バルコニーに向かっての窓は開け放たれ、秋の闇が外に広がっている。
 虫除けの香が微かにたゆたい闇を擦れさせようとするが、深みを帯びさせるに留まる。まだ冬や霧雨の泥濘のような深みはなく、さりとて夏の明るい闇ではなくなってしまっている。
 部屋の中からその中を見通そうとするような視線で、睨み付けている上級仕官の装いの男がいる。
 そうというよりは、その表情が地になってしまっているのだろう。眉間の皺もくっきりと、口端を引き締めて。
 この夜半までご苦労な事だと思われるかもしれないが、よくよく見れば、少しばっかり目元が赤いのが見て取れるだろうし、いつもは見本とばかりにきっちり着込んでいる制服が、くつろげられているのがわかるだろう。纏っている雰囲気が堅牢過ぎて見過ごしかねないが。
「待たせたか? ササン。」
 背後より掛かった声に、視線を動かさず首を振る。
 他者のーーここの主のヤゴンの立てる金属のざわめきにも、ありえるべきか微動だしなかった。
「ヤゴンどの、あの音はどう感じる? 」
 ヤゴンは、ゴブレットに注いでいた手を止め、ササンと同じくそれを聞こうとする。しかし、不自然な音は聞こえない。
 この若き友のみに聞こえているのだろうかと思う。高名な宮廷魔導師だった父を持ち、その後押しもあり左旗覇天将軍まで上り詰めた(総大将として総悉空将軍がいるものの、それは王家の血を引く者を座らせるのが慣わし、現状としてそれ以外の者が座れる最高軍位の片方の)このササンは、時折常人を凌ぐ事をしでかす。
 これもその一端だろうか。ーーついで重ねられた言葉に、それとは違う事が知れたが。
「この虫の鳴き声、これはなんだ? これに何を感じていたんだ。」
 ササンの父親は鬼籍に入ってしまっている。残る家族は、養父と学士である兄弟だけと聞く。
「ただの虫が立てる音でしょう。これにあれは何を感じるというんだ。」
 苛ついたように面前の闇を睨み付ける。
 何が言える。それはササンの禁断域であるし、これ程までにそれを避けていたものではないか。この慇懃なほど礼儀正しい男が如何なる時も、あれ呼ばわりする相手は想像つくが、そこに至る前に閉ざされてはどうしようもあるまい。それについて、余りにササンの周りの者は知らされていない。
「………………、ヤゴンどの悪酔いしたみたいです。今先のは聞かなかったことにしていただけないか。」
 何が悪かったか、たかが夜になれば聞こえてくる虫の音に、何を思い起こしたのだろう。
 了承の印に一つばかり頷いてやれば、申し訳ないと居心地悪げに笑った。



 祝賀の宴から、部下達に延々と朝まで続くだろう、二次会に誘われていたササンを首尾よくせしめたヤゴンは、やはりと思う。
 この息子並みに歳の離れた同僚は、どんなに離れてもどんなに酔っても家族をーー、アギルを忘れられないようだ。
 ササンはうわばみだが、酔えば些か変わった酒癖がある。表面上は全く変わらないのだが、ぽそぽそと口数が多くなり、これはアギルの好物だとこれはペグンの好みだと、旨いものを食べたら呟くようになる。「美味い」「おいしい」と言わないササンにとっては褒め言葉だと周りが知るほど。まるで家に置いてきた我が子を思うような口振りで。
 そしてまた、もっと深く酔えば残り物を包んで持って帰る(そこまで長引く酒宴は余りないのだが)。自分でもその行動には気恥ずかしいものを覚えているようだが、ある程度の弱みは人の警戒心を下げる働きがある。完璧主義を目指しているようなこの男がそれなりに部下に人望があるのは、二つの弱みがササンを柔らかく覆っているからだろう。
 いまだ結婚をしていないこの男を婿にと望む親は多い。
 ヤゴンには娘はいなかったが、いたとしたら急いで縁をとりもとうとしただろう。
 宮廷魔術師の父親が死んで、後ろ盾は薄くなってしまったけれども、部下の人望がある。左旗覇天将軍の位がある。しかとした派閥に属してなく組み入れ易く(ヤゴンに言わせれば、「…一般見解、だから…な。」との事だが)、身内の不利益を招かない性格。
 対して、同格の右旗掃地将軍であるヤゴンは、この形振りかまっていられない時も早々完璧主義を降ろさない、面白味のない真面目振りの、婿なんかに来させてしまったら、絶対ボランティアだけして生きているような学士と陰気臭い養父の魔術師を迎え入れる事になるだろう。それでも。それでも。
 それほどには、このササンという男を気に入っていた。
 何杯目か重ねて、相も変わらず無言のまま時が過ぎる。
 ヤゴンとササンでは、何時もの酒飲み風景だ。
 ふと、自分は程好い感じだが、相手はどうなのだろう、とふと思う。
 酒を酌み交わすのに、「虫の音」が云々など、初めての事。絡み酒が身上ではなかった筈だ。
 自分が顔を出せなかった宴の後に相手を見つけて、久々にササンと飲みたくなったからだが……。
「ヤゴンどの。」
 からりと空けた杯を戻しついでに、名を呼ばれる。本当にそうならば、楽なのだが。
 瓶に腕を伸ばすでなく、杯を伏せるでなく、視線を落としたままこちらを伺う気配。何となく、わかる。
「馬鹿げた話のついでに、聞いてもらいたい。」
「やれやれ、やっぱり悪酔いしていたか。せめて、穏やかに呑みたかったんだがねえ。」
「……申し訳…。」
「まあ、弱みを握るのはよいことさ。素面のときにでも遊ばしてもらうさ。さあ、なに赤っ恥かきたい? 」
 思わず顔を上げた相手に、にたりと笑って見据えれば、何時もより確かに酔っている風に言葉が漏れた。
「ヤゴンどのには、その表情は似合いませんね。」
 よく、こんな顔をしているはずなのにと顔をぐるりとかき撫ぜれば、苦笑して確かにそれに似た顔はしていると漏らす。
 その顔をするには、あなたにはもう少しあくどいものが足りない。
 何が可笑しいか含み笑いをしながら告げられて、憮然とするほかない。
「できれば、思い出したくなかった。あれのことなぞ、もう、必要ないのだから。」
 ぎろりと、窓の外。闇の中で囁く虫の音をねめつけて、嘲笑する。
「必要ないのに、もういないのに、どうして総てなくせないのでしょうね。いらないのに。なくしたいのに。」
 嘲笑を自分に返して、どうしてか、出て来ない自分の言葉に、手持ちぶたさになりゴブレットの側面の模様を辿る。
 ふとササンは、自分の言葉より安定しない感情に触れた方が確実かと気付く。ごたごたと模様があるくせに自分の手を傷付ける事なく、ぴたりと沿うそれよりは、余りに難解でその癖単純な、ひとつに支配されている、それは。
「もし、ああ、もしというには不確実な話だが、もし、私が死んで、アギルがそれまでに死んでなければ。」
 他の指をそれから離さず、ゆっくりと浮いた人差し指を振る。思い出せない曲を引きずり出すように、リズミカルに。
「ああ、それと信じられないほどの後悔を持っていたらだ。この世を呪っていたらだ、そのときは、その時はどうか。」
 言葉を失くしたらしいササンは、ゆっくりと縋るように対面のヤゴンの袖の端を握った。少し腰を浮かせて、行儀の悪い事に酒瓶やつまみの上から手を伸ばして。
 さっきまで溺れていた者の藁だったゴブレットは、ひとつ身じろいで押し黙る。
 振り解かれなかった事に安堵と、相手の目に自分が映っている事に口の端を歪めた。それは少しばかり、笑いに見える。
「アギルを始末していただきたい。」
 厄介な事を押し付けられるのは、重々承知の上だったが、ある意味ササンの根底を壊せとの言葉に目をむく。
「しかし……。」
 さっき、腕を振り解くべきだったのだ。これでは、逃げられない。
 それは現実面では今、振りほどけるだろう。ササンも無理強いはしないだろう。ただ、今先手を受け入れたのだ、これでは離せる訳がない。
「アギルは私の存在する意味。ペグンは私を支える柱。どちらも失えるものではない。しかしそれを覆さなければならない時があるでしょう。」
 くっとササンの指に力が入ったのが、布の微かな引きつりによってわかった。何時もどおりの平常心、全く変わらない視線。外からは、ササンとヤゴンを除いた誰からも、何も見えない筈だ。
 この子はどこまで自分を隠す事が出来るのだろうと、ヤゴンは思う。
「それに、『もし』です、もし。私はそんなに簡単に死ねやあしない。そうでしょう。アギルが死ぬまで、ペグンが死ぬまで。それが穏やかに終わったなら、その時は、土でも灰でももどりましょう。」
 す、と離される指の代わりに少しばかりの寂寥と、焦燥感が残った。引き止めて、引き止めて……何を言えば良い?
「近頃分かったが、あれは、私を望んだわけではなかった。ああ、選ばれていたのはアギルだったんだ。」
 テーブルの下に消える寸前、くっと握り締められた拳を、何かにーーどうせ、過去の人物にだろうが、挑戦するような剣呑なまなざしを一瞬閃かせるのを、目の端に入れてしまう。
「アギルがそれをのぞまなくとも、周りがそれを強いてしまうーー確率は高い。」
 ぽそりと呟かれた言葉に反論したかったが、それを押さえる。
 田舎で橋や道路を組み立てる学士に、何が出来る?
 だが、ササンと同じ血を引いている。ーーササンと同じ事が出来れば……。
 不意に寄って行った思考に、それが真実だと勘が囁く。
 一度きりだ。何故、父親を嫌うか応えるのを聞いた事がある。誰がそれを聞いたかまでは覚えていないが、それの答えはこうだ。
 道具扱いされて、どう好感を抱く。
 その時、そこに居た者は例えだと思ったに違いない。その場の話は、親に扱き使われた時の事に変わっていったのだから。
 同じ体躯の同じ顔の、母親のいない子供達。片方は、産まれる前から持っていた知識と馬や熊を素手で薙ぎ倒せる力を持っている、では、もう片方は?
「まるでアギルの母親だな。」
 核の部分を何も言わず、聞かない。多分、ササンは喋りたいのだろう。それでも、総てという訳にもいかないだろう。そこまで、自分を失くしていない相手にはきついだろう。
「これまで育ててきたと自負をしてきた相手。そんなに簡単に思い切れるものか。ただ、何も起きるはずない日常が欲しいのですよ。家族とともに過ぎていくだけの時間が。」



 では、そうだな。
 ここまで心を開いてくれた礼に、アギルを見ていてやろう。
 そんな事は、早々ないのだろうが、もし、その時が来てしまったのなら。この性質の悪い酔っ払いを気に入っていた証拠に、不貞の学士を見守る。そう決めたから、子供の癖に嘆くんじゃないよ。

 酒に消されていない真剣みだけを持って、ササンに頷いた。


おしまい





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