夜歩き

 あの人とは合わない。凌統の心酔を見ると、つくづく思う。
 呂蒙が死んで以来、自分と彼との距離はずいぶん近付いた。今では、咎めなしに寝室にまで入り込むことができる。呂蒙にずいぶんと思い入れがあったらしい 彼だから、呂蒙が目を掛けていた自分に、いくらか思うところがあるのだろう。事実、昇った地位以上に、よくしてもらっていると思う。
 それでも、あの人とは合わない。そう思う。
 多少後ろ向きなところだとか、多分に保守的なところだとか、優柔不断に見えるところだとか、そういったところが、時折、むしょうに気に障るのだ。

 回廊を曲がったところで、陸遜は足を止めた。眉間に皺が寄るのを止められなかった。
 なぜ、この時間にこの人がここにいる。
 急ぎの仕事がたてこんでやってきたため、陸遜は今まで執務室にこもりきりだった。すでに日付は変わっている。もう外殿には、当直の警備の者以外誰も残っていないはずだった。
 彼は時折、こうやって夜中に徘徊する癖があった。一人になりたいにしては、いつも人目につきやすい場所に陣取っているから、そういうわけでもないのだろ う。きっと、ただ誰かに構ってほしいだけに違いない。そして、だいたいそんな彼を見つけるのは陸遜なのだった。
 大きなため息が漏れる。構って欲しいなら、女のもとにでもゆけばいいのだ。奥には見目麗しい女がいくらでも納められている。彼女らはそのためにいるというのに。
 大股で、設えられた池に近付く。玉砂利を踏む音で、彼が気付いた。池に掛けられた橋の上、しゃがみこんだまま振り向き、その人は微笑をうかべた。
「こんな時間まで、ご苦労なことだな、伯言」
 いつものように、ゆったりと話し掛けられる。陸遜はもう一度、ゆっくりとため息をついた。
「仕事ですから。それで、このような時間にこのような場所で、いったい何をなさっておいでです」
 今は黒く沈んでいる、その瞳を見ないように、鼻先に目線を置いて、陸遜が問い掛けると、孫権は、目を細めて笑みを深めた。
「眠れなくてな」
「眠れないからといって、ここまで遠出をする必要はないでしょう。もう少しお立場というものをお考え下さい」
「伯言はちかごろ張公に似てきたなぁ。あまりがみがみ言っていると、将来『がんこじじい』と陰口を叩かれてしまうぞ」
 けらけらと笑う。酒の匂いが漂った。どうやらいい気持ちになる程度には飲んでいるらしい。陸遜は反射的にこめかみをおさえた。孫呉で、孫権の酒癖の悪さを知らないものはいない。
「……それはよろしいですから、お戻りください。私がお送りいたしますから」
 この人はいつまでも子供のようだ。申し訳程度に髭をたくわえてはいるが、その童顔のせいで、年齢のわりにいかにも覇気がなく見える。髪の色と同じ、赤み がかった金茶の髭は、月夜のせいでわずかに青が加わっている。紫髭、と形容されたこともある。まばらに生えたその髭は、もとの色が薄いせいもあって、やは り滑稽だ。かつて、呂蒙とともに討ち取った関羽は、それは見事な髭をたくわえていたことを思い出す。何度も目にしたことはないが、大丈夫の名にふさわし い、精悍な男だった。
 北では曹操が死んだ。劉備もいつまでもこのままではいまい。義に厚いあの男のことだから、すぐにでも仇討ちを狙ってくるのだろう。勝敗などというものは、おそらく関係ないのだ。
「劉備は、いつごろ来るかな」
 まるで明日の朝餉の献立を尋ねるように、孫権はそう呟いた。ひとりごとのようでもあった。おなじことを考えていたのかと、陸遜は少し驚いた。
「さて、半年か、一年か。いずれにせよ、近いうちには兵を出してまいりましょう」
「防げるかな」
 なにげないふうに言う孫権に、陸遜は苛立った。
 何が言いたいのだ。
 胃の腑からせり上がりそうになった言葉を飲み下す。口の中に苦いものが広がった。
「……さて。戦は生き物ですから、北の動き次第でも、どうとでも変わりましょう。今この場で何を語ったとても、机上の戦でしかありませぬ」
「ふぅん。勝てる、とは言わないのだな」
「必ず、ということなど、ありえぬでしょう」
 むきになっている。自覚する。きっと、この人は大丈夫だと言って欲しいのだ。必ず勝てると言って欲しいのだ。
 むきになっていた。絶対に言ってやるものか、と思っている。すました顔にまた苛立つ。どうせ不満なのだろうから、ならば不満そうな顔のひとつもしてみればいいのだ。
「そうか、では、やはりおまえに行ってもらおう」
 睨み付けていたさきの、白く浮かぶ顔が笑んで言った。陸遜は一瞬息を詰めた。吐き出すまで時間をかけた。
 何を言っているのかが理解できなかった。孫権は時折、こんなふうに唐突な物言いをする。それも、陸遜は好きではなかった。
「子明がな、あとは伯言だと言っていた。すまなかったな、試すようなまねをしてしまった」
「……はぁ」
 間の抜けた返事だと思う。試されていたのか。なかば意地悪く言ったあの言葉が、なぜか孫権の意に叶っていたのだと思うと、悔しいような気分に襲われた。
「軽々しく、勝てるなどと大言を吐かない者のほうがよほど有能だ。おまえが、子明の期待を裏切るような者でなくてよかったと思っているよ」
 そう言って、孫権は飄々と微笑んでいる。
 陸遜は頭から血が下がっていくのを感じた。その理由を考えないようにするのが精一杯だった。わけのわからないことをわめきたててしまいそうだった。
 腹の底からせり上がる妙な考えを打ち払うために、陸遜はただ口元を引き結び、呼吸ひとつにさえ用心した。
「……ご信用いただき、ありがたく存じます」
 この男は誰も信用などしていないのだ。信用しているのは死んだ者だけだ。裏切らないからだ。死んでしまえば裏切りようもない。呂蒙でさえ、死んではじめて、信用されたのだ。
 気分が悪かった。実直と誠実を絵に描いたような呂蒙ですら信用できない男に、大業を成すなどできはしまい。死んでいった幾多の男たちが、いかにも気の毒に思えた。
「うむ、信頼している」
 彼の言葉のひとつひとつに苛立ちが募った。ことさらに『信頼』と言いかえるのがまた気に障る。
(今日は駄目だ)
 いやしくも主君に対して、不遜な態度を取ってしまいそうだった。軽く頭を振り、ことさらにゆっくりと息を吸い、吐く。
 哀れな男なのだ。父と、兄が死んだときに、忠を誓ったはずの者たちが、そしてまた同じ血を継いだ者たちでさえ、裏切ってゆくことを知った。人を信じられなくなった、哀れな男なのだ。
 そんな男と、最初から合うわけがないのだ。そう思ってしまえば気が楽だ。
「お戻りください。お送りいたします」
 もう一度促した。今度は驚くほどあっさりとうなずき、立ち上がる。足元がふらつくのが見え、とっさに手を伸ばしたが、触れることはなかった。
 ふわふわと、雲の上を歩くような足取りで前をゆく男の背を、陸遜はじっと見た。そう背も高くはないし、武将たちのように立派な体躯を持っているわけでも ない。皮膚は薄く、少し力を入れて引っかけば蚯蚓がのたうったように紅く腫れ上がるのを陸遜は知っている。
 この男は好かない。その事実は、今も昔も、そしてこれからも変わることはない。
 それでも、主と仰ぐのはこの男以外にありえなかった。なぜなのかを考えつづけて何年も過ぎたが、理由はどうしてもわからなかった。哀れな男だ。こうして側に置く、陸遜でさえ信用できない、哀れな男だ。
「伯言」
 振り向かず、彼は陸遜の名を呼んだ。聞こえないふりをしていると、笑みを含んだ声で、また呼んだ。
「……はい」
 陸遜がいらえても、やはり彼は振り向かなかった。ただ、問うた。
「劉備に勝てるか」
 彼の望む答えを返してやるのは癪だった。陸遜はふた呼吸ほど考え込んだ。
「確約はできませぬ。むろん、負けるつもりはありませぬが。国のため、お役目とあらば策を講じてみせましょう」
 この男にはいつも、意地の悪い答えばかりしていると、陸遜はふいに思う。それがどうした、と思う。もともと好かれたいとも思っていない。近しい位置についていれば何かと好都合なだけだ。甘い顔をしてやる必要などない。
 孫権が笑った。弾んだ声だった。軽く振り返ったようだが、月明かりが逆光になって、表情はうかがえなかった。
「おまえのそういうところが、私は好きだよ」
 言い置いて、男は何事もなかったように、また歩き出した。
(私は嫌いです)
 いつもこころの中で呟く台詞を、陸遜はまた反芻した。どうせ聞こえはしないのだ。
 どうせ聞こえても、何が変わるわけでもないのだ。

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