「ただいまかえりました。」
 玄関の戸を引き開けて、ひっそりと足を踏み入れたコウはゆっくりと肩を解した。
 現在小学六年生、存在して一年未満の子供は、妙にジジくさい仕草をする。家では満場一致でオシさまの所為になっている。もちろん、オシもそう言った。
 お茶の風味に、和菓子の食感、餌付けされたと九達郎は言ったが、少しばかりそれは違う。
 九達郎とゆりとの間に、入り込めないだけだ。
 子供のスキルが低い所為で、敬愛しているゆりを独占する事ができず、子ども扱いしようとする相手にどう接すればいいか分からないまま遠慮していたら、めっきりスキンシップが減って寂しい 今日この頃である。それでしょうがないので、二番目に好意を抱いているオシに流れるわけだ。
 ーー九達郎は論外だ。自分の成れの果てをみるのは、心楽しい事でない。

「オシさま、ただいまかえりました。」
「おう。寄ってけ、コウ。かえるまんじゅうがあるぞー。」
 見ればわかる。
 襖を開けっ放しにしている上に、何故か卓袱台の上にかえるが一列に並んでいる。
 急須などを乗せた盆は、畳に下ろし、真剣な眼差しでかえるたちの修正を測っている祖父を一瞥して、鞄を下ろした。
 まあ大体、オシの目は細くて本当に真剣か分からないし、何か理由が合って並べているかもしれないし。
 この頃かけるようになった眼鏡を直すと、一番端の饅頭を一口かじった。
「ああ〜、かえるこちゃんがー。」
 咀嚼しながら、半分弱形を保っているそれを、列に戻してみる。
「こら、コウ。齧ったものを戻すんじゃない。」
 じゃあ、言うな。
 置いたものをもう一度手に取り、まじまじとそれを見る。確かに、不思議だ。
「オシさま。」
「うん? かえろうとかえ蔵もくうか? 」
 適当に指したかえるに目を落としたが、そんな事じゃない。
「教えて欲しいことがあるのですが。」
「なにかのー。わかることならのー。」
「学友が言うには、担任の『手抜きな』作文の宿題があるんです。」
「ほうほう。」
「題名は、『わたしの名前の由来』です。」
「うん、確かに小六になってその題名では、手抜きといわれてしょうがないのー。」
 けたけたと本当に面白そうに笑って、かえ蔵を取る。
 片手でお茶を淹れ、寄越したそれをまじまじと眺める。これとその隣の物は、何が違ったのだろう。一緒の箱に入ってて、一緒にうちに来て、隣となんら形の差異がない。
「どうやって、多大な名前の中から、それを選べれたのか、分からなくて……。」
「なんでおまえは難しく考えるんだろうね。」
 かえ蔵の表皮を剥ぎながら、細い目をなおさら細くして微笑む。
「これから人間になっていく相手に、自分の知っている中で一番の希望を込めただけじゃないか。簡単だろう? まあ、大きくなったら、固体識別になるだけかもしれんがなー。」
「オシさま、では、コウという名前は? 」
「そりゃ、名付けた者に聞くのがいいだろうよ。」



「九達郎。」
「なんだ。」
 すぱんと派手な音を立てて、襖が開けられたのにも関わらず、本を読みふけっていた九達郎は、簡素に応じた。相手も、オシやゆりに対するよな礼儀は省いてある。
「『コウ』と名付けたのは、九達郎か。」
 上から下まで観察されて、どうやら、本気か冗談か見極めようとしたらしい。訝しげな顔で、それでも答えてくれるようだ。
「コウ、わたしの仲間の名前を言ってみろ。」
 なんなのかと一瞬戸惑ったが、九達郎の仲間といえば、4人しかいない。
「まずく、くらげ、刃露銀、…独楽? 」
「どれも、普通じゃない名前だな。」
 指折り数えたそれに、自分にはそうと計れないが、九達郎が苦々しく言うからには、そうだろう。
「名付け親の研究員達は並んで、変な名をつけるのが趣味だったのかと思う。それぐらいには、変わっている。」
 ああ、そうか、それもそうだ。そう思ったのは、名前のおかしさではなくて、自分の境遇だった。確かに、固体識別をつけるなら、最初の段階にするだろう。ならば、家の者に聞いても意味がない。
 訝しげな顔を崩さず、
「おかしいな。何故そんなことを気にする。何かあるか。」
「名前についての作文が出た。」
「そうか。」
「あそこはどんな基準で名前をつけたか知っているか。」
「まずくは、『先駆』。初期段階では、露払いの位置にいたからとも聞くが、それ以外の『先駆』でもあるだろう。
 くらげは、くらげが、気に入った詩の主人公からとったそうだ。
 刃露銀。好戦的な性格だからな。あれは。
 独楽。回り続けるあれは、四角でも三角でも柔らかい流線型にしてしまう、そこを気に入った人がつけた。」
 淀みなく呟いた九達郎に、コウも呟く。
「九達郎。」
「九は完璧な数らしい。それに達する男になれと、そういうことらしい。」
「ーーあるのか、意味が。」
「……ある。」
 暫く逡巡していたが、眉を寄せつつ九達郎に伺いを立ててみる。
「まだ、開いてるだろうか。電話させてもらっていいか。」
「なぜ。」
 不思議そうに隣の部屋を指す。
「名なら、ゆりに聞け。」



「ゆりさん、今いいでしょうか。」
 襖の外から呼びかけると、すぐさまゆりが嬉しそうに顔を出した。
 九達郎と大体背の高さが一緒だから、見上げる位置は一緒のはずなのに、何とはなしに見続け辛く目を離す。だから、ゆりが口端では微笑んでいても困った目をしているのに気付かない。
 意識して笑うとコウの手を握り、部屋まで導いた。
「ここまでくるってことは、用事があったのかな。」
 洋菓子を発掘しながら、声を掛ける。静かではあるものの物怖じしないコウは、どうやら自分の前だけでは萎縮するらしい。オシと九達郎は当たり前の事として、ほうっているが、ゆりとしては承知しがたい。家族としてむかえた相手が自分と距離をおきたいとするのが、どうも落ち着きをなくす。まだ、オシに対しても敬遠していたのならまだ理解は出来たのだが。
「はい、教えて欲しいことがあります。宿題で作文が出たのですが、それで。」
 そこまで言って、言葉を止めた。
「なんについてかな。」
 何について迷っているか考えず、コウを促した後硬直する事になる。
「『わたしの名前の由来』です。」
「…………ええっと。」
 チョコにクッキーにスナック菓子。コウの目の前に積んで、迷いに迷い聞いてみた。
「書くの? 」
「明日提出ですが…。」
「ええっと、確かに、たしかに名前をつけたけれど…、えーと、えーと。」
 ああ、やっぱり自分の名をつけたのはこの人だったと喜びが満ちる前に、コウの思考は止まった。
「怒る? 」
 ーーどういう意味でしょうか。
 何を感じたのかびくりとでかい身体を竦めて、いらんことのみをずらずら申し立てる。
「だって、名前決まらなかったんだもんー。まさかそんな宿題出るなんて思わなかったんだもんー。親爺様はおまえがつければいいって言うし、九達郎は、センスがないって言うし、おれだって、名前なんかつけたことないし、コウ見てから、ノート埋まるほど考えたけど、決め手なかったしー。」
「ノート…。」
「見る? 刃露銀あたりなら考えてくれるだろうけど、せっかく家族になったんだから、最初のことだし決めておきたくってさ。」
「ーーで、どれにしようか考えてもどうしようもなかった時に、ふと横を見るとあったんだよ。」
 うろうろと手を彷徨わせた揚句に、へにょりと濃い葡萄色の文机の一角を指した。
「……辞書が。」
 まるで、テストでカンニングしたのがばれた生徒のようにしょげている。
「それはともかく、辞書を開いたら、『(コウ)』と書いてあったんですね。」
「まさか。1回目はろくでもなかったから、2回目に書いてあったんだ。『邂逅』って。
これから逢う人で、これからいろいろなモノに会いに行くから、それがいいと思ったんだよ。」
 それでも、と続ける。
「最初は『邂逅』にしようと思ったんだけど、親爺様に反対されてね。」
「そんなに変ですか。」
「まあ、単語そのままつけるのもあれだなー、と思ったからいいんだよ。それに。」
「それに? 」
「カイと呼んでいた相手が、行方不明の上に、生きているかも分からない、そう聞いて、付け辛いものがあったし。」
 そりゃそうだ。



 原稿用紙に最後の句点を打って、枚数を数える。無難に纏めたら最低枚数ぎりぎりだった。
 鞄に入れておこうと立ち上がったら、椅子が軋みをあげた。
 すたん。
 まるでそれを聞こえたかのように、ーー確実に聞いていたのだろう。小気味いい音を立てて、襖が開かれた。
「検閲だ。」
 にっこり笑ったオシと九達郎が手を差し出した。



おしまい





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