ぼうっと寝床の中で枕を抱きしめ、薄暗い闇を透かし見る。 広大な敷地を持つアギルの家は元々静かだが、矢張夜になると更に輪をかける。静寂の音が聞こえるほどだ。 そして敏感な筈の竜の耳でも。余りに何も拾い上げれない事に少々いらつく事がある。元々イリは森を褥に生きてきた。人との交わりは一族一だろうと自負しているが、この大陸の端っこにある部族での話だ。じっくり腰を据えて生活するとの程の事でない。 遠くの話では、風の一派がどこぞの王室と友好関係を築いているとの事。 そして、自分は、どこに属しているのだろうと思う。 竜と生きるでなく、人と生活するでなく。 そしてまた、自分の生活の場を離れて。 無意識に無意識に森は囁く。鳥の声で、葉のさざめきで、遠吠えが、草木の芳香が。 ここに自分のすべてを包む森はなく、人々の活気を望むには遠く離れている。 ーー日が昇りさえすれば、こんな事は霧散するだろうに。 そして、音を聞く。 ひたりひたりひたりと、分厚い壁と扉では人には聞こえないだろうが、ひっそりとこの、イリに与えられた部屋に音が近づいてくる。 ここの屋敷にいるのは、自分とアギル、ペグンーーそれと、もうひとつ。 まあいいや、とばかりに布団を被る。自分に害する者でなし、自分でも憂鬱なこの心情にはほとほと飽きた。 ここの人間達は自分を喜ばせるだろうし。 (竜殿…。) 扉の向こうでひっそりと囁かれた言葉に、身体を起こす。それはそれは微かで、寝ている事を前提で囁かれたものだから、こちらから迎えに行かねば立ち去るだろう。 それは勿体無いというものだ。 自分にしか聞こえない声で自分を呼ぶ僕に、そっと扉を開けてやる。 まだ朝というには微かな明かりの廊下に相手は悄然と立っていた。少し俯いていた目線があがった中には、驚きと躊躇だけがある。それは、すぐに後悔に変わった。 (もうしわけあり……。) アギルの手首を掴んで、部屋に引き摺り込んだ。 ぐいぐいと引っ張って椅子に座らせると、そこらの空間からお茶を引きずり出す。 次いで何か茶菓子でも引き出そうとしたイリの手を止める。 (起こすつもりでは、…なかったのです。) 「起きていた。気にすることじゃないだろう。」 (竜殿は、低血圧でしょう。) 確かにそうだ。 しかし、極々短い睡眠時間で足りるーー趣味で寝呆けない限りーー体質は、そんな事ばらす筈がない。人が寝ている時間、寝床でごろごろしていれば目も覚める。 面前の人間には、ばれているようだが。 「人間と比べれば、非常に楽だよ。ーー眠っている事を確かめに来たわけでもないんだろう。」 アギルの心配を払拭できた訳ではないようだが、少し首を傾け、いつもの様に犬のように見上げる(アギルの方が背が高いのにどうしてそれが出来るか不思議だが)視線がゆっくりと合わさる。 (…竜殿。) 自分がこの問いを投げかけていいのか、この問いは相手にどう受け取られるかまだ迷っている風情で、揺れているのが目の色でわかる。しかし、しかしその問いは口からでるだろう。この何日も考えていたのだろう、ここまできて、明けてもいない早朝に、主人が許して、それを聞きたがっているのに。 出ない筈がない。 (竜殿、あなたの竜の姿を見せていただけませんか。) 目が細まるイリに、少し身体を引く。 (ーーいえ、申し訳ありません。どうか忘れていた……。) 「こんな時間に来て、初日ではなく、そんな顔で? 諦めるのか? 」 まだ強張った顔の相手にどうすればいいのだろうかとアギルは思う。 いまだ見た事のないイリの竜としての姿。水竜ではないようだ。土系でもないだろう。風? 勘を信じるなら違う筈。 遭うまでの竜の形、それを何度思い浮かべたか。霊寄せの華を得る為とはいえ、あった事のない竜は心踊るものがあった。この大陸最強の生き物。叡智と物理的な力とそして自然。 イリと遭ってからは、沈めてある筈なのに浮かぶ思い。 人にしか見えない体躯。その裏にある筈の竜の形。もう霊寄せの華は諦めた。諦めたのに、それだけの為だけだった筈なのに、気にかかる形。 「竜じゃないと思ったか。」 イリの言葉に首を振る。 竜以外である筈がない。分かる。目を見れば、そこにいれば、話せば。 幼子じみた否定だけでなく言葉をかけようと思った。何が言えるか知らないが。 視線が反らされているのを知りつつ、それでも言葉は届く。口を開いて……。 「気にすんな。自分のコンプレックスだ。アギル。くじ運が悪いな。純血種のとでも出会えばよかったんだよ。」 (ペグンが話します。) 「なんて。」 どうせペグンの事だから耳に心地いい筈あるまいなと身構える。しかしアギルの言い分は違った。 (下らないことでも。ササンがいない時は、何も喋りませんでした。) 「おまえが喋れないからだろ。」 (客が来ても、鼻を鳴らすが精々で、そのような時はササンが応対したり、ーーーあの人は、あれに逆らうほどの人ですから。絶対に気に入らなければ話しません。) どのような男だったか知らないが、このアギルに未だ「あれ」と畏怖を込めさせる父親に微かな興味を抱く。 (竜殿を不快にするつもりはなかったのです。もうしわけ…。) 「見たくないのか? 」 さんざんな言い様だとは思うが、とイリは人事のように考えた。 コンプレックスがなくなると思えない。だが、ここですんなりと引かれても腹に蟠るものがある。 そんなに簡単に引っ込められる願いなのか。 (見てもいいんですか。) 「それはおまえしだいだろ。その気にさせてみろよ。」 簡単な事では、その気にならないだろうが。 きょとんとイリを見つめ返したが、目元を和ませた。 (竜殿、あなたに出会うまで、竜とはどんな生き物だろうかと思っていたのですよ。) (知識と行動力を秘め、道理に従う。とおいとおい話の中の住人。) (このようなことがなければ、竜殿を捜すことなく、本の中の一場面だけが溜まっていったでしょう。しかし縁であなたに会いました。竜殿……。あなたの竜の姿を見せていただけませんか。そして……。) (そして、鱗の数を数えさせてください。) 「あ? 」 子守唄が唐突に途切れたような感覚をイリは味わった。 (竜族の鱗の数は一律なんでしょう? たしか、小さいころに読んだ本に書いてありましたが。) 「あ? 」 (その話を思い出しましてね、気になって寝付けないのですよ。大丈夫です。逆鱗には触れませんから。) 「あ? 」 (確か鱗の数はーーー。) アギルは面前に一瞬展開式が広がるのを見た。 焦点を合わせれば、自分の部屋の前にアギルは居た。 薄暗かった廊下は新しい日が射し、もう朝だ。 どうやら竜殿を怒らせてしまったらしい。 軽く頭を振ると今日を始まるために部屋に入った。 鱗の数! 鱗の数! 鱗の数! だって?! 少し考えれば分かるだろうが! 少し調べれば確証つくだろうが! 本当の姿を知りたいじゃなく! 鱗の数! 「正直すぎだ! ばかが! 」 大体自分には逆鱗はない。幼馴染の人間が自分と同じ姿でないのを不思議がって触りまくったからな。 昔ならいざ、今頃鱗のない竜族など珍しくない。水竜の一派にそれが退化したのがいれば、風を操る一族に鉄線のように変化してしまったのがいる。 「だーかーらー、まず! 人に訊ねろーッッ!」 霊寄せの華で失敗しただろ! おまえはーーーーーーっっ!! その日は、イリが昼間まで起きず、ペグンの苛立ちの溜め息が増えたとか、結局アギルにせがまれて竜の鱗の実情を説明させられたとか、イリの竜の姿を間近で見る機会が出来るとか、それは別の話。 おしまい |