桜の森の満開の下

 光秀が夜中に、この場所を通りがかることなど、いままでになかった。
 だから、そこにある不自然に、近づくまで気づかなかった。
「……このようなところで」
 ずいぶん長い間、そうしていたようだった。降り積もった花弁が、すっかり覆い尽くしてしまおうとしている。
 派手な衣装と、獅子のたてがみのような髪が、月明かりにかろうじて目をひいた。
 馬を降り、花弁を踏みしめながら近づくと、闇に溶けていた黒馬が、顔をこちらにむけた。怯え、身を固くする愛馬をなだめ、さらに歩を進めた。
 花弁が降る。ぽそぽそと、わずか湿った音が、いくつも耳を掠めて落ちていった。
 しゃがみこみ、降り積もった花弁を払ってやると、突然に、目を開けた。
 ぽっかりと開いた目は、井戸の奥をのぞき込むように、深く、くろく、果てがなく、光秀は反射的に手を引いた。
 やがて、月のひかりを吸い込むように、覚醒していくのがみてとれた。ぐるり、と眼球が動き、光秀をみとめた。
 ぱく、と口が開いたが、いつまでも声は出てこなかった。開けたままの口の中に、花弁がひとひら落ちると、まずそうな顔で吐き出した。
「どうなされました。暖かくなったといえ、このようなところで寝ていては、風邪を召されますよ、前田殿」
 声をかけ、微笑んでやり、肩に、腹に、降り積もった花弁を払いのけてやる。
 なにやら考え込んでいるようだったが、慶次はのっそりと起きあがり、川からあがった犬のように、身をぶるぶると震わせた。降り積もった花弁はそれで落ち ていったが、いくつかは、着物の隙間に入り込んだようで、慶次は着物のあいだに手を突っ込んだ。
「桜を見上げていたら、目がまわった」
 慶次は、まだぼんやりしたふうに、そう言った。言ったさきから、また顔をあげる。
「また目をまわしますよ」
 笑いを含んだ光秀の声にも生返事で、慶次は桜を見上げたまま、溜め息をついた。
 なにか、特別なことでもあるのかと、光秀もつられ、見上げる。
 月明りにほの白くうきあがる、満開をすぎた桜は、ほろほろとたえまなく花弁を落とした。
 花弁の落ちる音が、また、耳に響いた。
 いつまで見上げていたものか、背を支えた手のぬくみで、光秀は我にかえった。
 知らず、詰めていた息を吐く。
 大きな手が、背を押し返すのにたすけられ、光秀はようやく座り直し、軽く首を振った。
「なるほど、目がまわりました」
 生真面目に呟く光秀を、どこか呆れたような目で見、慶次は薄く笑った。
 腰につけたままだった瓢箪の蓋を抜き、直に口を付けてごくごく飲む。無造作に口元を拭い、思い出したように光秀に差し出した。光秀が、わずかに手を上げて辞すると、慶次はまた元のように蓋をして、腰にぶらさげた。
「何かに似ていると思ってな」
「桜がですか?」
「ああ。満開の桜の森を見ているとな、何かに似ていて、ずっと考えていた」
 それで、目をまわしたのだと、慶次は不思議そうに語った。
 峠の桜の森は、鬼が棲むといって、村人は夜にはあまり近寄らない。桜の森に迷い込むと、方角がわからなくなり、同じ場所をぐるぐる回ってしまうのだという。鬼に逢ったものは、気が違うのだという。
 つれづれに、そのような話をすると、慶次はばかに神妙に、うなずいてみせた。
「なるほど、道理で」
 何度もうなずく。わけもわからず、光秀は首をかしげた。
「いくさ場に、似ていたんだなぁ」
 言い、慶次はごろりと転がった。楽しげに笑う。
「花を見上げるとな、いつもこうして目を回すのに、俺はそれが嫌いじゃなかった。なんでだろうとずっと考えていたんだが、いや、なるほどなるほど」
「……私には、いっこうに」
 わかりません、と眉を寄せると、慶次はもうひとつ、声を上げて笑った。
「舞う血しぶき、はかなく散るいのち、触れると気の違うこの異界はまさにいくさ場にちがいない。壮絶な死に出会う場所だ」
 ふいに伸ばされた手が、光秀の肩に触れた。びく、と思わず身を引いた光秀に、慶次は苦笑を隠さなかった。
 そっと、肩に積もった花を払う。そのまま、光秀の黒髪を一房、つまみあげた。
「いくさが桜の森ならば、俺たち武人は、鬼よな」
 桜の森に棲む、鬼よな。
 無邪気に笑い、黒髪を指に絡めて玩ぶ慶次に、光秀は、知らず強ばらせていた身体の力を抜いた。
 ふたたび、花を仰ぐ。
 花の血しぶきが、ほろほろと舞い落ちる。髮も揺らさぬほどのわずかな風にさえ、あっけなく散らされるそれは、確かに、無数の死だ。無数の生と、無数の死が、ここには在る。それしかない。
 死に触れるものは、気が触れるのだ。
「まこと、われらは鬼でありましょう。鬼であれば、桜に逢っても、鬼に逢っても、気も触れぬ」
 目を合わせ、ふたりで笑む。
 がば、と慶次が起きあがった。大股で数歩すすみ、帯に差した扇を抜く。
 手拍子に似た音をたて、扇を開くと、こちらをにらむ般若の顔が、光秀を見据えた。微笑みをかけると、般若はおそろしげな顔に恥ずかしげな表情をうかべ、ちらと面を逸らした。
 慶次の手の返しにあわせ、般若はくるくる表情を変えた。かなしげな顔、うれしげな顔、怒り顔、憂い顔、それはさながら人のごときさまで、光秀は、ほう、と溜め息をついた。

人の世は、葦の原の中つ国なりや。

人の世は、鬼の満つる戦国なりや。

 朗々と唄い上げ、ゆるりと舞う。空を満たす華やかな死は、慶次の強烈な生に弾かれ、またたく間彩り、地に落ち、また舞い上がる。
明かりといえばおぼろ月、春の宵というのに、慶次のすがた、乱れ咲く桜、死にゆく花は、まるで真昼のように、目にあざやかに浮き上がる。
いのちのひかりであると、光秀は思った。
花を見上げる。
死にゆく生が、ただ白く、うつくしく、咲き誇っていた。

鬼の世は、血の海の水面の上なりや。

鬼の世は、桜の森の満開の下なりや。

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