月下独酌

 断金の交わりといわれた、彼とは長いつきあいになる。
 幼い頃にめぐりあって、いつの間にかここまでやってきた。花と讃えられた姉妹をそれぞれ娶った。ほんとうの兄弟以上の存在だと、自分は思っている。そしておそらく、自惚れでなく、彼もそう思っている。
 それが、変わったわけではない。
 いつからか、彼に触れ、触れられたいと思うようになった。焦がれるように、胸が苦しいときもあった。それも、彼と差し向かいで語り、酒を飲み、笑い合うと、不思議に霧消した。
 実際に彼と肌を合わせたことはなかった。情欲は時折、思い出すように腹の底で疼きだし、消える。それのくりかえしで、ずっと生きてきた。これからも、生 きてゆくのだ、と思う。不満など、あるはずがなかった。生きて、ともにひとつのものを目指す、それだけで満ち足りた心地になる。
 彼は少し違ったようだ。口付け、わずかに触れ、そして抱きしめる。じゃれあいのような接触を、彼はよく望んだ。
 本当は、もっと触れたかったのかとも思う。機を逃した。そんなものだろう。いつも手の届く場所にいたから、いつでもよいと、そう思ったのかもしれない。
 てのひらにおさまる、小さな水盤を眺めた。船の動きに合わせて揺れる、透明な酒の面には、おおきな月と、見慣れぬ顔が映っている。
 これは誰だ。
 ふと疑問に思う。これは誰だ。
 薄い陶器の杯を支えるのは、女のように細い、まっしろな指だ。彼はほかのどこよりも、この指を好んだ。この指で、髪に、頬に触れると、たいそう満足げだったことを思い出す。そんなことばかりを思い出す。
 命を受け、彼を離れ、何年もたつ。年に数度は建業に戻り、ままごとのような、わずかな触れ合いを繰り返す。それで何を不満に思うこともなかった。思い出すこともなかった。
 いま、思い出すまで、何を思うこともなかった。
 彼の顔を、思い出そうとして、戸惑った。月の光が邪魔をしているのかと、瞼を下ろしてみたが、おなじだった。あれほどに彼とともにありながら、その目のかたちさえ思い出せなかった。
 耳にこびりついているこの声も、ほんとうに彼のものであったのか。
 酒を干した。わきあがりかけた衝動を包み込むように、喉に熱が広がった。感じたのは酒精の熱だけで、旨いのか不味いのかわからなかった。
 もう三日もあれば建業だ。会えば思い出すのだ。なにも煩うことはない。
 笑い話にしてしまえばいいのだ。お前の顔を思い出せなかったと言ってやれば、彼は苦笑して(あるいは拗ねたような顔をして)、「薄情な奴め」とぼやくのだろう。その顔を、覚えて帰ればいい。
 柄杓を取り、杯に酒を注ぐ。また、大きな月が映った。
 雲がかからぬうちに、杯に入り込んだ月ごと、干した。やはり、味はなかった。
 そっと、胃の腑を探る。
「腹に月が飛び込んだ、のだったか」
 彼を身篭ったとき、彼の母君はそんな夢を見たという。そんなことばかり思い出し、苦笑する。
 帰ったら、酒でも酌み交わそう。話すべきことはいくらでもある。
 天を仰ぐ。月は大きく、江を照らしている。
 遠くから近付いてくる、船の灯りが見えた。

 これが、どういった種類の感情であったのか、今ではもうわからない。
 彼が、どういった想いを秘めていたのか、今ではもうわからない。
 彼の顔はもう、どうしても思い出せなかった。

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