つぎのよ
息を呑んで目を開けた。焦点を合わせると、ほっと息を吐く部下がみえた。その向こう、明るい日差しに映える、広いが簡素な中庭に、背の高い木が一本植わっている。
目に入る風景が、はじめ、思い出せなかった。
「陸遜」
だから、気遣わしげにこちらをうかがう部下を呼んだ。
思いがけず喉がかれていて、うまく声が出ない。
「失礼致しました」
思い出したように供手する陸遜を見やりながら、孫権は三度まばたきをして、小さく息を吐いた。
「ああ、許昌か……」
軽く目を閉じ、眉間を揉んだ。頭が晴れてくると、なんということはない、許昌の政庁の中庭である。
難しくはないが面倒な作業を体よく回されて、気晴らしに庭に出たのだった。
「何か、私に用があったのだろう。起こしてくれてもよかったのだぞ」
顔を伏せたままの陸遜に言ってやると、ちらと目を上げ、ようやく顔を上げる。
「お疲れのようでしたので」
控えめに言う。それもそうか、と孫権は思い直した。陸遜は父から付けられた部下だが、大将軍の息子に対して気負いなく接することができるほど、馴染んでいるわけではなかった。――なかったはずだ。
「夢を、見てな」
夢の話をするほど、打ち解けてはいなかったはずだった。げんに、すこし困った顔をして、陸遜はこちらを見ていた。
「夢、ですか」
「うん。父上も兄上も亡くなってしまって、私が跡を継ぐなどという、あまり縁起のよくない夢だった」
陸遜の表情がわずかに強ばる。孫権はすこし笑った。
夢の中でも、陸遜はよくそういう顔をしていた。いつも穏やかに笑んでいるが、元来は激しい質に違いない。
「私は、とにかく必死でな。やれることは何でもやったし、使えるものは何でも使った」
妹も、と言いかけて飲み込んだ。苦悩がないわけではなかった。それでも、尚香を道具にしたのは確かだ。そこまでせねばならなかった自分をさらけ出すのは、自尊心が邪魔をした。
「ですが、夢です」
思いがけず強く、陸遜はそう言った。真剣な目に、既視感を得る。そうだ、この男は、火のように熱いものを隠し持っている。知っている――気がする。
なかば睨みつけるような目つきに自分でも気付いたのか、はっと視線を外した陸遜は、ためらいがちにまた口を開いた。
「……前世の、記憶というものかもしれません」
「前世?」
聞き慣れぬ言い回しにちょっと首を傾げた孫権に、陸遜はうなずいてみせる。
「浮屠の教えでは、生きているものはみな、死ぬと生まれ変わって修行を続けるのだそうです」
悪しき行いは修行を妨げ、善き行いは修行をたすける。そうやって何度も生を繰り返し、善き行いを極めて修行を終えると仏になり、極楽という国へ行き、こんどは生あるものの修行を助けるのだという。
「前世でゆかりのある人は、今世でも縁者となるのだとか。ですから、きっと、前世での修行のことを思い出して、……いまの生に置き換えて、夢に見たのでは」
「なるほど、面白い考えだな」
感心してやると、陸遜はわずかに寄せていた眉間を緩めた。
(気を使わせてしまった)
本来ならば、こういった気遣いは上司である自分の役割なのだ。呉郡の名家の出とはいえ、出仕してまだ日の浅い陸遜にいらぬ手間をかけさせてしまった。孫家の連枝として、とくに政を志す身としては、反省すべきことだ。
「すまんな。益体もないことを」
「いえ、そのような。私は」
だから、そうして孫権が詫びると、陸遜はまた思わぬ強さで否定した。何かを言いかけてためらい、とどまる。すこし待ったが、陸遜は飲み込んでしまったようで、「いえ」と小声でつぶやいた。
陸遜の肩を軽く叩いて立ち上がり、軽く伸びをする。一呼吸置いて立った陸遜を見とめ、孫権はゆったり歩き出した。
「生まれ変わり、か」
「ご興味が?」
「うん。いまの生が終わりではない、というのは、なんというか、わくわくする」
天下の動乱は、父がなんとかおさめた。しかし、いちど揺らいだ漢室は、まだ歪みを残している。地方での小競り合いの収束に、父や兄は忙殺されていた。腐敗しきった政治は、皮肉にも董卓のためにひどく風通しがよくなったが、かわりに人手が足りず細部に目が届かなくなっている。比較的戦火を免れた地域では、日和見を決め込んでいた諸侯が中央の動きをじっと見つめている。
孫権は、戦のない時代を知らなかった。夢の――陸遜は前世と言ったが――なかでさえ、戦っていた。太平の天下を、想像することもできぬのかと思えば、むなしくもあった。
だがもし、ほんとうに生まれ変わりというものがあるのなら――
「いつか、戦のない太平の時代に生まれ変わりたいな」
どんな世になっているのか、思いもつかない。それでも、ゆかりある人たちとまた出逢い、こんどは命ではないなにかを交わせるのだと思えば、それはきっと、とても幸せなことではないだろうか。
「おまえとも、次は主従ではなくて、友人でありたいと思う」
振り返り、そう言うと、陸遜はぽかんと口を開け、ついでかわいそうなほどうろたえた。
「そ、そのような、お戯れを」
「戯れではないのだがなあ」
楽しくなって笑い出すと、陸遜はうろたえたまま真っ赤になった。
「主とか身分とか、そういう垣根のない時代に生まれたいんだ」
「……はい」
「そうしたら、きっと私たちは、よい友人になれると思うよ」
陸遜は、またなにか言いたげな顔で、「はい」と答えた。
陸遜の飲み込むそれを、孫権は聞きたかった。夢の中の自分も、けっきょく聞けなかった。だから、きっと、次の世なら聞けるかもしれない。
延ばしそうになってためらい、けっきょく握られてしまうその手が、孫権を掴むことも、きっと次の世ならばあるのかもしれないのだ。