初恋

 兄と血の繋がりがないことには、もしかすると、弟妹は気付いていないかもしれない。彼がやってきたときは、ふたりはずいぶん幼かった。
 ことさらに隠しているわけではないが、父も兄もとくべつ口に出さないので、なにかしら理由があるのだろうと、関興は思っていた。
 きょうから兄になるのだと紹介された、いくつか年かさの少年の顔は、緊張ですこしこわばっていたのを覚えている。
 それでも、父の袍の裾を握りしめ、ちらちら顔を覗かせる関興を見て、彼は力強く笑った。
「拙者は、名を平という。君が関興か」
 小さくうなずく関興に、関平はしゃがんで、目線を合わせた。じっと見つめる黒い瞳が、どこか父の大きな手のように感じて、関興はほっと肩の力をゆるめた。
「兄としてはまだまだ至らぬかもしれないが、義父の名に恥じぬよう精進しようと思っている。これから、よろしく頼むぞ」
「……はい、」
 あにうえ、という響きがどこかくすぐったく、関興はすこし笑った。ぱちぱち幾度か目を瞬かせた関平は、こんどは溶けるような笑顔を浮かべた。
 きっと、そのときに、自分は彼に恋をした。

* * *

 雨が幾日もやまない。
暗灰色に沈む樊城の城壁を見ていると、むしょうに胸が波立った。
ひとしきり体を動かせば晴れるかと思ったが、靄のかかったようなこころはすっきりしない。
(兄上は、どこだろう)
兄の、武骨な手に触れたかった。父ほどの大きさはなく、不器用な手だったが、触れると何より安心できた。
あの手に触れたい。ぎこちない動きで、頭を撫で、髪を梳き、力強く背を叩いてほしい。そうすれば、この霞もすっかり晴れてしまうはずだった。
いちどは戦勝に湧いた軍営は、いまはいくさ前の、ピリリと尖った空気が漂っている。
あの曹仁が、わずかの抵抗であっさり城を棄てる。守備は寡兵で、勝ち味は薄いにせよ、樊城は許昌の喉元であった。籠城を続けていれば、遠からず援軍は来るのだ。曹仁がそれを知らぬはずはない。
十中八九は偽退であって、いまごろ曹仁は援軍と合流し、樊城へとって返しているだろう。予測がついていれば、奇襲を恐れることはない。父にもそう進言したし、関興がいうまでもなく軍神はおなじ予測をしていた。
かたい籠城の構えはとらないと、関羽は言った。もとより、襄陽・樊城をとれればよし、ならずとも荊州に関羽ありと武威を示せればよいのだ。ここで許昌を狙うそぶりを見せるだけで、漢中への曹操の目を逸らすことができる。
怒濤の快進撃であったといえ、敵地である。退路にはぬかりがない。
(すべて、周到に練った。いざとなれば、荊州を棄てる算段もできている。なのに、どうしてこんなに胸が騒ぐんだろう、……)
雨に濡れて張り付いた前髪が鬱陶しい。探すのも億劫がって、笠を被っていなかった。
物見台のあかりにつられて近寄ると、不意に笑い声が聞こえてくる。
(兄上)
兵に混じって、関平の声がする。星彩のことで、年のちかい兵にからかわれているようだった。
関平が星彩に惚れているのは、見ていれば誰でもわかる。奥手な関平はいまだ鍛錬いがいで彼女に触れたこともなく、まして抱えた想いを伝えることなど論外だった。
兄の恋を、素直に応援できるような弟であればよかった。
恋を秘めているのは関興もおなじで、奥をじりじりと焦がすこころは、いつか底が抜けてしまうのではないかと思う。
兄に会いたかった。けれど、いま、星彩を思って頬を温めた彼を見たくはない。粗末な扉に手をかけそうになって、やめた。
ひときわ大きな笑い声に押されるように、足を退く。
緩慢な動きで踵をかえしかけたところで、勢いよく扉が開かれた。
「……関興、どうした」
邪気のないからかいから逃げだそうとした兄が、鉢合わせした関興をまじまじと見る。あにうえ、と呼ぼうとした喉からは音が出ず、かわりに小さな咳が漏れた。
「なにをやっているんだ、ずぶ濡れじゃないか。ひとまず、中へ」
いま出て行こうとした部屋の中へ引っ張り込み、関平は懐から手巾を出して、関興の髪を拭いた。それで、関興はようやく寒さを思い出し、ひとつくしゃみをした。
濡れた服を脱がそうとした関平が、ふと脇に目をやった。
「……すまないが、おまえたち、席を外してくれないか」
食い入るように見つめる視線に、関興が顔を向けると、さっきまで陽気に振る舞っていた兵たちが、ぱっとそっぽを向いた。
いっとき和やかに笑っていたといえ、いくさ場の空気である。見目のよい関興や関索は、そういった意味の視線を注がれることも、すくなくはない。
そそくさと扉の向こうへ消えていく男たちの背から、目を逸らす。
熾されていた火の側に座らされ、着替えのかわりに、関平の肩衣を羽織ると、冷え切っていた肌にじわりと熱がもどってくる。
丁寧に髪を拭く関平が忍び笑う気配があって、関興はすこし顎をあげた。
「いや、すまない。小さいころから、おまえはこうして髪を拭いてやると喜んだと思って」
兄がやってきてから、関興はよく彼に甘えた。幼いころから茫洋としたこどもだったが、関平に甘えるときは飴玉を含んだような顔で笑って、兄もまた、それをとても喜んだ。
「どうしたんだ、ほんとうに。きょうはずいぶん沈んでいるな」
まだすこし湿った髪に指をさしこみ、ゆっくりと梳かれる。指先がささくれた無骨な兄の手は温かく、こわばった四肢を溶かした。それでも、胸に満ちた靄は晴れることがない。
なにかを言おうとして、けっきょく口を閉じた。考えるのは好きだ。喋るのは、得意ではない。
なにを、どう言えばよいのか、わからなかった。
大きな手が肩に添えられ、引き寄せられる。錦の肩布ごしに背を撫でて、ときおり子どもをあやす手つきで軽く叩かれた。
「兄上、わたしは、もう、子どもではありません」
「わかっている。だけど、すこしだけ、こうしていたいんだ」
不器用な兄は、こうやって、しきりに背伸びをしたがる関興を甘えさせようとする。関興はいつも、それにあらがえずにいた。
大きな手、力づよい腕、たくましい胸に、幼い子のように縋る関興を、関平は根気よく撫でた。
(兄上のにおいがする)
ひどい焦燥が胸を灼いた。広い背に腕をまわし、強く抱く。
優しく抱き返す腕がもどかしい。
顔を上げると、ひどく近いところに、兄の目があった。
「――兄上」
関平が息を詰めたのがわかる。それほど近くにいる。自分はおそらく、ずいぶん浅ましい顔をしているだろう。
「兄上、わたしは、もう、子どもではありません」
色をかえて、繰り返した。
目の前が滲む。
「関興、」
「おねがいです、兄上」
お情けを、などと、商売女のようにねだることが、みっともないとも思わなかった。
いまでなければいけない。いまでなければ、きっと後悔するだろう。
胸の靄はますます濃くなって、自分の指の先さえ見えなかった。
「一度でいいのです。そうすれば、わたしは、きっと心を残さずに戦える」
「関興」
「兄上の想うひとの、かわりでかまわない。だから……」
石のように強ばっていた兄の腕が、関興を引きはがした。険しい目で見据えてくる関平は、なにかを堪えるように顔を歪めた。
「……だめだ」
「兄上」
「関興は、……あのひとのかわりにはなれない。あのひとが関興のかわりになれないのとおなじだ。そういう気持ちで、誰かと情を交わしたところで、だれもしあわせにならない」
「それでも、わたしは」
「聞きなさい、関興」
鋭い声に、口をつぐむ。ふた呼吸ぶん、じっと見つめてきた瞳は、長いまばたきのあと、いつもの優しいそれに戻っていた。
「心を残さずに戦って、そうしてどうする」
「それは」
「いくさ場では、死ねぬと思っても死ぬのだ。まして、悔いがなければ、生きられるものか。拙者は、おまえに生きていてほしい」
髪を撫で、梳く指は、やはり、無骨でささくれている。
しかし、関興にとっては、誰よりも心地よいものだった。
「……兄上は、ひどいひとだ」
絞り出すように呟いた関興の髪を、関平が何度も梳いた。
「すまない」
胸に縋る弟の背を、やはり子どもにする手つきで撫で、関平は短い詫びごとをささやいた。
「――江陵にかえったら、」
ささやきを繋げて、関平は言葉を切った。
どれだけ待っても、あとのかけらはこぼれなかった。

* * *

 はじめて会ったあのときに、はじめての恋をした。
 秘めたままで、兄と慕った。ひとも羨む、睦まじい兄弟だった。
 恋したひとは、ほかのひとに恋をして、関興の心を魂魄に残したまま、九泉をくだって、いってしまった。
「……兄上は、ひどいひとだ」
 蓮の咲く泉の底に、石を投げる。
  どれだけ待っても、あとのかけらはこぼれなかった。

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