大体人里離れ、ついでに男の一人暮らし、風呂は風呂でも池の傍に設置したゴエモン風呂じみたものである。人がいない事前提なので、草木で隠してあるとはいえども、ある程度近づけば丸見えになる。日常では、別に不都合はなかったのだが。
学士が竜を必要とするなんて事があるんだろうか。大体、魔術師と、学士、博士は大本が同じだ。どちらもこの世の論理を求め、住みやすくする為の存在だ、個々人の欲望は別として。違うのは、魔術師がその個人固有の魔力を使い、学士は万人が使える道具を使う。
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学士流に身を整えた男はそれなりに格好がついていた。精悍な顔つきに理知的な目が彩りを添えている。ずた袋並に見えた衣装を整えた今では、身体もそれなりにがっしりしているのが見て取れた。動きも最初から無駄がなかったし、聞いてみれば、兵士の過去があったかも知れない。ついつい忘れていたが、竜である自分でさえ気配を察知できなかった。それに付け加え、蓄えた髭といい、顔の皺といい、年並みの威厳を漂わせている。
総合評価は、いい男といっていいだろう。
「……何か、詐欺に遭ったような気分だ。」
勿論男は、困惑した顔で竜を見る。何を言っているかがわからない。
「まあいいさ。下僕にするんなら、何もかもいいほうがいい。ーーーゲテモノ好きだけどな。」
……ゲテモノ…。
情けない表情で、自分に評された言葉を繰り返す。
ーーーゲテモノ、ですか。
「気にすんな。おまえはかわいいよ。」
ゲテモノだけど。
何か変な事を言われたのはわかっているのだが、それがどこなのか指摘出来ない事に、学士は首を傾げる。
「で、疲れていないなら、さっさと喰いたいんだが。」
……では、お願いします。
軽く足幅を広げ、重心を落とす。力は込めず、しかし気を張り巡らせて。型は、一兵卒のそれだ。竜にとっては、何がなんだかわからない。体を鍛えているように見えたのだが……。
「おもしろいな、おもしろいよ。」
微かに眉をひそめて、学士はその言葉を流す。
フッと身体を沈め、一瞬にして間合いを詰めた学士に対して、竜は動かなかった。振りかざした右手には件の、小袋。
それを核として、方陣が零れている。完成されたそれが、小袋などに収まる筈がない。完成直前のものだ。
人間にしては早い動きも、いまだ完成されていない方陣も竜にとって、まだ脅威ではない。その気になれば、核を盗れる。
ーーー左手を開く。
手の平に血の文字が溢れている。固まりもしないそれが虚空にだくだくと軌跡を描く。
描き出すその文字は…………、フェイントだ。
元は間合いを詰める前に布陣し終わっていた。
ぎょっと、竜の目が大地に向く。
もう完成している。
小袋の方陣が光を帯びだすと同時に、隠されていた大地の方陣の擬態が弾け飛んだ。捩れた空間が天土に伸びていき、二人を押し包…。
…ぱしん。
あれ。
きょとんとした顔をして、小袋をひっくり返して、振る。
方陣が壊れている筈がない。だって、小袋が存在するから。零れだした方陣も、血文字も補足であり、主体ではない。主体はこの小袋であって……。
なんかした?
一瞬の、人間では知覚出来ない内に、2mは距離を保った竜にたずねる。
「なんかしなきゃ、あれにとらわれるだろーが。ここら一帯を牢獄に入れるつもりだったのかッッ?! 」
最初にぽろぽろ零した土くれの一部、それと水滴。ああ、まあいいやとばかりに、小袋の中に突っ込んでいた圧縮方程式を混ぜ、落としたが。やはり、動かしたらすぐにばれた。竜の足下で潰された理論が霧散している。
場所を定めず、ばら撒いたのが運良く動いただけだ。現に一個潰されて、もう起動しない。
これだったら、完成したら竜殿でもそうそう壊れないし、努力は尽くすものだって……。
「誰に聞いたかしらねーが、恐い奴だなッ! 」
術が完成するまでに、壊せた、が、『何も』なかったわけではない。起動範囲ぎりぎりの木がここには存在しない幹に支えられ、根の場所と、広げた枝葉のみが当たり前のようにそこにある。亜空間に閉じ込める呪紋の初期段階を止められなかった所為で、幹がないのに崩れ落ちてもこない葉っぱ達。ここにない幹を切らない限り、落ちてはこないだろう。
「あーもー、理解できるのでよかった。〜〜この馬鹿が。おまえも囚われるところだったんだぞっ。」
ーーーもちろん、心臓を食べなければ、竜使いになれないんだし。
慌てて避けた。
…あぶないー。
顔を掠める爪の持ち主に、当然とばかり文句をつける。その無駄な運動神経を持っている相手に、竜は鼻の頭に皺を刻んだ。
「逃げるなッッ。」
あぶないってるでしょうっっ。
やっとする気になったのか、人の形を放棄した獣の爪あらわに振るう。無茶苦茶な軌道を描くそれに、避ける事しか出来ないのか、反撃の意思を見せずそれでも僅かな動きで攻撃を無効にし続ける。
不意に手を切り裂かれる覚悟で差し出す。その上には、不発した小袋が乗っていた。基となる文字はすべて反転してある。
防御してくださいっ。
「いいやッ俺の勝ちだッ! 」
火の精を含み、膨れ上がる小袋の上に血文字。ーーー竜の。
たまらず、ざらりと小袋は消滅した。
ーーー文字をなしていないと思ったのに。
「いろいろコツはあるのさ。な、俺の勝ちだろう。」
血に塗れていない方、獣のままの爪が喉を軽く絞めているのを感じつつ、頷くしかなかった。
「…なあ、喰われるのも、ーーー悪くないだろう? 」
乱れた衣服を掻き合わせながら、聞こえているものの、返事をする心算はないようだ。
「わざわざ痛くないように寝床で喰ったんだ、痛くなかったろう。喰われたことなんか、ないだろうしな。」
寝転んだまま、途方に暮れたような学士を引き寄せる。
ただただ混乱している学士は、あんまり竜の言葉を受け取れないでいた。ちっとばかり不機嫌になっているのも見えず。
てっきり、竜に心臓を喰われるのかと思っていた。人間が竜を僕とするとされている方法の中で、一番確実性の高いのはそれだったし、術を破る方法論でも逆さまにするのは基本だ。
まさか、まさか…。
「僕の癖に無視するなよーッ。」
ッッーーー魂を喰われるなんてっ。
「おい、こら人間…。」
喉をひっ捕まえたまま、竜のーー家、というより小屋に引きずられた(勿論幾ばくかの抵抗はした)と思ったらベットに座らされて、腹の腑を引きずり出された。
…ように思えたが、そっちの方がよかった。引きずり出されたのは魂。まさか自分が幽体離脱させられるとは、思わなかった。受身も取らず頭からぶっ倒れた自分を、心配する暇なく、断片的な記憶がある。爪と瞳と牙だ。ひとつたりとも人間のものじゃあなかった。それと根源的な喪失感。
そりゃあ、感じるだろう。
「ーーーおい。気分悪いのか。」
魂を喰われた自分は何なのだろう。ーーーゾンビか?
「名前ぐらい教えろ。よべないだろ。」
ーーーアギル。
背を向けたまま、手短に答える。
「……ふっ…。」
引き摺り倒して、無理矢理目を合わせる。
「おまえが悪いんだろ。他にもやり方はあるはずなのに、俺を喰うなんて言われちゃ、機嫌も悪くなる。」
ーーーはな。
左の髪に微かに触れ、呟かれた言葉に口端を笑いで染める。確かに竜の左耳たぶには、花の形の刺青がある。
「わからないな、面白い人間だな、アギル。大体なんで、竜が必要だったんだ。」
蘇らせるために。
「竜が? ……霊寄せの華を探しているなんて言うんじゃないだろうな。」
笑い事じゃない。
「笑いごとだよ。ーーー昔、俺もそれを探したことがある。言っといてくれれば教えてやったのに。あのおとぎ話は、おとぎ話だ。竜の背中に乗って出かければ、ぽこぽこ咲いてるもんじゃない。ーーー他の復活用の道具も探した。ーーー見つからなかったけどな。」
ーーーどうしたら…。
「そんなに生きたがってるのか? 死者が。そんなに必要だったら死還りをすればいい。人格も輪も外れるが、そんなに必要だったら、しょうがない。本人が望むかどうだか知らないがな。」
…………………。
「ーーーそういえば、もう一回喰うぞ。」
ーーー?!
「おまえの声を戻す術は後から考えるとして、話す能力を共有しておかないと、呼ばれても気づかないんじゃ面白くない。それにどうせ、頻繁に喰っとかないと、契約が薄くなるし。どうせまた喰うんなら、一回も二回も同じだよな♪ 」
ーーー楽しそうですね…。
じりじりと下がるアギルの肩を掴んで、喉に牙を押し当てる。
「…楽しいだろ? ーーーああそれと。」
喉の酷い古傷に笑いを吹きかける。
「俺は、イリと言う。よろしくな。」
(歯ブラシは、蛇ということです。)
いそいそと夕飯を作っているイリの背に、言葉が通じるか試すようにベットから声をかける。
「…あ? 」
(このへび、はぶらしー。)
カップ…(三個目)。
おやぢギャグマスターらしいアギルを、目に涙を溜めた状態で、見る。(イリの笑いの沸点が低いだけのような気もするが。)
「何なんだよ。」
(手伝うことはないんですか。)
「飯を作れるのか? 」
(野戦食ぐらいなら。)
そんな酷い家なのかなー。ちょっと逡巡した。野戦食ってのは、基本的に煙を出さず、匂いを出さずか、それとも、大人数用にぐつぐつとするもんだ。どちらにしろ、普通家の中では、しようと思わない料理である。
(ーーー今先の話です。どうして復活させようとしたんですか。)
そういえば、霊寄せの話だったなと思う。何十年か前の事だった。人間だった、幼馴染の。
「ーーーーあー、別に復活させようなんて思ってなかったんだ。……もう一回会いたかったんだ。別れるために。」
鍋を覗き込んでいた為に、イリは気づかなかったが、虚を付かれた顔をアギルはしていた。
「それとだな、ある程度仲良くなったら血の契約を結ぶやつがいたかもしれないのに。背中ぐらい乗せてやるだろ、フツー、ダチなら。精神に論理規制かけるけど、おまえくらいなら、自然法くらい守れただろうにな。ーーーアギルは、俺の僕だから、もう、その手は使えないけどな。」
ぱたん。
間の抜けた人間の倒れる音を背で聞きつつ、きのこスープの出来に満足そうにイリは頷いた。
☆☆☆ 今日の収穫 ☆☆☆
人間(アギル=下僕)
カップラーメン(三個)
おしまい