三和土に靴を揃えて置き、スリッパを出そうとして思い出す。 「………………ただいま…? 」 一応声を掛けてみるものの、この言葉の意味に蹴躓く。ゆりには慣用句だと言われ、九達郎にはルールだと言われたが、誰もいないところで言ってもしょうがないだろうに。 なんとなしに気恥ずかしさを覚えつつ、言ってみたものの虚しい行為に思えた。 「おー、帰ったかー。コウ、荷物を下ろしたらちょっくら来なさい。お菓子があるからなー。」 能天気な声が返ってきて、ようやくコウはスリッパを履いた。 「オシさま、ただいま帰りました。」 「おー、おー、饅頭と煎餅しかないが、まあ来なさい。」 すたんと滑りやすすぎる襖を開ければ、相も変わらず、物の少ない部屋だ。表に出ている家具といえば卓袱台のみ。 ぱさりと読んでいた紙を伏せ、手招きする相手に逡巡する。 そろりとそのまま脚を踏み出せば。 「ーーーースリッパは脱いでな? 」 「はい。」 座布団におそるおそる座ったコウに、嬉々とお茶を淹れ茶菓子を差し出す。 それにしても。そうコウは思う。相も変わらず、変な相手だ。観察できる暇があればそれなりに相手を計れる筈なのだが。 自分が未熟な所為もあるのだろうが、それでもゆりを形作る物は見えた気がしたし、九達郎は言わずがもがな。貌と仕草である程度素性が知れる。笑いを仮面とする者は多いけれども、それならそれでわざと被ったモノは眼孔だけがくり抜いてある風に見える。それを覗けば、大体の事が。 それなのに、この相手ときたら目も笑っている。 おかしい。なぜならこの相手はゆり、そして九達郎の保険だから。ゆりだけなら分かる。一般人であるし、養父だ。だがしかし、九達郎も肩の荷を預けているように見えた。 「どのような御用でしょう。」 この普通の老人に、自分の一部を預ける事になるのだろうか。 「ーーーーーーいーや、別に何かというわけじゃないがなー。」 肘をついて、饅頭をわしわしとむさぼるオシは、少しばかり不貞腐れた様子で個別包装の煎餅をコウに投げ渡した。 「困ったのー。わしがコウと仲良くなろうとするのをコウ自身に止められるんじゃ、難しいのー。」 「何を言ってるんですか? 」 しょうがなく、煎餅を割りながら呟く。 「オシさまは、大黒柱というものでしょう? 家の監督官のようなことをすると聞いています。そうであるならば、例えば一兵卒程の自分との間に友誼を結ぶというのは難しいことだと思いますが。」 「……はは、困ったな。」 「違いましたか。」 「違いましたよ。どうしてそっちに行くかのー。」 やれやれと呟き、茶を啜るオシに従って、煎餅を食んでいくが、食べた気がしない。 「コウ、『学校はどんな塩梅だ』?」 びくりと手を止め、オシを窺い見る。 「黙秘権は。」 「あるもんかい。」 「申し訳ありません。一般人への擬態はまだできていません。」 逡巡して答えるも、今日も通った場所の閉塞感を思い出し、息を吐き出した。 甲高い子供の声が波のようにざわつき、一体感があるのかと思えば、クラスでも何個かのグループに分かれていて相反するほどでもないが交じり合う事がない。妙な場所だと思う。 ゆりが懸念事とし、九達郎が確実な想定としていた通りに、コウはクラスで浮いていた。 小学校6年から学校に通うなんて無茶かもしれないな、といった時のゆりに反対するんじゃなかったと、今では思う。学問ならともかく、あそこは暗黙の了解が多すぎる。道理でないものを一般常識として悪びれることなく糾弾を行う。 「コウ、今時分の学校なんて知らないが、はしかい子なんてどこにでもいる。学校なんていくらでもある。」 「はい。」 「他人に迷惑になること以外、気にするんじゃない。」 「……? 」 ひよこ饅頭の表皮を剥ぎながら、うさぎ饅頭に色目を使っていたオシが、ぼんやりとコウに目を向けた。 言うまでなく察せ、と言う事なのだろうが子供である経験値が低すぎて、いまひとつ飲み込めない。 「ゆりさんが、学校に行けと言ったのは、コウに視野を広める機会を与えただけじゃからなー。自分が行ってないものを、コウに強制するわけあるまい? ただ、この国では一般常識になっているものを知らんのはさびしいじゃろうが。」 内緒話をするかのように小さくなっていった語尾は、ばしばしと肩を叩かれると同時に元に戻った。 「まあ、せっかく小学校から始めることにしたんだ。なら全て楽しめ。金と時間がかかってるんじゃから、楽しまないのはないじゃろ。」 「で、楽しめない状態になったら、転進してもいいしのー。すきにすりゃあいい。」 「は…い。」 言葉上はそうだが、学校をやめて日がな一日ひなたぼっこをして過ごす訳にいかないのだから、理想論だとオシをまだ良く知らないコウは決め付けた。 「で、家の中のことだが、ゆりも九達郎もわしも人から避けて通られるほどじゃあないとは思ってるんじゃが、まあそこはそれ、人の相性は分からんものだから、逃げ出したくなったら、そういいなさい。つてを探してこよう。」 「そういうことにはならないと思います。」 「そうかね。」 「はい。」 きっぱりと返ったいらえに、オシは気圧されたように瞬いたが、にっこりと笑う。 オシは年齢も外見も老人枠なのに、笑いだけの表情をする。笑う事を肯定して、全部で笑うから珍しい。矜持も裏もなく笑う事だけに専念できるのは、子供だと思っていたのだが。 「そうかー、じゃあついでにこれも見ていきなさい。」 ぱりぱりとうさぎを剥きながら、部屋に入る前に眺めていた紙をコウに寄越す。一見しただけで、素人の手作りだと分かるポスターだ。 「犬探しですか? 軍用犬か企業秘密を…。」 「持ってたら楽しそうじゃなー。ただの犬探し。ここいら一帯に配っているらしいのー。」 白黒のコピーに拡大した為に劣化している犬の写真。白地に黒っぽいぶちだと書いてあるから、あまり差異はないだろう。日本犬系の雑種がこちらを見ているだけの構図。 「コウ、愛犬を探すのは情だよ。」 少しばかり眉を寄せて、考えてみる。オシがそういうのなら、一般常識なのだろうが、一般的な犬達の間から唯一を選ぶのはどうしても困難なように思われる。珍しいものなら、探すだろう。自分のものなら、追いかけるだろう。しかし、代替品があり意思があって逃げたものは、手に入れてもいいものだろうか。 「もし、犬を飼っていて逃げたら探しますか。責任が問われないこと前提の上でそれをしますか。」 「探すよ。最初の頃なら、どうして逃げたか知りたくて探すし、その後なら、理由があるからそれを知るまで探すし、最期の方なら看取るために探すよ。」 けろりと、オシから当たり前のように返された答えは、満足はしたものの。 「それは、犬が前提とされてないようですね。」 今度はにたりと笑った。誤魔化す気で満々だ。 「おなじだと思うがねー。まあ猫でもいいんじゃが、ーーやっぱり犬の方が好きじゃなー。いいぞー、犬は。特に複眼犬。」 「犬? え、昆虫じゃありませんか。compound eyesですよね。」 どう言えば伝わるかとオシは空中に描いて見せるが、それが顔だか目だか体格だか。何度もなぞるがわかる筈がない。 「む。犬でもあるじゃろうが、ほら、あー、確かシベリアンハスキーとか、泥鰌犬とか。日本犬でもいるな。」 「泥鰌犬ってなんですか。そういう犬がいましたか。」 「むう。何て言うんだったかな、ほら、うさぎ狩りの、短足で、ビーグルじゃないアレは。」 空に妙なサークルを描くのを止めて、コツコツと卓袱台を叩き始めるのを見て、ふと思い当たった。 「ダックスフントですか。ーーと、いうことなら、複眼というのはもしかして眉毛に見える模様のことですか? 」 「おーそれそれ。」 手を叩きだしそうな様子に、胸中に何かがことりとあるのを知覚した。 「一つ言わせてもらえれば、ダックスフントの由来はアナグマの猟犬ですよ。」 止める間もなく零れ落ちた自分の言葉に、コウは顔色を失くした。 開けてみれば、余計な一言だ。 「まあ、そういうこともあるじゃろーなー。」 一瞬の内に、瞠目し面白そうに笑った表情を引き締め、演技がかった調子で少しばかり遠い目をして嘯く相手に呆気に取られた。 普通、歳少ない子供にからかわれて、善しとする筈がない、そう思っていた。 あまりに知識と現実が離れていて、身動きしづらい。 正座の脚を組み替えて、そういえば一つ疑問があった事を思い出した。自分の知らない見解を持っているかもしれない。 「オシさま、帰った時に、誰もいなくてもただいまと言わなくてはならないのは、どうしてですか。」 「日本にはやおよろずの神さんがいてのー、その方々に報告してるんじゃあるまいか。」 家鳴りに垢なめにブラウニーにわろどん。あれかね、あの著名な検索サイトは、ガリバー旅行記のyahooから名付けたのかねー云々。 「わからないんですね。」 「もちろんわからん。じゃが、疲れて帰ってきたときに、この場があってよかったと思うしなー。帰ってこれた時間もその時でしかないからのー。」 「あれは、人だけに言う言葉だけじゃないんですね? 場所とか自分に対するものも含まれている? 」 「そう。わしはそう思っている。」 「だから、もし出て行っても、帰ってこれるときには帰って来るんだよ。」 「予定はありませんが。」 「そうなったときは、ここがあればよろしくお願いします。」 何の返事もなかったが、ぐしぐしと頭を掻き撫ぜられたのは、覚えている。 おしまい |