんぽを抱いた。
ずいぶん温くなっていたが、それでも、ほのかなぬくみが腕に伝わった。
数日後、すっかり恢復した光秀が登城すると、口をへの字に曲げた信長が、何度もくしゃみをしていた。
「うぬの風邪がうつってしまったではないか」
と八つ当たりをされ、やはり目的は梅だったかと、光秀はそっと溜め息をついた。
咲き揃った梅の香は、それからしばらく何人かの来客を呼び、ほのかな香りと愛想を振りまいた。