神性の脈動

2・Qadesh――聖娼――

 アシェラ神殿が石工の工房に俺の聖娼儀礼の段取完了の報せを届けたのは、5日後だった。バアル神殿を見下ろす高台に、女神神殿がある。初めて女神の神殿を訪れた俺を、三人の巫女を従えた巫女長・アタリヤが待っていた。
「ようこそアシェラ神殿へ、お待ちしていましたよ」
 陽光に照らされた巫女長の面に、柔和で淑徳な母性が滲む。清楚でありながら艶麗で、男には計り知れない深みのある表情は、なるほど偉大なる母神の巫女長に相応しいだろう。若々しく、また熟れて見える。
 何故か、胸が疼く。バアル神殿で初めて巫女長の清らかな微笑みに会ってから、バアル神の巫長・ヨシュアの手により乱れ狂うたおやかな肢体を見てから、ずっと彼女が頭から離れなかった。
 どっしりとした大理石の柱が並ぶ廊下を、巫女長達に連れられ進む。すべて石で建造された神殿はひんやりとして、柱に挿された燭のぬくもりに温められた空気が、冷たい頬に触れた。
 広間に出た途端、太陽の眩しさに俺は目を瞑る。光に慣れてくると、巨大なアシェラ女神像の祭られた祭壇が目に入った。バアル神殿と同じく、神の坐所は直接日が射すようになっている。男神の神殿と異なる部分は、人型の女神像の傍らに、女の陰所に男根が突き刺さっている奇妙な偶像らしきものがあること。幅広の石に彫刻された壁画――どうも、一連の物語らしい――があること。そして、祭壇と廊下の間を、様々な齢の女が整然と並んでいることだ。
 落ち着きなく広間を見渡す俺に、巫女長はくすり、と笑む。
「驚かれましたか。
 男神の神殿には、巫女が聖所に居並ぶということはありませんでしたものね。正確には、あの方たちは巫女ではありませんが」
 思わず、俺は巫女長を凝視してしまう。動じることなく、優しい微笑みを浮かべて彼女は俺を見返した。
「彼女たちは、一般の民人です。
 男の方が巫女による秘儀を受けることによって成人するように、女人もこちらで秘儀を行なうことにより、成熟した女になれるのです。この儀礼を受けるまでは、女人は結婚できないのですよ。
 成人予定の乙女は神殿に参籠し、等しくアシェラ女神の足元で時を待ちます。この神殿には、成人の儀礼を済ませた男の方も、女神の恵みを受けにこちらに詣られます。彼らにはすでにバアル神の息吹が通っています。時を待つ乙女達は、神殿に参詣した男神の化身により、自身の神性を引き出され、『全き女』になるのですわ。
 男の方は自由に乙女を選べます。ほら、あんな風に――」
 巫女長の手に示され、俺はそこを見る。
 女神に祈りおわった男が、一通り額突く女を物色したあと、懐にしまっていた小袋から金貨を取り出した。狙いを定め、女達のなかでことに可憐な娘に貨幣を投げる。娘が顔を上げると、男は娘の前に跪き、「わたしはあなたを、女神の名において欲します」と言ってふくよかな手を取る。娘は男に手を引かれ立ち上がる。男に肩を抱かれ、娘は祭壇の奥にある通路に消えた。
「あの……彼らは、どこに行ったのですか? これから、何かするのですか?」
 彼らの意図が解らず、俺は当惑して尋ねる。巫女長の背後に控えている三人の巫女が、俺の問いにくすくす笑う。彼女達を困ったように見て、巫女長は応えた。
「祭壇奥には、数多の『秘儀の間』があります。彼らはそのなかの一室に入り、聖娼の儀礼を行なうのですよ。こちらに居る間は、参籠している女人達も女神に詣でる男の方達も『聖娼』なのです。
 『聖娼の儀礼』とは、あちらの祭壇の『和合の像』のように、男根と女陰を交合させ、互いの神性を交わらせる神事です。男と女の神気はまったく違うもの。方向性の異なる気が混ざりあうことにより、人は均衡を取ることができるのです。
 あなたと秘儀を行なう巫女も、『秘儀の間』で待っていますよ」
 巫女長の説明に打たれ、俺は『和合の像』を見る。女陰から突出する陽物――男女の交合の偶像。それは、神々の神殿で日夜行なわれている秘儀の象徴なのだろうか。
 俺は差し込まれた巫長の指に、しとどに剥き身を濡れさせた巫女長を思い出す。女陰は涎を垂らしてひくひくと蠢き、隆々と勃起する男根を呑み込むことを望んでいるように見えた。俺は巫女長の陰所の蠢きに、自身を屹立させ精を吐いた。あの時――俺は巫女長のなかに、精を吐き出したかったのかもしれない。それは、巫長も同様だったのかもしれない。巫女長を刺激しながら、彼は陽根を勃起させていた。慣習により精液を飲むためそれを口に含んだとき、彼の先端には既に漏れ出ているものがあった。男のなかにも女のなかにも、明らかに和合を希求する本能が備わっている。神殿はそれを、神性といっているのだろうか。
 俺はあの時、巫女長の女陰を求めた。が、今俺を『秘儀の間』に先導する巫女長には、畏れ多さしか感じない。巫女長の崇高さには、俺は到底及ばない。憧れ眺めるのが精一杯だ。彼女と和合するに相応しいのは、やはりバアル神の巫長ではないだろうか。巫女長と同列の崇高さを持ち、美しく勇猛な闘者である彼は、男の俺でも惹かれてしまう魅力を持っていた。何より、俺が男神の精を受ける儀礼で介添えした巫女長の、巫長を愛撫する仕草には、事務的な態度以上のものがあった。明らかに、彼女は巫長との和合を望んでいた。
 もとより、聖娼との儀礼を体験したことがない俺には、和合を望む時の具体的な感情が解らない。和合にどのような感触をともなうのかも知らない。女陰に自身を燃え立たせた感覚だけで想像しているのだから、不確か極まりないが。それも、俺を待っている巫女との儀礼により、知ることが出来るだろう。白絹の帳に隔てられた室――儀礼の相手となる巫女が居る『秘儀の間』の前に臨み、俺は気を引き締めた。
「お心を楽にして、巫女と相対して下さい。祭壇前に居並ぶ乙女達とは違い、彼女は神殿の巫女で万事に慣れています。すべてを彼女に任せて大丈夫ですから、肩の力を抜いて儀礼を受けて下さいね」
 帳を開け、巫女長は俺を室内に誘った。
 先日男神の守護を受けるため入ったバアル神殿の室と同じく、壁に大きく切られた窓と、陽光を無限に受ける神々の祭壇、男神と女神の偶像に見守られる綿入りの寝台、寝台に横付けされた卓や椅子、籐の籠がある。
 研かれた大理石の床にひれ伏す巫女が、ひとり俺を待ち構えていた。
「サウル殿、ヤコブ殿から金子を預かってまいりましたね?
 先程の男の方が乙女にしたのを倣い、巫女に手渡しなさい」
 言われて、俺は胸元から金子がずしりと重い袋を取り出し、巫女の膝元に置く。緊張に震える唇を開き、声を出した。
「わ、わたしは、女神の名において……あなたを、求めます」
 擦れて途切れ途切れにしか聞こえなかった声。それでも、巫女には聞こえたらしい。
 顔をあげた女は才気の豊かさを滲ませる大きな瞳に綺羅とした光を湛え、俺を見返した。形よく釣り上げられた唇に、利発さが現われている。俺より5つは年上だろう、少女のような面差しをした女だった。
 強く魅惑的な眼差しに、俺はたじろぐ。こころを射抜かれたような気がした。頭が痺れ、頬が熱くなる。思わず目を逸らそうとしたとき、巫女はにっこり微笑んだ。
「よろこんで、相対させていただきます」
 巫女は立ち上がり、両手で俺の手を握る。掌から、柔らかで甘美なうねりが伝わってくる。彼女の温もりが手から末端に染み渡っていく。
 さらり、と背後で衣擦れの音がした。振り返ると、巫女長の姿がなかった。知らぬ間に、俺と巫女のふたりきりになっていた。
「……え、えぇと。名は……」
 やっとのことで、それだけを言う。手から伝わる優しさに幾分緊張は解れた。が、こころのこそばゆさに、声が上ずる。
「エーシャ。あなたは?」
 巫女が聞き返してくる。甘やかな視線に、余計に顔が熱くなる。
「……サウル」
「サウル。あなた、素直で素敵ね。わたし、あなたの聖娼になれてよかったわ」
 エーシャが俺を椅子に座らせる。所在なく目をうろつかせる俺に、木の実を練り込んだパンと果実の入った陶の椀、そして葡萄酒を差し出した。
 金の杯のなかで揺れる赤紫の液体に、俺はどきりとする。葡萄酒は聖娼儀礼に必要不可欠だと巫女長が言っていた。これを飲んだら……秘儀を行なうのだろうか、目の前の彼女と。
 俺の当惑を見抜き、エーシャはくすくす笑った。
「そんなに身構えなくていいわよ。とりあえず、食物を食べて、お話でもしましょう」
 エーシャは自分にも葡萄酒を用意し、俺の隣に置かれた椅子に座った。困惑する俺を見て、にこりと笑った。
 しばらくの沈黙。耐えられず、俺は一気に葡萄酒をあおる。「いい飲みっぷり」と楽しそうに言って、エーシャも杯を干した。
「あ、あの……エーシャは、ここに来て長いの?」
 俺は何か話さなければと、大して面白みのないことを言う。
「5年になるわ。わたしは成人の儀礼で聖娼としての資質を見出だされ、巫女になったの」
「じゃあ……5年もの間、ずっと男と秘儀を行なってきたの?」
 俺の問いに、彼女は目を細める。じいっと俺の眼を見つめ、含みを込め笑う。
「そう……ほぼ毎日、男性と身体を交わしているわ。何度も通ってくる人から、あなたのように初めての人まで」
 琥珀色のエーシャの瞳の艶やかさに、俺はくらくらする。酔いがまわったのか、それとも彼女との空気に酔ったのか……俺は思いもよらないことを口にした。
「……エーシャ。俺も、秘儀を受けたい」
 溶けそうに滑らかな乳白色の手を、俺は握り締める。
「いいわ……あなたに、わたしのなかの女神を見せてあげる。
 だから、わたしにも、あなたのなかの男神を見せてね」
 そう言って、ゆっくり身を寄せると、エーシャは俺の耳たぶを口に含む。舐めしゃぶり、あまく噛んだ。舌は耳の内側に侵入し、唾液を塗す。耳にぴちゃぴちゃと音が響き、俺の背筋に鋭い痺れが走った。
 彼女の指が、俺の内股を辿る。付くか付かないかのぎりぎりの感触が、たまらなく俺を興奮させる。自分でも、雄物が立ち上がっていると解った。エーシャの手が玉袋をゆるゆると握り、一本一本の指先が焦らすように男根に触れる。
「――ここから先は、『秘儀の台』でしましょう」
 エーシャは俺の膝丈の衣を捲ると、猛々しい先端を軽く吸った。
 俺の目の前で、エーシャは自身の帯を解く。絹の衣が、ふさりと床に滑り落ちた。その手で彼女は俺の衣を脱がせ、なまめかしい目で身体の隅々を見渡した。
「魅力的な身体をしているわ。――触っていい?」
 甘くねだる言葉に、俺は何度も首を縦に振る。
 エーシャの手が、俺の上腕に触れる。筋肉を確かめるように撫で、腋へと指を滑らせる。汗が滲む窪みを、指先が行き来する。敏感な箇所なので、俺は喘いだ。
「やっぱり、ここは敏感ね。――じゃあ、ここは?」
 刺激が伝わり固く尖った両の乳頭に、指が届く。乳輪のまわりをくるくると擦り、きゅっと乳首を摘む。
「ん……くッ」
 たまらず、俺は声を出す。快楽が頭を溶かし、男根に活力を与える。
 浮かされた俺の呻きに妖艶に笑み、エーシャは舌先で胸の突起をつつき、木の実を含むように舐め回す。片方の乳首は未だ指で弄ばれている。
 与えられ続ける性感に、陽根は限界に達していた。ちょろちょろと、先走りが漏れ、内股を伝う。
「エーシャ、やめ、て……出る……ッ!」
 ハァッハアッと肩を喘がせ、俺はエーシャの腕を掴む。
「わかったわ」
 彼女が跪くと、男根が熱く湿った軟体物に包まれる。見下ろすと、エーシャは俺自身を頬張り、頭を揺らしながら口を窄めて吸引していた。舌が雄根に絡み付き、棹や先端をざらざらした舌面で摩擦させる。指は俺の後腔をなぞっている。思いもかけない窄まりの悦楽に、俺は喘ぎ続ける。一声吠えたあと、彼女の口内で果てた。エーシャは中身が零れないよう口を覆ってすべて飲み尽くす。ごくり、と喉が鳴る音が聞こえた。
「男性の精を取り入れることは、巫女にとってもいいことなのよ。
 男神の精気を身体に入れることにより、女のなかの女神が喜び、魅力が増すの」
「そうなの……?」
 巫女は汗に塗れた首筋に貼り付く褐色の髪を掻き上げる。杏仁型の眼を魅惑的に笑ませた。
「そう。女は欲張りなの。わたしだって――」
 言って、エーシャは俺の首に白い腕を絡める。彼女の重心をすべて掛けられ、俺の身体は寝台に……「秘儀の台」に倒れこむ。ささやかだが柔らかな胸の弾力が、俺の胸板に伝わった。乳首と乳首が触れ合い、えもいわれぬ感触が生まれる。
 なんて柔らかく、芳しいんだ――俺は下からエーシャの項に接吻した。鼻腔にこっくりとした乳香の薫が入り込む。乳香は神に捧げられる薫である。巫女の身体に乳香と葡萄の種油の香が染み込み、しっとりと吸い付くような触り心地だ。
 エーシャは俺の手を取り、自身の乳房に添わせる。手は彼女に操られ、丸い肉塊を揉む。人差し指で乳首を揺らす。ふうぅぅ……とエーシャは喉を震わせた。先刻巫女がしたように、俺は彼女の胸の先端を口に含む。
 赤子が母の乳を吸うかのごとく、無心で吸引していた。片手では乳房を弄び続ける。
「あぁっ……お願い、ここも……触って……ッ」
 エーシャは俺の手を自身の下腹部に――女の象に誘う。すでに全体がぬるぬると濡れている。巫長の手並みに倣い、体液の絡む肉芽を親指で軽く押す。滑りのよい芽は俺の指を逃れようとするが、追い掛けなぶる。いつしか芽は肥大して俺の小指に近い大きさになっていた。
「アァッ……ッ! ハッハァッ!」
 俺に被いかぶさり、巫女であることを忘れてエーシャは身体を震わせる。俺は乳首に吸い付いたまま片手で巫女の脇腹を撫で擦り、熱く濡れそぼった壺に指を差し入れた。巫長が巫女長の個所に指を挿入し、彼女を狂わせていた。同じことを、俺もエーシャにしたい。
 彼女の剥き身から、ずぶじゅぶと液のあふれ出る音がする。親指で膨れた肉芽を揉み続け、中指と人差し指で液貯めのなかに溜まった水液を掻き出す。俺の指にあわせ、エーシャは腰を動かしていた。壺のなかで何かざらざらと擦れる感触がする。彼女がそこに当たるように身体を蠢かせている。――何かを求めているかのように。俺は的を絞って刺激する。集中することによって、肉芽を触る指にも力が入ってしまった。エーシャの身体が小刻みに痙攣する。限界が近いようだ。
「キャウッ! アァアアアァァァ――ッ!」
 忘我して叫び、エーシャの細い肢体が俺の上に倒れこむ。息を喘がせ、彼女は俺の腹部に液を滴らせた。しばし、身体を重ね合わせたまま俺たちは横たわっていた。
 と、エーシャが性急に俺の男をまさぐる。彼女の朱を帯びたなまめかしい姿に、またもや牡は力強く勃ち上がっていた。再度、俺を高まらせるのか――と思った。が、巫女は男根の上にまたがり、強ばった先端を剥き身に擦り付けた。俺たちは互いに呻く。
「いまからあなたは、女神の胎内に――原初の場所に戻るのよ」
 エーシャは眉をしかめながら、俺の棒を半ば飲み込む。彼女の細長い壺のなかに、自身が埋没してゆく――俺の身体に畏怖の震えが走った。震えは、俺の陽物を食らった壺も同様だった。
「エーシャのも……震えてる」
 巫女は俺の額髪を撫で付け、赤く染まった頬を笑ませる。
「男神は余分に肉を持ってしまい、女神は欠けた身体を持ってしまったの。それは、男神と女神がもとはひとつであり、この世を創造した神に引き裂かれてしまったため……。
 だから、互いの一部であったものを補うとき、男神と女神は歓喜に震えるの。
 一体になるとき、男と女は神に帰るのよ。男は引き裂かれた女神を見つけ、女は失った男神を取り戻す」
 どくん、どくん……と互いの結合した一部が脈打つ。喜びに打ち震え、互いの体液に解け合うような錯覚がする。エーシャは緩やかに腰を動かしはじめた。彼女の壺が収縮し、俺の陽物は締め付けられる。
「エ、エーシャッ!」
 俺は呻き、彼女の蠢きに翻弄される。
「あなたも動いて。一緒に……神の境地にゆきましょう」
 エーシャは肢体を上下させ、激しく陽根を抜き差しする。ズッズッ、結合部から摩擦音がする。彼女の動きに合わせ、俺は腰を壺に叩きつける。深く男根が壺に刺さる。
「アァッ! イィッ――!」
 エーシャは身体を仰け反らせる。乳房が揺れ、汗が飛び散る。ともに肉体をぶつけ合い、融合させる。壺はしなやかに俺の棒を吸い取り、俺の男根は剥き身の収縮に逆らう。擦れあう肉体が力を生み、灼熱のうねりを起こした。結びあった箇所から、命の……神の御魂が通う。
「エ…シャ、ダメだッ……! もうッ――!」
 目蓋に霞がかかる。身体が爆発する――!
 エーシャの壺も細やかに痙攣していた。ああああぁ……と、とめどなく喘ぎ続ける。
「い……いくッ――!!」
 エーシャが絶叫する。同時に強力な締め付けが俺を襲った。
 俺が――男神が女神にすべてを奪われる――ッ! と思ったとき、意識が瞬時飛んだ。男根から何かが……男神の要が女神の壺に流れ込んだ。
 ゆっくり、エーシャが俺にまたがったまま臥す。俺の首に腕をまわし、頬を俺の頬に擦り付けた。
「エーシャ……」
 汗に塗れた彼女の身体を、俺は抱き締める。互いの汗や体液が絡み合い、より一体感を強める。
 しばらくひとつに解け合い時を過ごす。目を開けたエーシャは顔をあげ微笑んだ。
「……意識が飛んだ。神の境地って、何もなく真っ白なの?」
「そうね。人の意識から放れたところにあるのね。
 わたしは時々、交わっているときに、自分に神が宿っているのを感じることがあるわ」
 エーシャは身体を起こし、俺の傍らに横たわる。彼女が離れる一時、生暖かい壺から抜け出た男根に冷たい空気が触れる。なんとなく淋しさが過った。
「秘儀だというから、もっと怖いものだと思ってたけど……そうでもなかった。エーシャが親近感を出してくれたからかな」
「秘儀というけれど、怖いものでもなんでもないのよ。夫婦の間では、儀礼という形をとらずに気軽に行なわれるものなのだし」
 俺が苦笑いすると、エーシャは俺の鼻を指でつつく。
 ふとエーシャの股間を見ると、白い濁りを帯びた液体が漏れ出ていた。互いが放出した体液だろう。俺は指を伸ばして液を指先に取った。ぬるりとして、鼻につんとくる匂いだ。白いものは俺の子種で、透明のものは彼女の体液。俺の子種は女神の奥処に送られたのだ。
 エーシャは俺の手を取ると、指先のものを舐めた。ざらりとした舌に、俺の背筋が痺れる。
「親方の奥方が……男神と女神が求めあうのは、子を生すためだと言ってた。
 聖娼の秘儀は、その……子を生むためするものなの? 今したことで……子が生まれたり、する?」
 おずおずとした俺の言葉に、エーシャは妖しい微笑を見せる。
「そうよ。運がよければ、子が生まれるの。わたしは授かったことはないけれど、巫女長や次長は子を生んでいるわ」
 衝撃に、俺は上体を起こす。
 巫女長が……あの美しいひとが、母……? 懐深い慈愛の豊かさは、確かに母性を感じさせる。が、若々しく瑞々しい色香を醸す彼女が子を生しているとは、思いもよらなかった。たまらず、俺はエーシャに聞き返す。
「巫女長が子を?
 それは――バアル神の巫長の子……?」
「それは、解らないわ。巫女長といえど聖娼に変わりがないから、毎日欠かさず男性を受け入れているもの。巫長の子である可能性が、ないことはないでしょうけれど。
 聖娼が秘儀により授かった子は、バアル神の子とみなされているわ。秘儀を行なっている間、男性は皆バアル神の依坐(よりまし)だもの」
 エーシャは寝台から下りると、傍らにある机から酒瓶を取り、ふたり分杯に葡萄酒を満たす。酒杯を手渡され、俺は赤紫の果実酒に見入る。
 エーシャは一口酒を飲むと、思わぬことを告げた。
「――巫女長のこと、憧れていたの?」
「えっ?!」
 俺は目を剥く。くすり、とエーシャは笑った。
「俺が、巫女長に憧れている? どうして?」
「だって、巫女長が子を生んでいることに衝撃を受けているじゃない。
 たしかに、巫女長に憧れている男性は多いわね。平静の清雅さと交合のときの色香の落差が何ともいえないって」
 確かに、そうかもしれない……。俺は、巫女長に憧れているかもしれない。あのひとと交合することは、畏れ多くて出来ない。が、どうしても目で追い掛けたくなる。彼女に憧れる男が多いというのも、何となく解る。彼女には、男を跪かせずにはおけない空気がある。
 ふと見ると、エーシャが労るような眼差しを俺に注いでいた。俺は先程まで彼女と交媾していたというのに、他の女のことを考えている。だというのに、彼女は理解を示している。俺はいたたまれなくなる。
 エーシャは俺の頭を小突く。
「馬鹿ね、なに気にしてるのよ。わたしは巫女よ、嫉妬なんてしないわ。わたし達は、すべてを慈愛でもって受け入れる者。苦しい男性のこころも、わたし達が癒すの。
 わたしはあなたにも、愛を注いだわ。感じなかった――?」
 じっと見つめる琥珀色の瞳に、俺は何度も首を横に振る。巫女長に憧れる気持ちもあるけれど、俺はエーシャにも惹かれている。野性の猫のような掴みがたい魅力が、彼女にはあった。捕まえるために追い掛けたくなる衝動が、確かにあった。
「――感じたよ、エーシャのこころを。
 俺は……エーシャと一緒にいたら楽しい。エーシャとなら、もっと秘儀をしたいと思う。
 巫女長とはきっと……エーシャと分かち合ったような気持ちを味わえない」
 語る俺の胸が、どきどきと弾む。花のように笑むと、エーシャは杯を卓に置き、俺の首に腕を廻した。
「ありがとう。
 わたしはいつでも待っているから、その日が来るまで訪ねてきてね」
 俺もエーシャの滑らかな背を抱く。暖かなぬくもり。身体を交わしていたときよりも、精妙で優しい情が流れ込んでくる。心地よさに目を細め、不意に俺は気付いた。
「その日が来るまで……?」
 彼女の言葉が引っ掛かる。エーシャは頷いた。
「女神の巫女に神性を目覚めさせられた男性は、伴侶となる女を得るまで、女神の神殿に通うのよ。男性のなかの男神は、目覚めてしまってはもう女神から離れられないから。
 いつか自身の男神に一番相応しい女神を見つけたとき、男性は女神を宿した女を妻にするの。巫女は役目を終え、男性を神殿から送り出すのよ」
「妻……? まだ、俺はぴんとこないよ」
「そうね、あなたはまだ目覚めたばかりだから。いつか解ることよ。それまでは、巫女があなたの女神の代わりとなって男神を満たすわ」
 衣を纏うエーシャを、俺は何も言えず見つめる。
 いつか、解るのだろうか……。俺は巫女長にときめきを感じている。エーシャに愛着を覚えている。それ以上の感情を抱く相手が現われるのだろうか。
 俺は手渡された酒をすべて飲むと、衣服を身につけた。


 俺が「秘儀の間」からでた時すでに夕闇が回廊を覆い、燈明が灯されていた。エーシャは俺を見送るといい、ともに歩んだ。時々、彼女は俺の手を握ってくる。嬉しいような恥ずかしいような気持ちを味わいながら、アシェラ女神の祭壇前に到着する。
 エーシャは床に膝を着けると、女神に礼をとる。彼女に同じようにするよう言われ、俺は女神に頭を下げた。目蓋を開けた俺の瞳に、橙色の陽を浴びた女神が柔和に微笑んでいた。巫女長のようでありエーシャのようであり、そのどれでもない。様々な女を帯びた女神の面が神秘の様相を湛えている。俺は自然に、傍らの女神の巫女を見た。巫女は女神のごとき笑みを浮かべる。
 女神の祭壇を見守るように描かれたレリーフ。暴れ川と龍を退治する男神。死の神に殺められ地下に連れ去られた男神。神々の嘆きと刃を手に男神を探し彷徨う女神。地下に降り冥府の神の裁断を受ける女神。枯れ果てる地上。男神を取り戻した女神と甦る大地。太陽を負う男神と海を歩む女神。カナンに古くから伝えられてきた伝説である。カナンの神々の伝説は、遠く東の国から長い時をかけて伝えられたと、俺も幼い頃から教えられている。壁画を見ながら、俺は自身と巫女がこのなかに息づいているような錯覚がした。この錯覚は、男神をうちに秘める男と女神を宿す女がすべて味わっているのかもしれない。
 石柱の門を潜り外の空気を吸う。神殿内とは違う、俗世の空気、馴染みのある空気。いままで浸っていた聖なる空気がうそのように払われる。丘の下には、土煙に塗れごみごみとした街が広がっている。あそこが、俺が生活している場所――。俺はこれから、あそこに帰る。エーシャを振り返り、俺は彼女のか細い肢体を抱き締めた。
「ありがとう、エーシャ。……また、ここに来るよ。エーシャに、会いにくるよ」
 エーシャは俺の背を撫でた。
「えぇ、待っているわ」
 名残惜しさを払拭し、俺は階を降りようとする。
 そのとき、椋の木が植えられた坂道を、金でできた輿を中心に取り囲む一行が上がってきた。純金で造られた輿には貴石を連ねた玉飾りが下げられ、虹色の照りがある薄絹の帳がなかの人物を隠している。輿を取り囲む男たちは、みな鎧を纏い、武具を身に帯びていた。物々しさが俺を威圧し、出しかけた足を止めた。
「……アハブ王がいらっしゃったのよ」
 エーシャの小さな言葉に、俺は彼女を凝視する。
 アハブ王――イスラエルの主。文武両道に秀でた王。強国に睨まれたこの国をまもるため、フェニキア王女・イゼベルを妻にした王。妃がバアル神の信徒であったので、妻の指針に倣い自身もアシェラ女神に詣でているとは、噂で耳にしていた。
 王が相手をする巫女は――巫女長ではないか? 主に応対するものは、身分に相応しい長しかいない。
「エーシャ……これから巫女長は、王と秘儀を行なうの?」
 呆然と俺は聞く。あの巫女長が、王に組み敷かれる……いやな想像が、俺の頭を通り過ぎる。
「……そうよ。巫女長が王のお相手をするわ。
 わたしもそろそろ行かなきゃ。わたしも、あの兵士のなかの誰かと秘儀を行なわなくてはいけないから。
 とりあえず、額突いて王の列をやり過ごしたほうがいいわよ」
 じっと俺を見つめるエーシャに、俺は頷く。彼女は俺の目蓋に接吻すると、薄暗い神殿のうちに入っていった。
 イスラエルの王は、イスラエルの預言者によって聖別――選り分けられる。イスラエルの神はバアル神やアシェラ女神とは違う。王はイスラエルの神に属しながらも、女神の愛寵を得ようとしている。異なる神を信奉するように見せ掛け、巫女長と契る。王に伴われてきた兵卒も同じだ。このなかの誰かがエーシャを抱くのだろう。やりきれなさが俺を襲い、同時にバアル神の巫長を連想させた。俺は巫女長を抱く男が彼でなければ、許せないのかもしれない。
 間近く列が迫り、俺を叩頭礼をする。さらり、とした衣擦れと砂利を踏む靴の音が耳に入る。頭上に数多の気配が掠めた。僅かに目を上げると、藍石をはめたサンダル、長く流したかわせみ色の裾が眼に飛び込んでくる。――王に違いない。
 藍石のサンダルはやがて見えなくなり、隊列も神殿の暗がりに紛れた。
 それでも、俺はしばらくそこから離れられなかった。



3・イスラエルの女王に続く

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