陸権を考察する
■はじめに
ここは籐理が今一番熱い陸権をいかに料理するか、という趣旨のページでございます。だらだらと長く書き連ねておりますので、お時間のあるときにでもゆっくりご覧下さい。
そんなわけで、まずは陸遜と孫権の出会いについて検証してみましょう。
※このページでは各人の年齢の表記を数え年(満年齢)としています(正史の記述がおそらく数え年であろうためです)。また、引用部分は「」で囲み、内容を赤文字で記載しています。
■出会い
正史三国志・陸遜伝には「孫権が将軍となると、陸遜は、その時歳は二十一であったが、初めて出仕してその幕府に入り、東曹と西曹の令史を歴任した」とあります。孫権が孫策の死により呉軍を総括する立場になってから、ほぼ三年(あるいは二年/おそらくこの頃は数え年だったと思うのでこの可能性もある)間を置いて、孫権に降ってきているわけです。……まぁ、普通に考えれば、出会いはここ、なわけですが。
ここで私は腐女子のロマン「小さい頃に一回会っている」を取り入れたいわけです。
さてさて。陸家はもともと江東の豪族で、陸遜も呉で生まれています。が、彼は幼くして父母を亡くし、廬江太守の従祖父にあたる陸康のもとに引き取られます。
また、孫権は、孫堅が董卓討伐の兵を挙げる際、兄孫策とともに舒へ移っています。舒は廬江郡の県かつ、名門周家の館があるところ。廬江郡の郡府は舒、らし いのですが、これはいまひとつ本当かどうかは定かでないのです(正確な資料および記述を知ってらっしゃる方は是非ご一報ください)……可能性としてはおお いにありうる、という方向で。
そんなわけで、ここをつついてみたいと思います。
陸遜は前述のとおり、幼いころに陸康のもとに来たわけですが、いかんせん廬江に来た当時の年齢がどうのという記述はありません。ただ、「袁術と陸康の関係がしっくり行かぬようになり、袁術が陸康に攻撃を仕掛けてこようとした時、陸康は、陸遜を親戚の者達と一緒に呉に帰らせた。陸遜が、陸康の息子陸績よりも数歳年上であった事から、陸績に代わって一族の取り纏めにあたった。」とあるように、袁術が本格的に南を攻め始めるまでは、廬江にいたことになります。
かわって孫権。孫破虜討逆伝に「孫堅が義兵を挙げると、孫策は母親を連れて舒に移り住んだ。」とあります。 そののち、「孫堅が逝去すると、遺骸を奉じて曲阿に帰り、そこに葬った。葬儀を終えたあと、長江を渡って江都に居を定めた。」「徐州の牧(長官)の陶謙は、孫策をひどく忌み嫌っていた。孫策のおじ(母親の兄弟)の呉景がこのころ丹楊(丹陽)太守となっていたので、孫策は母親を車に乗せ[陶謙を避けて]家を移して曲阿に住まわせると、自分は呂範や孫河とともに呉景のもとに身を寄せた。」 とありますので、孫堅が討たれたあと、一度江都に移り、そののちまた曲阿へ移っていることになります(後者の文から、江都に一度移ったことは確実と思われ る)。興平元年(194年)に孫策は袁術のもとに身をよせているので、少なくとも194年以降には曲阿にいたことが確実になるわけです。
孫堅が義兵を起こした時期っていうのは、黄巾の乱のころなのですが、これが中平元年(184年)。孫権は孫策や周瑜とは七歳違いで、182年に生まれてい ます。陸遜の生年はそれから一年送れた183年。孫権は3(2)歳、陸遜は2(1)歳のころですね。陸遜が何歳のころに両親をなくしたのかは定かではあり ませんが、陸遜が廬江に移ったころには孫権はすでに舒にいた計算です。
さて、そこから孫権はまた江都、曲阿へ移るわけですが、その時期が初平2年(191年)のうちだったと思われます(この年の2月ごろ、孫堅は黄祖に討たれ ているので、この年中には引っ越したのではないかと思われる。あるいは翌年初めごろ)。このとき孫権が10(9)歳、陸遜が9(8)歳。興平元年(194 年)に孫策が袁術のもとへ身を寄せていますから、191〜192年の間に江都、曲阿と転々としたようです。
戻って陸遜。「袁術と陸康の関係がしっくり行かぬようになり」というのは、陸康が袁術からの兵糧供出の要求を断ったことが原因です。興平元年(194年)に袁術は本格的に廬江を攻めるわけですが、そのとき、孫策が陸康に相対しています。陸康は廬江をよく守り、籠城戦は2年にも及びました。陸遜が呉に戻されたのは、「袁術が陸康に攻撃を仕掛けてこようとした時」とありますから、おそらく194年、陸遜12(11)歳のころです。
※余談ですが、孫策は袁術の麾下の部将であったため、陸康に軽んじられ、それを恨みに思っていたようです。
ちなみに、曲阿は呉郡の一都市なわけですが、廬江篭城戦より以前に、揚州刺史劉ヨウが役所のある寿春を袁術によって追われ、「長江を渡って曲阿に役所を定めた。当時、呉景はなお丹楊にあり、孫策の従兄の孫賁も丹楊の都尉の官にあったのであるが、劉ヨウは江南にやってくると、圧力を加えてこの二人をともに追い出した。呉景と孫賁とは、劉ヨウを避けて歴陽に身をおちつけた。」(中略)「孫策の母親は、これよりさき、曲阿から歴陽に移って来ていた」とあるため、おそらく呉景か孫賁とともに歴陽に移ったのだと思われます。そのあと、「孫策はさらに阜陵に移り住まわせ」たとありますので、呉郡で孫権と陸遜が出会うことはまずありません。
■結論
可能性として最大限に見積もって184年から191年の間、舒での出来事ならば可能、ということになります。常識的に考えて少なくとも陸遜が7(6)歳 以上でなければなりませんから、自由に出来るのは一年半か二年になります。いや、常識なんざぶっちぎってしまえば満6歳と5歳とかでもいいんですが!
さて、これが私のひそかに推す陸瑜になりますと、また少し余裕が出てくるわけです。彼は特に記述があるわけではないのですが、実家は舒にあったわけで、孫堅が死んだ後孫策が立ち、江東制圧に乗り出してくるまで(実際のところ孫堅の董卓討伐に周瑜が従軍していたかどうかは定かでないのですが……記述がまった くありませんし)三年間は確実に舒にいたことになります。陸遜が廬江を離れるまでの余裕があるわけですね。……いや、年上の綺麗なお姉さんにあこがれる気持ち、とか、いいかなぁって……。
実際7つや8つで何が出来るかとも思うんですが、この歳のころってやんちゃ盛りなんで(小学校一年や二年だもんな)遊びに出てうろうろすることもあると思 うんですよ。で、実は一緒に遊んでいたということもありえない話ではない、ということで。