プロレス界の若大将・ジャンボ鶴田さん・・・
天国でも永遠に!
日本最高・最強のバックドロップ!!

AWA世界ヘビー級選手権を3ヶ月に渡り保持

本日、5月13日。
元・全日本プロレスの”完全無欠の怪物エース”こと
ジャンボ鶴田さん(本名・鶴田友美さん)が49才という若さで
この世を去ってから満1年がたった。
”怪物ロード”を突っ走っていた矢先のB型肝炎の発病。長い闘病生活、スポット参戦。
99年、師であるジャイアント馬場さんの死去、そして引退・・・。
「米国ポートランド州立大学から客員教授として招かれている」と言っていたので、
第2の人生を力強く歩んでいると思っていたのだが・・・
99年末、肝炎が肝臓ガンに悪化、密かに帰国していたそうである。
その後はプロレスファンならご存知の通り、
マニラで肝臓移植手術の最中に大量出血によるショック死・・・。
2m近い身長にも関わらずJrヘビー級並みのスピードとジャンプ力、
柔軟かつ強靭な足腰のバネ、20年に1人といわれた抜群のセンス、
そしてマラソン選手並みのスタミナと心肺機能・・・
プロレスラーに必要な能力全てを兼ね備えたこの人の「呆れる程の強さ」を知っていただけに、
悲報を聞いたときは文字通り”耳を疑った”ものだった。

若き日の鶴田さんは、いい試合をするが結局タイトル奪取までは至らず、
ファンやマスコミから皮肉を込めて”善戦マン”などと呼ばれたものだ。しかし、である。
あの若さであれだけの世界の強豪を相手に”善戦”したレスラーが他にいただろうか!?
同年代の藤波、長州、天龍はその頃は世界タイトル挑戦はおろか、
セミファイナルがいいとこだったのだ。(天龍に至っては角界から転身したばかり)
”善戦マン”だったからこそ、プロレス大賞の年間最高試合賞を7度も獲得出来たのだと思う。
(これはプロレス大賞の最多記録である)

鶴田試練の十番勝負・第一戦。”AWAの帝王” バーン・ガニアに原爆固めを放つ!!

鶴田さんが馬場さんに代って全日本プロレスのエースと呼ばれるようになったのは
83年8月31日、故・ブルーザー・ブロディから”日本マット界の至宝”
インターナショナル・ヘビー級選手権を奪取してからだった。
試合後、控室で馬場さんは鶴田さん対して
「今日からお前が全日のエースだ」と明言したそうである。
そして翌年2月23日、ニック・ボックウィンクルをバックドロップ・ホールドで破り、
日本人レスラーとしては初めてAWA世界ヘビー級選手権を獲得。
83・84年とプロレス大賞のMVPを2年連続で受賞し、
正しく怪物時代の幕開けだったといっていい。

85年、全日本プロレスはガラリと一変した。新日本プロレスを脱退した長州力が
ジャパン・プロレスを結成、全日に殴り込んできたのだ。
長州はミュンヘン五輪の同期だった鶴田さんとの一騎打ちを執拗に要求、
11月4日、大阪城ホールでついにシングル対決が実現する。
当時のプロレス・ブームは長州ブームと言っても過言ではなく、
「長州ファンにあらざらばプロレスファンにあらず」みたいな風潮があった。
当然オレの周りも試合前は一様に「鶴田なんて絶対に長州に勝てっこない」みたいなことを言っていた。
結果は60分フルタイム戦っての引き分けだったが、
この試合がボクシングのような判定方式であれば、どちらが勝者だったかは明らかである。
試合は終始、鶴田さんが圧倒していた。長州は40分過ぎに完全にスタミナ切れを起こし、
最後の10分間はもう鶴田さんの”公開リンチ”と化していた。
控え室で精も根も尽き果てた長州が「ジャンボは今どうしてる?」とマスコミに訪ね、
「シャワーを浴びて若い人達と飲みに行きました」と聞かされ
「アイツはバケモノだ・・・」と絶句したのは有名な話しである。
「長州圧勝説」を唱えていた友人達が次の日、プロレスの話題に
まったく触れようとしなかったのは幼心に痛快な出来事だった。
しかし、”怪物・ジャンボ鶴田”のレスラー史において、一番印象に残っているのは
お互いを「プロレス人生で最強の敵」と評価し合っていた”超獣”ブルーザー・ブロディとの
インターナショナルヘビー級王座を巡っての攻防だったと思う。

ブロディに対してバックドロップが火を吹く!バランス、フォーム、共に最高だ!!

まさに「怪物vs超獣」の死闘。
一度でいいからこの二人に「両者リングアウト無しの時間無制限一本勝負」で
戦わせてみたいと思ったのはオレだけだろうか。
ブロディが相手の顔面にハイキックを見舞う「キングコング・キック」は
実は馬場さんの16文キックを真似たものであるが、
鶴田さんがブロディの死後、顔面へのカウンターキックを多用するようになったのは
”最強の敵”ブロディに敬意を表しての事である。

87年、長州が新日にUターンすると、今度はタッグ・パートナーだった天龍源一郎が
「ジャンボを怒らせ、本気にさせてやる!!」と牙をむいて襲いかかった。
人生観をもぶつけあう二人の戦いは「鶴龍対決」と呼ばれ全日のドル箱カードとなった。
全日の武道館大会に”超満員札止めマーク”が連発するようになったのもこの頃からである。
90年4月、天龍が全日を離脱するまでの通算成績は鶴田さんの4勝3敗2分け。
鶴田さんの勝ち越しで「鶴龍対決」は終幕する。
天龍離脱後、今度は三沢光晴が”超世代軍”を結成、完全無欠の怪物エースに挑んでいった。
かつて自身が「試練の十番勝負」で世界の強豪を相手に果敢なチャレンジを続けた時代を
思い起こしたかのように、三沢、川田利明、小橋健太ら超世代軍に対しても
鶴田さんは”厚き壁”であり続けた。

H3年4月18日、三冠ヘビー級選手権。 三沢をバックドロップの三連発でKO!!

92年1月28日、スタン・ハンセンに敗れ三冠王座から転落、
これが鶴田さんにとって最後の三冠選手権となった。
8月22日、武道館大会でハンセンを破り三冠王座初戴冠となった三沢は
「鶴田さんの挑戦を退けなければ、本当にエースとは認められない」と言っていたのだが・・・。
11月B型肝炎のため入院、そこから長い長い闘病生活を送ることとなる。
復活を信じていただけに、99年2月20日の引退宣言はショックだった。
が、自分も今こうして肝機能低下障害に悩む身となると、
鶴田さんに「引退宣言を撤回してほしい」なんて思いを抱いていたのは
何とも浅はかだったと言わざるを得ない。

鶴田さんにバックドロップを伝授した”鉄人”ルー・テーズ氏に
「今まで数多くのレスラーにバックドロップをコーチしたが、100%パーフェクトに
マスターしてくれたのはジャンボただ1人だった」と言わしめた天才ぶり。
長州も天龍も三沢も、ついに超えることが出来なかった怪物ぶり。
しかし鶴田さんはこの手のタイプにありがちな”傲慢さ”は微塵も持ち合わせてはいなかった。
リングを降りればファンに対しても誰に対してもあの爽やかなジャンボ・スマイルを絶やさず、
常にフレンドリーな人だった。本当に”若大将”だった。
サインのあとペコリと頭を下げ「これからも応援してください」なんて言った
レスラーは、鶴田さん一人だけである。
当時小学生だったオレは、「礼儀正しい人だなぁ」なんて感動したものだ。
かつてNWA世界王座を巡って死闘を繰り広げたリック・フレアーは鶴田さんの悲報を聞いて、
「ノー、ノー、ノー・・・」と人目も憚らず号泣したそうである。
今ごろ天国でジャイアント馬場さんやハル園田さん、大熊元司さん、
ロッキー羽田さんらと第二の全日本プロレスを旗揚げしているのだろうか。
いや、宿敵ブルーザー・ブロディと「怪物・超獣対決」の完全決着を着けるべく、
「J」のテーマに乗ってリングに向っているのかもしれない。
完全無欠の怪物エースよ、
永遠に・・・。

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