深夜の光 ■

 

 

 

 

    χ

 

 

 いつだったか、夜海辺に出かけた。

 断っておくが気落ちしてた、とか自殺しようとしていたとか、まったく関係ない。

ただ発作的に海を散歩したくなったのだ。

 こういうとやれ変人だ、とか言われそうだが構わない。なぜなら何が変で、何が普

通であるかの概念は人それぞれで、正しい境界線は存在しないから。それどころか、

境界すらない。

 まあ、理由もなく海辺を歩いていた。

 歩いていると水面がいきなり光りだしたように思えたから、そっちを向いた。でも

そこにあるのは暗闇の中、静かにゆらゆら揺れている水面があるだけで、何も変化は

ない。

 気のせいだということでそのときは片付けた。

 しばらく歩くと、また光ったように思えた。しかも今度は連続して。

 だからさっきのようにまた水面を見てみた。でもさっきと同じように何も変化らし

いものはない。

 ここでも気のせいということで片付けようとした。だが、それはできなかった。な

ぜなら今見ている前で海面が不思議な光を放ち始めたからだ。赤、橙、黄、緑、青、

藍、紫……、それ以外にも色とりどりに輝いている。

 思わず、見入ってしまった。

 その光は三分と持たなかった。でもその三分はまるで永遠のように感じられた。

 海が輝きをやめた後も、僕はその海を見続けていた。だけど、それ以降海は光を放

つことはなかった。

 ちょっと残念に思えた。でも別にそれ以上は何も思わなかった。だから散歩を再開

しようと今までの進行方向を向いた。

 向いた瞬間足元に何かあるのに気がついた。正確には足元にいる、だったけど。

 それは見るからに人魚。でも意識はないみたいだ。

 そうあの人魚。

 上半身は人間の女性で下半身は魚という一種の合成(キメ)()。というよりも妖

怪。その人魚。

 海の男を誘惑し、海のそこに連れて行って殺してしまうという伝説を持って怖がら

れているあの人魚。

 それが今僕の目の前にいた。

 どうしようかちょっと考える。

 選択肢一、一応は声をかけるが、相手の状態はどうであれ深い関わりにはならない

ようにする。

 選択肢二、声をかけ必要とあらば深い関わりも仕方ないと諦める。

 そして選択肢三、このまま見なかったことにする。

 少し考えた。

 相手はあの人魚だ。何か身の危険があるかもしれない。でもそれはあくまでも伝説

でいままでその姿を見た、という話はあまり聞かない。若狭湾のほうに人魚伝説とし

て八百比丘尼なんてものがあるらしいが、詳しいことは知らない。

 そういうくだらない知識も邪魔して、結局出した結論は選択肢三。でもそのままほ

うっておくのはひどい気がしたので、その場に穴を掘り始めた。

 人魚が一匹はいるくらいの穴ができたとき、僕はその人魚を転がし始めた。転がし

始めても気がつく様子はない。かえって好都合だ。

 僕はそのままその人魚を穴に放り込むと足でそこら辺の砂をかけ始めた。そして完

全に人魚の姿が砂で埋まると、さらにそれを踏み固めた。海辺の砂はさらさらで踏み

固めてもあまり意味がないかもしれないが、この際そんなこと気にしていてもしょう

がない。ばれないように踏み固める。

 証拠隠滅、完了。

 僕は何も見ませんでした。

 そしてその場からすぐに立ち去った。どことなく治安を守るための国家の狗に追い

かけられているような気持ちになったものの、そんなこと構わない。ばれなければ、

問題はないはずだ、多分。それに僕は人殺しではない。なぜなら、仮にあれが死んだ

としても対象は「人」ではないから。

 

 

    χ

 

 

 翌日から、僕は物覚えが悪くなった。

 昨日あったことが思い出せない。そして今日何をするべきだったかも思い出せな

い。それどころか、人の名前も思い出せなくなった。

 いわゆる、記憶喪失ってヤツ。

 でも不思議なことに昨日の夜以前のことは覚えている。最近のこと、というか今か

ら起こることのほとんどを覚えられなくなった。これは記憶喪失というのか、記憶障

害というのか、とにかくモノを覚えるのがひどく悪くなった。

 今日何が起こったか思い出せない。

 今日何をしたか思い出せない。

 明日何をしなければならないか思い出せない。

 これほど困ったことはない。全然覚えられないのだから。記憶は四つの事柄方成り

立っているということを聞いたことがある。

 銘記、その物事に名前をつけること。

 保存、その物事を取っておくこと。

 再生、その物事を見ること。

 再認、その物事が正しいことであると確認すること。

 これら四つのうち、きっと保存の段階が壊れた。

 再生と再認は、過去のことならほとんどできている。つまり新しいことを保存でき

なくなっている。銘記も一応はできている。

 ある夜、僕は外に出た。また海が見たくなった。

 そういえば、記憶がはっきりしている最後の日の夜も今日と同じように外に出てい

た。そして今日と同じように海を歩いていた。

 でもそこからだ。そこからの記憶がない。あー、やっぱり記憶喪失か。もうどうで

もいいや。

 僕が記憶喪失だからどうしたと言うんだ。確かに記憶が戻ったほうが便利には違い

ない。ものごとが覚えられたほうがもちろんいい。でも、戻すための方法がない今、

それはかなわない願いだ。

 叶わない願いなら、願わないほうがいい。

 もし願ってしまったら薄っぺらの安っこい希望なんかにすがってしまうから。それ

だったらないほうがいい。ないほうが僕はいい。

 

 

 海はまったく変わっていない。そう見える。記憶の最後の海となんら変わるところ

がない。本当は波の動きとか波の数とか違うかもしれないけど、でもパッと見変わら

ない。

 その海がいきなり光りだした。

 不思議だ。

 普通海は光らない。

 でも、今目の前で光っている。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……、それ以外の色に

も光っている。

 まったく不思議だ。

 そしてその光は三分と続かなかった。でもその光っている間は僕にとっては永遠の

ように思えた。そしてこの感じは前にも経験したことがある。それも多分、つい最

近。一体いつだったっけ?

 それからしばらくまた光らないかと思って海を見ていた。でも光ることはない。そ

もそも光ること自体異例なんだ。光ることを期待するほうがちょっとどうかしてい

る。

 それでもなぜか光ることを期待してしまう。さっきの光がきれいだったからとか、

もう一度光っているのを見たいとかそんな理由じゃない。もっとどこか自分の根源的

なところに理由があるように思う。

 あの夜ももしかしたらあの光る海を見たかもしれない。

 そんな気がしてならない。

 でもいくら待ったって海は光ってくれない。それどころか、それを待っている僕を

あざ笑うかのように冷たい海風を突きつけてきたりする。

 はぁー。

 自分に対して溜め息が出てくる。

 そう、いつもは叶わないことは願ったりしないのに、今日はそのいつもしないこと

を願ってしまったから、自分に対してやれやれという気持ちになった。

 溜め息と一緒に垂れ下がった頭を持ち上げて、散歩を再開しようとしたとき、目の

前に上半身は人間、下半身は魚の合成獣が現れた。

 

 

    χ

 

 

 その人魚の表情は分からない。でも哀しそうな雰囲気だった。そして言うと頬に何

筋もの水滴が落ちている。つまり、泣いているのだ。声は上げていない。ただただ一

箇所を見つめたまま涙を流し続けていた。

 その場所の砂は不自然だった。誰かが踏み固めたような多数の足跡がある。

「あれ?」

 思わず呟いてしまった。あの場所、なんだか見たことが、つい最近見たことがある

ようだ。でもそれがいつで何をしたのかが分からない。思い出せない。

 少し悩んで、また人魚のほうを見た。

 やはりまだ泣いている。

 よせばいいのに、身体が勝手に人魚のほうに向かって動き始めた。一体なんだって

んだ。こんな得体の知れない妖怪に関わるほどお人好しだったのか。仮にお人好し

だったとしよう。ここまできたら末期的だ。もう戻れない。

 こんなに自分の性格がお人好しと言うよりもむしろ甘いものだとは思ってもいな

かった。

 溜め息をつきつつその人魚の背後に立つと、

「何やってんの?」

 もちろん返事はない。それでも言葉は理解できるようだ。こちらを向いた。その向

けられた目は淡い光しかない月明かりの下、真っ赤に染まっていた。そしてその目に

は強い光に満ちていた。なんというか、悲しみ、哀れみ、憎しみ……。そんな負の感

情が宿っているようだ。

「あー、何?」

 こっちから話しかけておきながらこんなことを口走った。それでもその人魚は少し

首を傾げただけで、さっきまで見ていた場所を指さした。つまり、これは僕に見ろと

言っているのだろうか。

 きっとそうだろうと思いながら、その指さされた先を見た。やはり誰かが何度も踏

んだ後がある。一体こんな何もない場所を何のために?

「で、これは一体何? 俺にどうしろと?」

 答えない。

 そのときだ。不意に頭に強い痛みを感じ、目を開けていることができなくなった。

それくらい痛いんだ。ぶつけたような痛みとはまったく違う。まるで頭の中に何かを

無理やり詰め込まれているかのような感じだ。もちろんそんな体験は一度もないが、

そういうのがきっと一番適当だ。

 

 

 どれくらい時間が経っただろう。

 痛みが少し治まると、ようやく目を開けることができるようになった。

 するとそこには僕の姿があった。

 そしてその足元にはピクリとも動かない人魚。

 一体僕はこの人魚をどうするのだろうか。好奇心と不信感に満ちてその光景をただ

眺めていた。すると僕はいきなり穴を掘り始めた。まさかと思っていると、どんどん

穴は大きくなる一方だ。

 少しの時間が経って人魚一匹が入るくらいの大きさの穴が完成した。するとその穴

の中に人魚を蹴り落とした。そして掘った砂をかけ始め、人魚を完全に埋めた。その

後何度もその場所を踏んで、固めていた。

 そして何もないことを確認するとその場をあっさりと情け容赦なく立ち去っていっ

た。

 僕はその光景を呆然と見ていた。こんなことがあったんだ。一体、いつ? そう

か、きっと物覚えが悪くなった日の前。つまりその日の前日だ。

 また頭の痛みがやってきた。もう止めてくれ。でも声を出そうとしても声が出な

い。その上暴れようにも体が動かない。ただ何もできないまま僕はその痛みに耐えな

いといけなかった。

 

 

 痛みが引くとさっきの光景とは違い、あの不思議な現象を見る前の光景が広がって

いた。大きく一息吐くと足元を見た。案の定、泣きはらした人魚がこっちを強い瞳で

見つめている。

「あー、今のお前が?」

「…………」

「さっきの、お前の仲間だったのか?」

 首を横に振った。だったら一体なんだったんだ。もしかしてと思い当たることが一

つあった。

「まさか、お前の妹、もしくは姉?」

 ヤツは今度は首を縦に振った。それを見た僕はそうか、と短く呟いた。そりゃ怒る

な。自分の肉親が殺されたんだ。しかも人間なんかに。それも僕みたいなちっぽけな

人間なんかに。

 僕は彼女に何も言えなかった。

 だからただ彼女の横に屈んで、彼女の妹、もしくは姉の冥福を祈るしかなかった。

 

「あの時、何もしてやれなかった。変な関わり合いになるのが嫌だったのかもしれな

い。だからきっとあんなことをしたんだろうな……」

 僕の言い訳じみた独白は空しく波の音の中に消えていった。

 思わず俯いた。

 すると不意に頭の上に暖かさを感じた。思わず顔を上げると、彼女が僕の頭を撫で

ていた。自分の肉親を殺したヤツなんかの頭を撫でている。その手つきはとっても優

しく、さっき目に宿っていた憎しみや悲しみはまるで嘘のように思えた。おそらく今

の彼女の目は優しいだろうな、とそんなことを思いながら僕は彼女に撫でられてい

た。

 

 

    χ

 

 

 結構時間が経ったと思う。

 頭の上のぬくもりが消えたと思ったら、彼女は消えていた。

 彼女は僕を許そうとして、僕の前に姿を現したのかもしれないけど真実を知ること

は、彼女がいなくなった今できなくなった。

 さっきまで横にいた彼女の温かさを思い、僕は自分の目の前の砂を掘り始めた。

 海の砂はさらさらしていて、しかも波がたまに砂を運んでくるから掘るのは結構苦

労する。でも僕はずっと掘り続けた。目的のものを見つけるまで。

 ようやく目的のものを見つけることができた。それはあの映像と同じ姿のまま、同

じ格好のまま、同じ場所にあった。

 僕はそれを取り出すと、砂浜に寝かせて波打ち際においてやった。そうすること

で、それは海に帰っていけると思ったから。

 しばらく待っているとそれの身体が突然光りだした。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫

……それ以外にも光っている。その不思議な光は、さっき彼女が現れる直前にも見

た。だからきっとまた彼女が現れるものだと思っていた。が、予想はあっけなく外れ

た。

 その光が消えると同時に、さっき掘り出したものが消えていた。消えるためだった

んだ、さっき光ったのは。光に包まれて、自分がいるべき場所に帰っていったんだ。

 

そう信じたい。

 たとえ違っていても、そう信じていたい。

 人魚の遺体が消えた砂浜には掘り出した砂が不自然に詰まれている以外、何も残っ

ていなかった。波が来ては帰るように、すべて転生している。きっとさっきの人魚

も。

「ごめんな……」

 

 

 翌日から僕の記憶と記憶能力は元に戻った。あれは彼女の怒りだったのだろう。怒

りの証として僕の記憶と記憶能力を持っていった。でも怒りが静まった今、そんな証

は不必要となった。だから返してくれたんだろう。

 

 

「ごめんな……」

 

 

 

 

 

 

 

戻る。

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