アギルに引き込まれた薬屋の中は薄暗く、自分の瞳孔が調節の為に開くのをイリは感じた。 外が晴天の為、家屋の闇に目が慣れないのか動きを止めているアギルそっちのけで、椅子に座る老女に目を奪われる。 ちらちらと白い埃の粒子が舞う中、俯きかげんで、擂り鉢から粉を掬い薬包紙に包んでいく彼女は、何十年も会っていない相手なのか判別がつかない。これは寄って見ないことにはどうしようもないが、合っていても間違っていてもダメージを受けそうで、動きたくないというのが本音だ。 「お客さん、どうしたのかね。用事があるなら中に入んな。それで戸を閉めておくれ。」 大の男が二人とも何をするでないし、突っ立ったままなのに呆れたか匙を置き、男が喋ったようないがらっぽい声で、扉を指す。 「粉が散っちゃうよ。」 (ああ、すみません。) 戸を閉める音も、締めて濃くなった色々混じった匂いも、やっと感じた。 この子は、自分の知っている子じゃない。 無意識に張っていた肩が落ちるのを自覚した。 だから回避しようとしていたのに。 「さて、何をお求めだね。二人とも健康そうに見えるが、携帯用に包むか。それとも他に入用な物でも? 」 烏賊のふねを粉にした血止めの一個や二個買って外に出ようと、イリはざっと手近な棚を見た。 (すいません、取次ぎお願いします。) 「ああ、あんたさん、お義母さんの知り合いかね。そういえば、言っとたわあ。そこからお入り。」 背後の会話に、慌てて振り返ればもう話は纏まったらしく、奥と繋がっている引き戸を引いてるアギルの姿が見える。老女は話もしてなかったように薬作りに戻っていた。 「アギル! 勝手に他人の家に入るなよ! 」 (竜殿、聞いていらしたんでしょう? こっちですよ。) 「黄色いあんたさんもいってらっしゃい。お義母さんは、他所の人もすきでいらっしゃるから、声のひとつでも掛けてもらえんかね。」 手を止めず、言葉を添える女性に背を押されはしたが、イリは入りたくない。ーー入りたい気持ちも多分にあるが、今はまだ避けて通りたい気持ちがそこにある。 「家の護り手なら、余所者の男なんていれるべきじゃないだろ。」 「ほほ、枯れた老婆二人に無慈悲なことでもするかと? 小銭稼ぎにもなりやしませんわあ。それにさきのひと、お義母さんにこってり絞られてましたから、ささといって助けてやったらよろしい。まさか、老いた者の激怒が身体に良いとは思いませんでしょうが? 」 そりゃあ、激しい感情が身体に悪いなんて知っている。特に、ここの女の子は、明るくていい子だったけど、激情家だった。 ふう、と溜め息を吐いて、余計な事を言ったと肩を落とした。これではついて行かねばならないだろう。 引き戸の奥は、土間の廊下。薄暗いので、店の方から入ってくる光で、塵が舞っているのが見えた。左手に炊事場などの水関連。右手が居住空間。 さてどこかと探す前に、そんなに長くない廊下の一番奥の戸の前に、突っ立ているアギルが見えた。 (竜殿、ここです。) 「……。」 だからなんだとか、それがどうしたとか、かえろうとか、ーー自分は、一体どうなっていれば満足できるだろう。 からり。 まったくイリに気を留める風もなく、アギルは目の前の戸を引いた。 「ぅうっわ、待てって! アギル、おまえ、悩んでるの分かってたろ?! 魂喰って感応してるんだから分かってただろ?! 」 (あー。……あー、あの悩みは竜殿でしたか。てっきり、自分のものかと。) 呆けたように、扉とイリに視線を彷徨わせ、アギルは考え込んだ。 (じゃあ、もういっかい戸を閉めましょうか。) ばかーー!! とイリが叫ばないで済んだのは、部屋の奥、ふっかりとした椅子に沈み込んでいる小さな、歳をためた人が手で招いたため。 「騒がしい小童じゃな。よいよい、開けたままでこちらへ来。」 (はい、おじゃまします。) いそいそと上がるアギルの背を見て、あほーーと心の中でイリは叫んでみる。今先のアギルの返事は絶対嘘だ。意図的に、会わそうとしている。 ああ嫌だ嫌だ。経った時を見なければならないのか。 ここから見える風景だって、使い込んだ家具に、古びた壁、ていねいにていねいに使った、あと。 (先達って失礼をば。お元気そうで。) 「おうおう、二度目にすると思わんかったわい。どうやら、失礼なことせんかったようじゃな。」 親しげに手を触れ合わせていた後、確認するかのようにこちらを振り向くアギルの目を無視する。とっくに失礼な事をされている。竜を僕にしようなど、よく考え付いた物だ。 「そこのにいさんも上がったらどうじゃ。」 招く小さな姿に、落胆した物がある。勝手な感傷だ。成長する子供を目に、過ぎる時を嫌悪して森に引っ込んだのは、自分の方だ。あんなに小さな生き物が少しばかりを一緒にすごしたことを忘れても、当然な事だ。 (竜殿。) どうして自分の僕が従者よろしく老女の隣に控えているのかとっても不思議だが、ここに立っていた所で、あのバカイヌは帰ってくる気はないようだ。 招く手の平に寄せられて、それをとらまえればその女の子の表情にぎょっとする。前に見た貌でこちらを見上げる。 「ま…、さか、『おにい』? 竜の? 」 よく見ようとしてか瞬く、歳を重ねた小さな女童の白濁した瞳を見て、理解した。どこまで進行しているか知らないが、これは見辛いだろう。 ぐっと手に力が加わって、胸元でイリの手を握り締めるのに逆らわず膝を折る。 「さわらして頂戴。竜のおにいじゃないの? 」 何十年も時を持つ小さな生命が、手を伸ばして髪を恐る恐る触るのを許す。 「ジャーダ。よく覚えているなあ。」 「いやぁだ、みんな、おにいのこと覚えてた。」 声がかすかに震えたようだったが、聞かなかったことにする。過去形なのも気にしない。 以前は、もっと舌足らずな口ぶりだった。こんな篭った声は歯も老いたから。 「覚えてたわよ? 」 何も変わってない自分が、共にいるのは辛い。一つずつ出きることが増えるに従って、哀しいことも一つずつ増えていく。老いていくのは置いて行かれることだ。自分の可愛い弟分妹分が、自分の知らない悲しみを知って、いってしまう。 ころころとは笑えない小さな身体を抱き上げる。これ以上、顔は見られたくない見たくないだろう。老いた姿も、変わらない姿も必要はないのに、どうしたってこのままだ。 肩が熱く濡れてジャーダの心境を知る。 前もあった。勝気な少女だったが、泣かないで子供時代を過ごす者なんていないだろう。軽く背を叩けば、身体を震わせ声もなくむせぶ。 「いろんなことがあって。」 「なんども、おにいに相談した。」 「あたしの中のだけど。」 あえぎあえぎ、伝えてくる老いた子供に分かっていると背中をさする。 「ねえ、おにい、何かかわった? 」 涙声を抑えて子供の喋りで彼女は問う。前と、変わらない。白髪になって髪量も減った頭をかいなぐれば、はにかんで首を竦めた。 「なにもひとつも。」 「ああ、かわってもそこから見れないのねぇ。」 呆れたように許容して、今度はそっとイリの頭を掻き抱いて、姐さんぶって小さい子をほめるように呟く。 「忘れてもいいのにねえ。忘れてなかったんだねえ。」 表にいたのは娘か、息子の妻。昔の子供は、勝手に育って勝手に親になっていた。 「ーーこの子と来たってことは、いっちゃうのね。」 「一生じゃないよ。」 「帰るのは竜の森へじゃないの。こっちに現れもしない。」 詰るというよりは、息子か何かを愚痴るように笑って言う。 「おにい、あたしたちの孫やひ孫だっているのよ。全てがなくなるんじゃないんだから、時たまは顔を出しなさいね。」 結局大通りを歩きながら、詮索されないことを安堵すべきなのか、余計なことをされたと憤慨するべきなのか、結局は判断つかないままだ。 「それにしても、なんで男二人って分かったんだ? 」 (あんなぞんざいな音を立てるのは、男しかないそうですよ。) 「ていうか、なんでジャーダと意思疎通してるんだ! 喋れないくせに! 」 (モールス信号は無理でしたが、手の平に文字を書いたら分かってくれましたよ? ) いつしたんだ、というか、なにしてんだ、というか、アギル、おまえ、竜の僕だろうが。 どんどん迷走していきそうな僕に、先行きが少し不安になった竜だったが、誰にも気付かれる事はなかった。 おしまい |