やっぱりちょっと、おかしいんだろう。 無味乾燥な廊下だと思う。斜めに夕日が射すリノリウム張りの道に、白い壁。扉も何号室かだけが順番に打たれているだけで、他は様変わりがない。なんて退屈な。 「ペンキで書くとして、二缶程度でいいかな。足らないかもな。」 ぽつりと独りでーーここらの部屋は会議時しか使われないーー、赦汲牟は埋没する。 ううんと考えて、刷毛じゃなくて、筆だったら足りるだろうということに結論付けた。 扉の内側に転移法陣。床は一面張りじゃなくて30cmの正方形が隙間なく貼ってある。何枚か剥ぐって裏側に何を描こう。 「それはいただけないな。」 「……わかった。変える。」 不意に現れた声に背を叩かれ、先までの思考の変更を試みる。 転移法陣が駄目になるとすれば、殺傷力のない幻覚系の…。 「変えなくていい。止めろ。」 何時の間にか背後に立っていたディーズムが、呆れたように止める。いつもそうだ。何をしようともこの男は怒らない。殆ど読心並にやる事がばれているからかもしれない。それが居心地いい事か判断がつかないが。 ーー怒らせないように手加減しているのが悪いに違いない。 人生の目標に、ディーズムを怒らせることを刻んで(しかし、順番からすればそれを為す事はなさそうだが)、毎度の鹿爪らしい表情を拝んでやろうと、背後を振り返った。 常にかっちりとした格好のディーズムだが、今日は外から帰ってきたのか黒に近い紺の上着を着ている。大体、膝が隠れるほどの長さのそれは、妙に赦汲牟の心を引いた。 少なくともこの廊下への関心がさっぱり失う程度には。 目の前にへろへろと立った赦汲牟を見下ろして、内心首を傾げた。 いつものごとく、悪戯を仕掛ける風だったから内容を聞くまでなく止めたのだが、まさか間違っていただろうか。いつもなら、馬鹿げた事を言い出す筈が、口をつぐんで少し目を潤ませて見上げてくる。 …ぺろり。 「何をしている。」 …ぺろり。 「スカート…、じゃないから裾めくり? 」 「たのしいか。」 「やっぱり、男の浪漫でしょ。」 ねえ、と同意を得ようと見上げれば、難しい顔をしていた。 男相手にするもんじゃない。しかし、女の子相手にするものでもない。余計な事を言うとこいつのことだ、誰構わず手を出すに決まっている。だからといってされて楽しいものじゃない。ーーそんな考えが、混じり切らずに浮いている。 ふむんと満足そうな笑いが赦汲牟から洩れた。 「ーーこういうときは、『まいちんぐ』て言わなきゃ。言え。」 「馬鹿か貴様。」 そうかー、ばかかー。 裾めくりしたって、何したって許されるなら、馬鹿になりたいが。 …………手の内を読まれているのに苦言だけで怒った事無く、他に被害が及ばないのならそれなりに許容する相手。 ……。 ……許されているんじゃなかったら、なんだろう。だが、コレが心底欲しいもんじゃない。 「えーい、襲ってやるー。」 「殴るぞ貴様。」 タックルしかけてきた赦汲牟を抱き留める。 成人年齢に達したとて、まだ見下ろす形になる相手は、小さい頃から知っている事もあって自分の息子と同じように思えてしまう。言動も行動も安定してない所為で、ややもすればそれより低く感じる時もある。 腰に手を廻したまま、ぴくりとも動かなくなった赦汲牟に、剥がすのを止め今度は何を悪戯しているかと見下ろしてみれば、ただ止まったままだった。 圧縮方程式もなく、無声音スペルもなく、呪紋印もなく。 これは珍しい。それとも、何か企んでいるのだろうか。 さて、どうしようかと張り付いたままの赦汲牟を眺めていると、そろりと対象物が動いた。 服を握り締めたか、背の部分が微かに引っ張られる気がする。と思ったら、余りに些細だったが横腹を擦られた気がした。そこは赦汲牟が顔を当てていた場所で。 ーー色気より何より犬に懐かれた気分だ(しかも犬の方がもう少し意思を伝えてくるだろう)。 本当に珍しい事に、甘えているらしい。 「ーー赦汲牟? 」 背に手を廻し、頭を撫でようとーー、逃げられた。 するりと手を解き、顔を俯けたまま離れて背を向ける。すたすたと歩く姿はいつもの姿だ。 ……そっちは行き止まりだが。 拗ねるとか怒るとかしない子供の時から知っているから、これが大体7.6%の割合で照れているのだろうと類推する。数字が低いのは、それらに類する事を人前でしないから信憑性がない為だ。 ………………信頼されてないのかもしれないな。 ★
馬鹿な真似をしたものだ。 今日の予定の何もかもをほっぽり出して、巣の中で丸まる。時刻的に今日は終わりに近いが、夕飯も風呂も諦めた。 触れた時は間抜けな事に、止めれると。そう思った。 止めれると、ふざけただけだと、そう思った。身体に手を廻して、親に懐くように抱きついて、どんな感情が出てくるか見たかっただけだったんだ。 何かの拍子で触れる事があっても、抱きついたり、触れる事を目標として誰かと関わらなかったから、目算が狂った。 自分よりーーどう計っても、自分の父親よりでかい図体に寄り掛かって。べったりと手を廻して、ーー自分の体温をわける物の温度じゃなくて、人の温度に少し驚いて。ディーズムが、よろけない事にいい気になって。外套の香りを嗅いで。もうその時には離れたくなくなっていた。 物理的に人との距離をなくす事なんて、父親がいなくなってからした事があったろうか。周囲の距離と自分が開けた距離。必要ないと思っていたが、どうやら身体の方は必要としていたらしい。 まるで急に睡魔に襲われたかのような、落下感を覚えた。もう何もかもどうでもよくって、ただただそれだけに浸っていたかった。 ーー自分の欲しいものを自覚させる相手だが、珍しく、正確に名前を呼ばれた。 ………………いつもはシャームと呼ぶくせに! ほしいほしいあれがほしい。 手に入れ方もわからないけど。 これまで何度呟いたか覚えていない、だが、少しの事で溢れ出てくる塊をずっと抱いていた。 それと十年近く付き合っている訳だ。対処の仕方も馴れてくる。効果の程はーー。 眠ってしまおう。 丸まって何かを孵すかのように身体を丸めて、目をふさいだ。 「何だ、もう寝ているのか。早過ぎないか。」 巣の中で、よだれの池を増設工事の最中、聞き慣れた声が降り掛かってきた。 口元をこすり、もすんと巣から顔を覗かせると、夢でない事の表れが見下ろしている。 「きゃあーん、夜這いだわ〜。」 「楽しそうな寝言だな。電気がついているから、てっきり、起きているものと思ったが。早々に退散しよう。」 やれやれと踵をかえそうとしたディーズムの裾を、握ってしまった。制御が利いていない。 「…ディーズム。」 「シャーム、具合が悪いなら、そう言えばいい。」 ーーそういう結論に落ち着きましたか。 「ああ、うん、持病の空腹の虫に三尸が麻雀してさー、4万点が…。」 「何を言ってるんだ? 」 ノリがわるい。常になくノリがわるい。泣くぞ。 「身体の調子はいいのだろう? 精神が疲れてるんだな。」 「それじゃまるで、精神が病んでるみたいじゃない。」 そんな魔道士役に立たないどころか危険物じゃん。ぶつぶつと引っ込もうとした首根っこを引っ掴まれて、体重を掛けられた。 「それとこれとは違うだろう。身体と同じく精神を休めるべきなのに、シャームは休め方を知らないから疲労しているだけだ。」 床に押し付けられてるんですが、これで休んでいろと言うんでしょうか。その言葉が浮かんだ途端、首から体重が取り除かれた。 「で。」 「で? 」 「いつまでそこで寝てるんだ。さっさと立て。」 ……優しくない。 「収納式の寝台があったろう。出して来い。なんだ、巣に五冊も本を…。チョコバーの袋も捨てろ。」 ぶつぶつと巣の破壊を敢行している。どうせディーズムが立ち去れば、そこで寝るのに面倒な事をする。 巣を作るのは別に、収納できる寝台がせせこましくて使えないからではない。丸でどこの牢屋だと問い質したくなるような赦汲牟好みの安っぽい寝床だ。大体、毛布だの何だので出来た巣の方が、足を縮めなければ寝る事さえも出来ない。ただ…。 「ぴらぴらのしいか。」 ……ぴらぴらの、詩歌? しい、か? のし烏賊……。 「わかった。赦汲牟、本棚が倒れても被害が出なければいいんだな。」 ぶつぶつと文句だか呪文だか唱えつつ、巣からザラ紙を探し出して、自前の万年筆で法陣を象っていく。 それから洩れ出る能力のタイプは、陰の水。方向性は、空間移動術に向いている。まあ、風の属性が多い方向性といえ、他が有り得ないという訳でない。事実赦汲牟が多用するのは、地の属性の縮地だ。ーーしかし、方向性まで探れるほど適正値が高いのに、描いているのは木系の結界だ。方向性で行けば、倒れてきた物を転移させる方が負担にならないだろうに。 ディーズムが隠している事は、これだけじゃないからあまり気にならないけれども。 ぺたりと紙を寝台の上の壁に張り付け、どんなに撫で付けても皺が取れない(記憶合金か?! )シーツと根気比べをしている赦汲牟をほっといて、さっさと巣から毛布を二枚せしめた。 「なんだ、眠いんじゃないのか。寝ていただろう。」 「あいあい、ネムイデスヨ、オヤスミナサイ。」 もぞもぞと毛布の中にすっこんで、ここで鼾をかくフリをするかで3秒悩む。外からする微かな音は、巣を壊している音だろうか。 「何だ、籠があるじゃないか。」 深層部まで破壊するなと一声掛けておこうと顔を覗かせた赦汲牟の前で、ディーズムは籐の編み籠を置き、途端。 人の形が崩れた。 慌ててディーズムを探して、そこいら中の空間を掻き乱さなかったのは、服の山が動いたからだ。その中から灰色の猫が顔を出した。どこかで、この色の猫を見た事がある。猫らしい体格で、長毛ではなかったが、こちらは、体毛が半端な長さの山猫のような体格をしている。否そうじゃないあの色はディームズの髪の色だ。……そんな事より。 せっせこ脱げ落ちた服を籠の中に突っ込んでる、猫を退かし。 「あー。あー。あー。」 伸ばした手は、猫に引っ掛かれた。 『シャーム、人の服に手を出すな。』 「あれ欲しい。」 いつもよりしゃがれた声で叱責されるも、服から目が離せない。 巣材として持ち込めば、居心地の良さが格段に上がるだろう。 『わたしが着て帰るものがなくなるだろう。』 「え、帰る気だったんだ。」 『あったりまえだ。』 妙に力が入ってマスネ、ディーズムサン。いや、当たり前なんですけど。尻尾ぴんっと立ててしなやかに帰って欲しかったんですが。 動物に興味はないが、ディーズムが変化したとなれば話は別だ。 もう一度触ろうとして、するりと逃げられる。 「ーー変身系だったかな。あれは確か血を引いてないと出来ないんじゃなかったっけ。」 『オールグランドは自分だけと思っていたか。馬鹿な。わたしのは獣人が変化したというよりは、治癒術の。』 「…根底から組み替えた。」 『そのとおり。』 したりと鞭のような尻尾で床を打ち、傲然と頤を上げて当然のように言う。 『それより、どっちかによけろ。入る場所がないだろうが。』 「なに? ちょっとわかんないけど、どうしたんだよ。寝に来たの? 」 『……寝に、来たんだ。わからなかったのか。』 「ーーそりゃまたどうして? 襲われに? 」 それに答えず、猫の癖に鼠色の塊は寝台に前脚を掛けると、一動作で飛び乗ってきた。大概大きな猫だと思ったが、中型犬位の大きさがある。猛獣の域まであと少し。 ぐるぐると赦汲牟の周りを確かめるように回って、最後にシーツの中に潜って、顔を突き出した。ぴっ! ぴっ! と耳を振るって目を瞑る。 一緒に寝てくれるのは嬉しいが、人型じゃないと出せる手も出せないじゃないか。 「! それが目的〜ィ!! 」 『…………よくわからんが、そう思ったならそうなんだろう。』 「絵に描いた棚から牡丹餅! 」 うっそりと目を見開いて、めんどくさそうに赦汲牟を見上げてのたまう。 『ああ、そういえば目的を忘れていたな。』 目的も何も、生殺しの蛇たちが地平線までのたくっとるわ。 身体を摺り寄せてきたでかい猫に、慌てて起き上がる。 『本当に貴様は動物が苦手だな。』 「ーー本当に目的が計れないんだけど。」 高い物件は用心する事に限る。個人の価値観は同一ではないけれど、読めない行動は不審、相手が対象者にとってのそれの価値を知っているなら尚更。 『なに簡単なことだ。恩を少々売っておこうかと思ってな。』 ーー恩か。 釈然としないが、それならありえる…かもしれない。 『ああ、恩というより、依存心の方か。』 「依存心を売ったら頼られるだけじゃないか。」 『それで優遇されている身には。』 「俺がこけたら職場の皆こけた。」 『ありえんな。』 ありえない。少々他人を凌駕していても、一つの歯車が欠けたくらいで機関が停止する筈がない。幾ら室で赦汲牟が主要人物扱いされていたとしても、金に糸目をつけなければ、時間を経てず穴を埋めれるだろう。なんなら、代わりにディーズムが出ればいい。安定したタイプでオールグランド。正式に能力値を計った事はないが、確実に上位クラスだ。 絶対的に不審なのは、自分でなくディーズムだというのに、周りの評価は違っている。 『あまりきつく抱きつくな。』 少しばかり思いに耽った隙に、何時の間にか灰色の猫を抱き寄せている自分の手に、呆れた。思考よりしっかりと望みを知っている。堕落しやすいのは精神より肉体だろう。他の生き物の体温を求めて灰色の背をさすり、物理的な感覚を求めて相手を抱き締める。自分のために。 『貴様本当に、動物に触れたことがないんだな。力任せに掴むな。痛い。』 身じろいだ猫を掴む手が、締めるかのように強まる。コントロールしずらい。普通なら、これくらいの掴む力は、人間にとってそれほどのこともない。ただ、これぐらいの大きさの生き物相手だとどうなのだろうか。無意識に絞め殺していたなんて笑い事にもなりはしない。 『シャーム。』 こちらを見上げた猫は何もかも読み取って、したり顔で言う訳だ。 『見当違いだ。長靴装備猫の鼠のように、傲慢で無知ではない。』 「あ、そーなの。じゃ、破呪掛けても大丈夫ってこと。」 背中の毛とおなかの毛と耳の毛の感触の違いを楽しみながら、ひょいっと昔の事を思い出す。10年は昔の事だと前置きして。 「いつも起きたら目覚まし時計が壊れてんの。しょうがないから、それ中心に土の結界張って寝たら、結界ごとどこかに吹き飛ばされててさー。親は空間がどうのこうのって言って、探すなって言うしさー。」 『…………、理解した。帰るから、手をどけろ。』 「いやあん、なぐさめてぇん。」 けらけら笑いながら、猫を抱き竦める。ーー鼻をくすぐる香りは、飼われている獣のものだったが、どこかがディーズムのモノと合致した。 「ディーズム、帰るなら、音がするまで扉を閉めて。“施錠”になる。」 どこかひっかかると思いながら、腕を緩めるとさっさとすり抜けて見下ろしてくる。 『ねむいんだな。』 「う…ん、ねる。」 どうせディーズムの事だから、寝ている内に抜け出す気でここに来たのだろう。寂しくなるのを承知でわざわざ起きている気はない。 目を瞑っていても瞼を通して差し込んでいた光が段階的に落とされ、毛布が引っ張られるたのを感じた。律儀な事に本格的に寝入るまで傍にいるつもりらしい。少しばっかりディーズムに呆れた。役目は終わりとさっさと逃げてくれればいいのに。このままで眠れるだろうかという疑問を握ったまま、身体から力を抜いた。 何時間経ったか眠りに沈んだ筈なのに、目の裏に文字が走る。答えが出せなかった時によくなる現象だ。興奮してて頭が眠ってない。微かに明日の寝不足を危ぶみながら、流れる文字をそのままにする。 《“変身”するには、幾通りかのパターンがある。》 《獣人の血を受け継ぐ者で変化する者も存在するが、近年では血の分散により変化が身体に現れない者も少なくない。但し、変身出来ない者も月齢にしたがって体調が変わる者も多い。》 《常人を凌ぐ身体能力や新陳代謝を具える場合もあれば、髪や爪の伸びる速さやにおいに微かに現れるのみの者も当然いる。》 …ざらり。 目の裏の文字を払うかのように口の端を掠めた何かを、半分寝ながら払った。 「ち、やっぱり、いなくなってるじゃないの。」 巣は半壊、寝台の上のざら紙の結界はそのままで、それでも猫の毛一本落ちていないのはディーズムらしい。 普段より寝床にいた時間は長かったものの、睡眠時間と眠りの深さが足りない。結界には一線加えてキャンセルとし、シーツと毛布は巣建設予定地に投げて寝台をたたむ。脳の皺の溝に昨日の思考の残滓がこびりついている。ぶるりと頭を振って、全てふるい落とした。 夢うつつに見た、枕元に座っていた灰色の猫をも。 おしまい |