朝顔は朝露負ひて咲くといへど 夕影にこそ咲きまさりけれ
明智の屋敷には、美しい庭がしつらえられている。風雅を好む主人の気性を愛で、信長が作らせたものだった。
質素に暮らす光秀が住む屋敷は、驚くほど小さい。一人しかいない門衛に笑顔を投げてみせ、蘭丸は庭に回った。
光秀は大抵、庭の見えるところで過ごす。そこまで咎められずに入ることを許されたのは、蘭丸と信長だけだった。
完璧に整えられた生け垣越しに覗くと、いつものように、飽きもせず、じっと庭を眺めている光秀の姿があった。
軽く首を傾げて、じっと花を眺める彼を、蘭丸はしばらく見つめた。季節の花の絶えることのない庭にいまあるのは、明智の紋にもなっている、桔梗の花だ。 すっと背を伸ばし、凛と天を見上げるその花は、まるで彼そのもののように清冽で、ひそやかに美しい。
「光秀様」
声をかけてみた。二度呼ぶと、振り返った。一呼吸ぶんほど蘭丸を探し、探し当てると、微笑んだ。
「蘭丸」
おいでなさい、と声音が言っていた。縁に近づくと、す、と避けた。隣に座ることを許されたようだった。
隣に腰掛け、まだ蕾の目立つ、桔梗の茂みを眺める。
「咲きましたね」
「ええ。ちょうど今朝咲いたのですよ。けれど、こんなに沢山の株を集めるのも大変でしたでしょうに。信長様も、私などに勿体無いことをなさる」
言う光秀の顔は、しかし、ずいぶんと嬉しそうだった。この屋敷を与えられてから、口には出さずとも、桔梗の花を楽しみにしていたことを、蘭丸は知っている。
光秀と信長の間に流れる空気は、奇妙なものだった。反発し、疎んじられているようでもあって、妙に仲睦まじくも見える。まったく正反対のようでありながら、底の底ではまったく同じであるような感覚を、蘭丸は時折感じるのだ。
そう思えば、蘭丸が信長に惹かれたのも道理だった。
このひとに似ているのであれば、惹かれずにいられるわけがない。
「ああ」
光秀の声に顔を上げると、細い指が一点を差した。
「あのあたり。明日には一斉に咲きそうですね」
目を細め、わずかに弾んだ声で、光秀は蘭丸に語りかけた。指した先には、ふくらんだ蕾が重そうに立ち並んでいる。まさに、今にも咲かんという面持ちだ。
背に流されたままの、艶やかな長い髪が、顔の角度を変えるたびに、小さな銀の鈴に似た音をたてた。この髪の音を聞くといつも、首筋からこめかみが、やさしく撫でられたときのように甘く痺れる。蘭丸は、声を出さずにそっと溜め息をついた。
「小姓衆のつとめは、辛いですか、蘭丸?」
溜め息を、勘違いしたのだろう。幾分気遣う色を載せて、光秀が問い掛けた。彼の声は、高くも低くもなく、ひとつの楽曲のように、やんわりと響く。その音に聞き惚れながら、蘭丸は「いいえ」と短くいらえた。
「そうですね。信長様はご癇気のお強いお方ですが、蘭丸は頭の良い子ですから、うまく捌いてゆけるでしょう。坊丸、力丸と力を合わせ、よくお仕えするのですよ」
まるで母のような口振りの光秀に、蘭丸は笑った。光秀は、相変わらず穏やかに微笑んでいる。
なんとも清廉な人だ。その清廉さが、蘭丸には好ましい。
初めて見えた日を思い出す。まだ蘭丸は、年端もゆかぬ子供だった。父の供をして、明智の屋敷に赴いた。
背筋を伸ばし、控えめに座した少年に、一目で虜になった。
あの日からずっと、蘭丸は光秀への想いを秘めている。伝えるつもりはない。
光秀が、信長と関係を持っていることを知ったのは、そう最近のことでもない。
信長が、戯れに明智光秀に手をつけた、などという噂は、尾張に来てすぐにたった。信長は性の別を問わず美しいものを好んだし、光秀は濃姫にも劣らぬ美形だ。だいいち、そう珍しいことでもなかった。
一度お相手願いたい、などと言い寄る下品なやからもいたが、本人が丁重に断っていたようだから、心配もしていなかった。
信長は心から敬愛している。だから、気にならないと、ずっと思っていた。
伝えるつもりはなかった。この位置を保ちたかった。
それでも、ふたりきりで静かに在ると、こころは揺れた。
手をのばせば届くが、掴むことはできない。幻の花なのだと、蘭丸は思い定めていた。
庭を彩る、桔梗の蕾のように、掴めばあっけなく潰れてしまうに違いなかった。
そっと撫で、ひかえめな香りを楽しむのがせいぜいなのだ。手折れば、そのまま萎れていってしまうに違いない。
それでも、いつか、信長はこの花を手折っていってしまうのだろう。
いつか、信長の手のなかで、萎れていってしまうのだろう。それが、蘭丸には悲しかった。
光秀は、ざわめく蘭丸のこころをよそに、どこまでも穏やかだった。
(届かぬなら、せめて、ずっとこのままであればよい)
信長との歪な関係が、光秀を研磨するように削り取っていったとしても、蘭丸は願った。身勝手な願いとしても、この位置で、光秀とともにありたかった。
日が落ちかけ、ようやくに心地よい風が渡った。見事な夕焼けが、すべてを朱に染めていくようだった。
「夏が、きますね」
朱の海を横切って飛ぶ、銀色の蜻蛉を見送り、光秀がつぶやいた。夏になれば、この庭も、新たな装いを見せるのだろう。
蘭丸を夕餉に誘い、光秀は奥に入った。光秀の妻はよく気の回る女だから、いちいち告げずとも蘭丸の夕餉も支度がすんでいるだろうが、つい確認してしまわずにはいられないところが、光秀の性分だった。
すでに朱の海は過ぎ、ほの暗く夕闇がすぐそこまで迫っていた。
「もう、夏なんだな」
蘭丸は、そう、つぶやいた。
夕影に、なお鮮やかに咲き誇る桔梗が、暗示めいているようで、蘭丸は庭に降り、桔梗の茂みに歩み寄った。
花を開いた桔梗は、誇らかに天を仰いでいる。
青紫の花弁は、色濃くなってゆく夕影の光を弾き、その色を微妙に変え続けた。
まるで、光秀そのもののようだった。
そっと、ふくらんだ蕾に触れた。なめらかなその手触りが、触れたこともない光秀の肌に思え、蘭丸はひとり、赤面した。
ふと、蘭丸は、指先にわずかに力を込めた。こころばかりの抵抗のあと、桔梗の蕾はあっけなく潰れ、ぷつ、と溜まった水がはじけ出た。
てのひらに残った水をなめ取ると、青臭い匂いが広がった。
それがまた、脳裏に違う情景を思わせて、蘭丸は溜め息をついた。