「これをくれ。」
 犬のおもちゃのように、噛んで、舐めて、動かして、人のものだというのに、さんざ弄んだ揚句にこの言い様だ。現在それは、うつ伏せのシャームの腹の下にある。
 これ(・・)の所有者、ディーズムは面倒臭そうに、その場所から引きずり出した。
「なあ、ディーズム。」
 取り返されたそれにまた、手を伸ばして、口を寄せ、噛む。
 散々噛みあととよだれだらけになったそれを撫で、ディーズムは不思議そうにシャームと目を合わせた。
「無闇に欲しがるな。使いようのないものをどうする気だ。」
 続けようとしてから、ふと何かに気付いたように口をつぐむ。
「使い魔でも造る気か。」
 奪い返されない事に嬉々として、爪あとを刻んでいたシャームは驚いたように目を開いた。
「なんで? 」
「それこそ、なんで、だ。魔力はそこそこ篭っているからそれでかと思ったんだが。」
 首を傾げながら、もぐもぐと食んでいたが、独り言として呟く。
「そんなことは思わなかったな。そうか、その手があったか。」
 かたちを辿って、指を走らす。
「べつに…。
 べつに、ただ、抱いて寝ようかと思っただけだな、うん。
 噛んで、舐めて、齧って。」
 その自分の言葉に触発されたように、口を寄せる。ただの癖のように、そこに吸いつけられるように。
 芥子あたりでも塗りたくっておこうかと、その持ち主は思ったが、それでは赤ん坊相手の対処法だという事も思い出して、げんなりした。自分が選んだ相手との関係で、そんな問題が出て来るのか。
「腐るな。」
「腐る前には食べきるもん。」
「わからん。そんなことではやれん。」
 先ほどより無遠慮に取り返して、放り出す。あまり、その事に気をかけず、再度手の平でそれをシャームは撫でた。
 ずっと傍において、腐ってくる頃に食べ始めれば、それからも所有しているという事ではないだろうか。使い魔にするというのも考えてみたが、意識を植え付けてしまえばそれでなくなる。それにいつどこで捨て駒になるかわからないそれより、モノとしていた方がずっと扱いやすい。
「んー。ただ、熱情を抑えるためには、必要に思えるんだよなー。」
「わたしを試すのにも使えるしな。」
 簡潔なディーズムの台詞に、ぽんと手を打つ。
「ああ! それ一番の目的なんだけど! 」
「やらん。」
「えーひっどお! 恋人の言葉じゃん! 」
「今、どこで何してたか言ってみろ。」
「えー、寝室に、恋人のディーズム連れ込んで、やらしいことした後、これが欲しいってねだってたトコ。」
 今先まで噛んでいた中指をしゃぶり始めた恋人(?)に、このまま自分の右腕を託したままで骨まで齧られそうだと、何となく現実味を帯びてきた遣り取りに溜め息を吐く。
 どう転んでも、雰囲気なんて出るもんじゃない。
 何が最初で、何をとちくるってこうなったんだったか。
「こういうのは、シャームのほうがくれるものじゃないのか。」
 心底惚れた相手に、自分の一部分を捧げるのは、ほんの時折ある。色町から発展した街の意識に、それが残り香としてあるのかもしれない。問題は、シャームは精神を表すのに肉体を使うのかと、せせら笑う方だと思っていたのだが。どうやら、認識を改めなくてはならないらしい。
「小指とか? でもなー、馴染みを切ろうとした時に、先手うたれたしなー。それにどっちかって言うと、旦那の浮気防止に逸物切り落とす女房の気持ちー。」
「……逸物でないだけましなどといったら、代わりに切り落とすからな。」
「や、だれが女房だとか旦那だとか言わないの? あ、そ。だってさー、待つのは嫌いなんだけど。ーーおまえが、状況悪くても、そこにいけないし。」
 手助けだって、出来ない。
 塔には寄るだけで、自分の物を残していったりしない、どこから来て、どこかへ帰っていく。
 相手の何を持っているのか、そんなことはあるけれど、ないもので答えなくてはならない。
「駄目だな、やれない。」
「まあねー。」
「代価を貰わなくては。」
 真剣味を帯びたあかい目を見詰めて、淡々と取引内容を語る。
 ディーズムにしてみれば、利き手といえど、たかが肉塊だ。
「熱情が減る、シャームが安定感を得る、どちらもマイナス要因だ。それを補った上で代価を貰わなくては腕は渡せんな。」
「買えると思っていいんだ。」
 漸く、右腕に触れていた手を離し、値のついたモノとしてそれを見る。
「何ものにも代価はつくものだ。金でけりがつく場合もあれば、それ以外の場合もある。」
「ふーん、値は。」
「提示してもらおう。」
「えー、んじゃねえ…。」
 先程の手で触っていた方がましなぐらい、質感を持って視線で嘗め回す。何度も繰り返し眺め、腕についている人のことを忘れたかのように見入る。
 そして、その忘れていた人の言葉。
「希望額にいかなければ、けるからな。」
「! う。」
 目の前に、自分の物とできるかもしれないものがある。
 欲しいと思って、口に出せるのは百の内のひとつやふたつ。そうシャームは認識している。その欲しい中で手に入るというなら、どうしても欲しいものだ。
「得たいと思う感情の値をつけろ。右腕が埋まるほどの代価はなんだ。」
 爪の形を辿りながら、腕のないディーズムと腕を食べた自分とそれからの感情を考える。
 それでは、どうしても欲しいと思えば思うほど、その価値は大きくなるじゃないか。
「じゃ、予約というコトで。」



 肘から筋肉の流れにそって、指を走らせる。
 ディーズムの腕を予約して、大体三ヶ月。塔に寄るディーズムの周期から言って遅くはない。
 待ちかねたように隣に座ったシャームだから、交渉にはいるかと思えば、おとなしく座っている。
「腕はいいのか。」
「もう手に入れた。」
 けろりと応えられた言葉に、気付かぬ内にディーズムは顔でも顰めたのだろうか、珍しくシャームの講釈が入った。
「これを、得た、そう思ったから、これはシャームの所得物となる。」
 指を止め、にんまりと見上げた子供に、頷くしかない。
「そうだな。」
 主体的に世界を捉えれば、総ては、自分の思い通りになる。
 客観との誤差は、無意識下での自らの歩み寄りか、世界が都合よく出来ていたかによる。ただ、信念に近い感情は、真実であり、現実だ。
 『ディーズムの腕を手に入れた』、それでいい。
 それでもどこか名残惜しげに腕をさする。
「なでろ。」
 ごろりとディーズムの膝の上に身を乗り出し、ごろりと腹を向けた。
 シャームの腕としては撫でるしかない。



おわり





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