影を踏む

  影を踏む。先人の影を踏む。

  踏み出せば逃げる影を踏む。

 

「おまえを見ていると、呪というものを思い知る」
 夏候覇がいつも、うんざりといった体でぼやく。それも聞き飽きた。
 私には呪いがかけられているのだと、夏候覇はいう。前丞相からうけついだものがそうなのだという。
 私の目に焼きついて離れぬあの影が、呪いであるというのなら、志というものはあまねく呪いではないか。
 中原を覇し、漢室復興を成し遂げるのは、前主昭烈帝からの悲願であり、志であった。それが呪いであるというのならば、彼らもまた呪われていたというのか。
「そうではない。おまえにはわからぬかな」
 と言って、夏候覇は曖昧に笑んだ。わからぬ、と出した声は、我ながら不機嫌だった。何度も聞いた言葉だ。仕方がない。
「孔明どのは、己にも背負いきれぬものをおまえに託したのだ。孔明どのはそのせいで死んだ。おまえもおなじようにならぬかと、俺は気が気でないのだ」
 説教をしているつもりなのだろう。ため息をついてみせる。そうするといつも、夏候覇は眉間の皺をさらに深く刻むのだ。
 先丞相の生前から続く、度重なる北伐で、国の限界が近いのは事実だ。だが、ここで止まってしまえば、じりじりと飲み込まれるだけだ。呉と魏を結ばせぬた めに、圧力を掛け続けるということが、蜀漢を存続させるためにいかに必要なことか、わからぬ者が多い。あの赤壁のとき、周公瑾があってさえ、 孫呉には非戦論が沸き起こった。文官とはいつもそうだ。国を守れ、戦をするな、そうわめきたてるが、守る国がなくなってしまっては意味がないのだ。魏はいつ でもこの蜀の地を狙っている。戦を避けても、北に圧力を示せるというのならば、その方策をこそ示せばよいのだ。
 座して滅びを待つような仕業など、できようはずがない。先主、先丞相、彼らに最後まで付き従った将たちに、死後どう詫びればよいというのか。
 手にした羽扇を、ゆったりと扇ぐ。このような扇ぎ方ではそよ風さえ起こらないが、丞相はいつもこうだった。なにがしか、考え込むときに、手慰みに扇ぐこ とが多かったように思う。羽の先をみつめ、呼吸すら忘れたように、立ち尽くしていた。形見となったこの扇を手に、同じようにしてみても、あのひとへはいつ までも遠い。
 影は長く伸び、私の足元に落ちている。
 そして、踏み出すたびに、逃げてゆくのだ。
「幼い頃、影踏みをして遊んだ」
 いつも一番だった。あの頃は何も知らなかった。生まれたときには既に群雄がたち、長じるとすでに三国が在った。
 踏めない影が、あるなど思いもしなかった。
「そうか」
 独白に、律儀に返事をする。この男の気性は好ましい。私にとってはずいぶんと昔のことだが、おなじく魏よりの降将という親近感もあるのだろうと思う。
つい、下らない話までしてしまうのも、そのせいなのだろう、と思う。
「踏めない影などありはしなかった」
「そうか」
 うつむいた、額のあたりに、差し向かいの男の目の視線が緩むのを感じる。机の中央から少しずれて、それでも静かに屹立する、酒の甕を見詰める。使い込まれたそれには、口のあたりに小さなひびが入っていた。
 燭の火が揺れるたびに、影は揺れた。
 手を伸ばしてみる。そっと身じろぎをして、それでも、影は私の手に落ちた。
 一心に、影を追い続けてまいりました。あなたの足跡を、何度もたどりました。
 あなたの影を、あなたたちの影を、いつまでも、
「いつになったら、」
 つと口に上ってしまった、あとが続かない、ただの呟きを、夏候覇はただ聞いていた。
 ただ、大きなその手を重ね、子供でもあやすように、ゆっくりと撫でただけだった。

 

  影を踏む。先人の影を踏む。
  踏み出せば逃げる影を踏む。
  いつまでも届かぬまま、影を踏む。

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