知識がないから、汚れた部屋だと思わない。知識がないから、寂しい部屋だと思わない。

 引き出しを引くと、表面に指ですった筋が出来た。まだ細く短い指の腹についたしろいものを払って、望みの物を取り出す。何時もの場所にいこうと踵を返したが、変わらない部屋の惨状に気付いたように足をとめた。
 正確に言うと、わかる筈がない。常日頃と変わりないそれに、そこで育った子供が何を気付くというのか。ただ、立ち止まって、代わり映えない状況を見る。
 汚れ乱雑な荷物が溜まっている場所と、物は片付いているものの埃の層が出来ている場所と。繰り返される日常をくっきりと汚れが示す。いなくなった人の痕跡も。
 ひとつ、溜め息を吐く。
 望みのハサミをもった子供は、年齢より大人びた様子で嘲笑う。
 無造作に赤い蓬髪に刃を当てようと目の前に上げ、そうしてそれがなんだったのか思い出したように下ろした。

「ねえ。」
 何時ものように、時計を見ている男の背に呼びかける。
「ねえ。」
 背中が震え、まだ若い男が振り返るのを待つ。今回は、珍しく、振り返った。
 その胸元にハサミを差し出す。
「髪、切って。」
 赤い目で、その男が手に取るのを見て哂う。

 この男は、さいごを見てしまった。
 自分の妻の最期を。
 自分の最期を。
 まだ、男と女が生きていた時は良かった。
 自分から、子供を触れた。
 今では、子供から触れても滅多に反応を返さない。

 子供より暗い赤毛の父親が、柔らかい赤毛を梳いていく。
 まだ就学年齢に達していないとはいえ、魔道士の力の塊を削ぎ落としていく。
 床に赤が加わる。

 予言者なんて、さいあくだ。




 予言者なんて、最悪だ。

 自動販売機のソファーに寝転がって、ちみちみとジュースを啜る。コーナーを区切るように背の高い観葉植物。てんでばらばらの安物のソファー。学術都市ファターブズの「門」の研究機関の内の一つ。そんな所でも荒らされるからか、監視カメラがある。それにきっちり写るようにして寝転がっているわけだがーー。
 とてもつまらない。
 あの監視カメラに、それ用に改良した呪紋を吹き込めば他のカメラからも望むべく術発動が可能かも、でもそれをするには対象をチェックできるように…、などと、何が出来るか考えていたら、あの無機質なレンズが何に似ていたかを気付いてしまった。レンズは青いのにーー青いからか、正反対の色の父親の目を思い出してしまった。
 魔道士にしては短い黒髪を掻き回し、不機嫌そのものでソファーの上で丸まる。あの親には酷い扱いを受けた。そして、そんなに酷くない扱いを受けた。
 ファザー・コンプレックスだの、マザー・コンプレックスなど笑わせる。酷い扱いを受けて、それを引き摺らない人がいるだろうか。
 母親が死んだら、父親も死んでしまった。身体が滅びたのは何年も後だったが、子供にはそんなことわからない。精神が死んでまった父親は、期限付きの生の中で、自分の死に耐えられるよう、ゆっくりと手を解いていった。どっとはらい。
 それを子供が養育放棄と認識したってむべなるかな。
「死ぬるんなら、とっとと死にくさればよかったのに。」
 最後の一滴を舌で受けて、ひとりごちる。
 赦汲牟の情は薄い。少なくとも、自身はそう思っている。ただ、やはり全くないわけでもないので、記憶があればそれに付随する感情があるものだ。父親に触れさせるために髪を切るようにねだったことも、魔力を切り売りして生活を向上させようとしたことも、結局は死者は蘇らなかったわけだが。
 あの男を死者だと見抜けなかった自分が不甲斐ない。八歳にかかるかかからないかの昔だが、普通の魔道士ほどの能力は持っていた筈だ。
「  ……の研究室…… 。」
「ディーズムーー……、予算が……、。」
 ソファーにくるくると丸まって歯噛みしていた赦汲牟の耳に、聞き逃せない言葉が引っ掛かった。何人かがこちらに来ていることは知覚していたが、自分に関わることだとは思いもしなかった。そのままの体勢で手の平を耳に当てる。よりよく聞くためだ。
 手の甲にほの光る軌跡、陽の風の魔方陣。
「だからあいつには何かある。」
 壮年の男の声。嫉妬がかすかに響く。
「ただの勤め人が、オグドニの後ろ盾を得られるものか。何があったか知らないが。」
 何かと思ったら、予算の件らしい。赦汲牟は今期初めて入ったのでわからないが、他の研究員が予算額を聞いて不満を零さなくなったくらいは獲得した事を知っている。六人構成のちいさな研究室に入ったのだが、オグドニの口約束は果たされ、そこではディーズムが責任者をしていた。スポンサー獲得のため出張気味で、いつかない方だが、いつのまにか信頼を得ていたようだ。
 そういえば、このごろ会えていない。
 手の平から伝わる音は、邪推に満ちたものに変わっている。
 それが全て本当でも、何が変わるのだろう。何を言っているんだろう。

 壁に当たった金属音に、言葉が途切れる。
 壁に慣性を無視して存在しているのは、そこの自動販売機で買えるジュースの空き缶。ソファーの陰からゆらりと立ち上がったのは、蓬髪の黒髪黒瞳の青年。常に薄く笑いを刷いているが、それだけというのは滅多にない。目が笑いの形に歪むと、壁に留まっていた空き缶が残りの軌道を描いてゴミ箱に収まった。
「失礼。」
 わざわざ真ん中を突っ切って通り過ぎる。

 空を覆う炎は忘却の縁。
 そこにいた男たちの記憶にあるのは、ここでの能力テストで魔術封殺の部屋の中で魔力を扱えること、扱い続けていることだけ。

 口から洩れるのは嘲笑いだけだ。
 ディーズムの価値は、裏金でも権力でも女衒の能力でもないのに何を見ているんだ、あの連中は。あれを一目見て、『ただの男』とは恐れ入る。少なくとも同類(まどうし)ならば、感じる(りかいする)だろうに。
 ふと、足が止まる。

 予言者ならば、
 予言者なら、……?



おしまい





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