……泣いていいだろうか。 男子たるもの、厄難何事も笑って済ませ、とはじい様の言葉だった。それもそうだと座右の銘にしても、泣きたくなる事はあるもんだ。 だからといって、本当に悲惨な目に遭った訳ではない。たかが、朝の約束の時間に遅れ周りに謝り、獲物の手入れをして弓の弦が切れ顔に長い事残りそうな跡が出来て、王に呼ばれて館に行く時にちっと穴に落ちても、自分の所為だ。悲惨な事じゃない。…………、でもちょっと泣いていいかな。 どちらかといえば、自分の情けなさに涙がちょちょぎれそうだ。落ちた際に捻った足が泣け泣けと囃し立てる。ああ、ちくしょう、泣くぞ。 腫れつつある左足首を帯で縛りながら、最初の発端を泥まみれで思い出す。 大体、朝の遅刻からして悪かった。自分から言い出しておいての遅刻だからな。 ああもー、どーせどーせ俺が悪いよ。相手は先任ばっかりなのにさー。 これでも時間に正確なつもりなんだけどと己を省みる。とっきどき約束がすぽんと抜ける時がある。忘れる約束と忘れない約束の差がわからない。 自分を育ててくれた隊長と、自分を慈しんでくれた隊長がようやっと結婚すると先任達に聞かされたのだ。発奮しない訳がない。 「で、それをころっと忘れていたわけだよな。」 それからドミノ倒しのように、用事が押され重なった。 それのどれもが上手くいってない。 この場所には足に枝を添えようにも、燐寸より少しましーー、というよりぽきぽき折れるものしか落ちていない。この間からの長雨が地盤を緩めていたようだ。腕だけで上ろうにも触るだけで生き埋めになるかも、と思うくらいには崩れてくれる。 多分これは猪穴だろう。落ちたのは3m×3mのもの。これより小さい物は逃がさない為に底に槍を仕込んでいる事がある。 「俺の日ごろの行いが、いいからな。はははーだ。」 虚しく笑ってみたものの、それがどうしたという内容だ。罠を仕掛ける際、目印に赤い物などで印を付ける。子供でもそれを知っている。急いでいたとしても、あまりに恥ずかしい。 落ちる際、身を捻り、地肌に爪を立てて減速を促してみたが、やっぱり焼け石に水だったようだ。小指を残して爪が剥がれているし、さっきまで指に感覚がなかった。 血と土を拭いたいが、服の中までざらつくこの状態では、意味がない気がする。 ゆっくりと息を吐き出しつつ、両足を折り曲げ膝に顔を埋めた。 この状態になってから、如何ほど経った頃か、そろそろ行動に移さないとどうしようもないというのは判っていたが、顔を上げるのも面倒で。 少なくとも罠を一日一回は見回りに来るだろうが(そうでなければこんな危ない物埋めてある筈だ)、こんな子供もはまらないモノにかかった姿を見られるのは恥ずかしすぎる。だが左足だけ挫いたと思ったら、どうやらその痛みで気付かなかっただけで右も捻っていたらしい。左の方は、腫れ上がりが酷い。ヒビでも入っているのかも知れない。 「……動くか。」 仕掛けた人がいつ回ってくるかわからないのだし、万全を尽くすべきかと穴を見上げる。 自力で出る事が出来るなら、それが一番恥をかかなくてすむ。幸いな事に得物は腰に挿したまま、中途に差し込んで踏み台にでもするかーー、何となく、体重をかけた瞬間抜けそうな気がするんだが。 少し嫌そうな顔になった重明の耳に足音が聞こえた。 ざ、ざ、と下草を踏みしだく音は、人のものでしか有り得なく、急いでる風でもない。罠の確認に来たのだろうか。こんな近道か狩りにしか使えない獣道、通る者なぞそうはいないだろうから、どちらにしても発見されるだろうと重明は力を抜いた。 或る意味丁度良かったと溜め息を吐く。 恥にさえ目を瞑れば、怪我をしている自分には願ったり叶ったりの現状だ。運が悪ければ丸々一日無駄にしたかもしれないーー、王に会う約束があるから、もっとも今でも騒動になっている可能性があるが。 近づきつつあった足音がぴたりと止まった。 もしかして狩人だったのかと声を上げようと、相手が見える筈もないのに穴の縁に目を遣る。 今先より足早にこちらに近付いて来る足音。 ああ、気付いたのかと安堵と共に、口に両手をあて大声で叫ぶ。洩れ出るのはのんきな声。 「おーい、そこの人ォ、たすけてくれ〜ぃ。」 「……。」 「ーーーーーーな、なんであんたここにいるんだよ?! 」 穴の縁から逆光の中見下ろして来た相手が、どこかで見た形だと呆けた次の瞬間、一番知られたくない相手に見付かった事に気付いた。 守り部以外の時間は、日知りの手伝いをしている相手がなんでこんな所にいるのか。 相手もこんな所で重明を見つけるなど思ってなかったのだろう、上と下で沈黙が流れた。 「…あ、やあ、いい天気だな? 」 逆光であまり表情が見えないのに、悠逖の眉間に皺が寄ったのがわかった。 「わーーーーーっっ!! 待った! 行くな! 助けろ!! 」 咽喉が嗄れるほどの懇願に一瞥もくれず、さっさと穴の縁から退いた悠逖に打ちひしがれる。好かれてないとは知っていたが、立ち去るか? 普通。落ちているのを確認して、立ち去るか? フツー。 確かに足を痛めてさえなければ、すぐこの穴から出れただろうが、動かすのも躊躇する状態でどうしろと。 「ふふ…、悠逖は他の者に助力をたのみに…………、ダメだ〜、自分を騙しきれないーー。」 ざざざざざっ。 何かが上から降りてくる音に慌てて、顔をあげ振り向く。隣に立った見知った顔が、呆れたように見下ろしてきた。 今先まで束ねていた灰色の髪を煩わしげに後ろに流し眉間に皺を寄せ、それでもいつものようにそっけなく吐き捨てる。 「なにをしている。」 「っていうか下りちゃ駄目だろっ! あの道通るやつなんかいないぜ?! 」 「心配するな。枝を折った上に、目印を結んできた。朱色の紐を見逃す馬鹿はいないだろう。元の目印は雨か何かで流れたのだろう。見当たらなかった。」 ああ、それで今は髪を結わえてないのかーー、じゃねえ。 「違うだろ? 誰が俺たちを助けてくれるかっつー話。」 あんな人が通らない場所に目印つけて、そこまでしてある場所に普通どうなったかなんて覗きに来る奴いないだろ?! 蔦かなんか探してきて引っ張り上げてくれればよかったのに。やっぱり自力でどうにかしないといけないんだろうなあと、立ったままの悠逖を窺い見る。ユルゲ並に背が高い彼は、その割りにウエイトが軽い。十数cm違う重明には勝っているものの、一度ユルゲに数値を洩らした時のひくついた顔から、それなりの事が推し量れた訳だが。 「むう、華奢な悠逖に負担掛けなくてよかったと考えとこーか。」 体格は巡逑国の規格を凌駕している相手に、本心のみで重明はひとりごちた。 「何か言ったか? それより重明、何か言いたいことはないか。」 「え? あん? 言いたいことって? 『ありがと』か? 」 まだ助かってないけれど。 力一杯溜め息を悠逖に吐かれてしまった。 「面倒だ。動くな。」 まじまじと顔を覗き込まれて、慌てて顔を逸らせた。少なくとも今の状態の泥まみれで傷だらけの顔を、惚れた相手に見られるのは御免だ。 背けたまま、ごしごしと顔を擦るが、乾いた血もついている手で汚れが落ちたとは思えない。 「顔を背けるな。」 頬に手を滑らされ、後頭部に回る。形を確かめるかのように首に下ろされる。 なんだなんだ何の冗談だ?! こんな近くに悠逖の意思でいるだけでなく、確かめるように触られる事に総毛立つ。 顎の下をなぞられ、鎖骨から肩先をーー、ごきっ。 「あん? 」 肩関節を稼動範囲まで動かされ、次に肘関節、手首、あばらに膝関節……。 「ふぎゃあッッ!! 」 「ふむ、足首以外は手当てするほどの怪我はなし。運が良いか悪いかわからんな。」 「うああああああんんん…っ。見ただけで怪我してるとわかるだろおがっ。浸ってたのにぃ……。」 「浸る? 確かに泥だらけだ。さっさと上がるか。……重明、体調悪いのか。」 今、足首触った癖に…。 「あん? まーねー、足は捻ったけど。」 「今夜の月齢を知らないのか。」 「ーー月齢? こないだが太り気味の月だったから、満月とか? 」 「ああ。」 なんで急の会話にソレがでてくるか分からなかったが、話を途切らせるのはもったいない。しかし、落とし穴ん中でなにしてんだか。 「ふーん。満月かあ。……月見んのスキとか? 」 「………………、いや、そうか。判った気がする。重明、自分で注意が散漫になったり、不安定な心持になったりするな? 」 「あー。時々ね、時々あったりするけど、それが? 」 「それに規則性があるのは? 」 確信を込めて言われる事に反発心を抱いた。 月は守護獣の僚友だが、変化できない重明にしてみれば仇のような物だ。 黄色の髪、黄色の目、印もある。親より守護としてこの地を守った祖父に似ている。それなのに成人となって幾年経とうが変化しない。変化の気配さえない。誇りだった姿もコンプレックスを刺激するだけの物に成り下がっている。 「ーーそんなんないだろ。」 「気付いていないのか。月の満ち欠けによって体調が変わることとか。」 「ーーーーーー守護の一族だからか? 」 そうだと自分のこころは思っているが、相手の心はわからない。言葉だけでも否定して欲しいが。 「いや。変化も出来んおまえにそんなものを要求するか。」 思わず嬉しそうな顔をしてしまったような気がする。頬を左右ひっぱって、無表情を作り出そうとするが何故だか上手くいかない。怪訝そうな顔で悠逖がこっちを眺めた後、頭をふって話を進めた。 「だが、俗説だが、人の感情は月の満ち欠けによって変化するらしい。統計によれば殺人の数が多いのも満月ならば、出産の多いのも満月らしい。」 「本当か? 」 「読んだ本にはそうあった。幾分昔なのでどの本の内容か忘れたが、読むつもりなら探しておこう。」 根拠のない話を吹聴する相手でない。そういう変な方向に誠実な処も、好きだ。 「いや、いい。眠くなるし。あらすじだけでも教えてくんない? 」 「いいだろう。読み返した後にならな。」 「悠逖。」 「どうした。」 名前を呼びたかったのv などという乙女チックな衝動に基づいていたそれは、どう取り繕えばいいのか一瞬重明の頭の中は真っ白になった。 「……これからどうすればいいんだ? 」 「………………。」 訝しげに重明を上から下まで眺めた後、ぼそりと呟いた。 「足はいいのか。」 「これっぐらいなんとでもなる! 」 「ああ、では上がるか。」 上がる? 上がるって? 要領を得ない重明をほっといて、背を向け、片膝をつく。 その前に、何をするかの説明ぐらい簡単だろうにとぼんやりと悠逖の背を眺めてしまった。 せっかくいい声をしているのだから、口数を増やせば良いのに。大体、喋らなくてもすむと思ったら、口を動かすのを面倒臭がるのは……。 「なにをしている。」 「っていうか、おまえこそ何してんだぁ? 」 「足は痛かろうが、せめて肩に乗ってもらわないと押し上げれないだろうが。」 「……。はあ? 」 「足を挫いているんだろう。それとも…、いや、どう考えても荷物扱いした方が早い。」 荷物かよ…。 ていうか、あんまり変わらない体重の癖に担ぐつもりか? 「ーー俺を引き上げるのは無理? 」 「足に響くと思うが。」 そりゃそうだ、だが。 「どうした。」 「俺が悠逖に懸想してるのは知ってるよなあ。」 「そのような馬鹿げた流言を洩らしているのは知っている。」 「そんなの背中に乗っけて悪戯されちゃったらどうすんのよ、おまえ。」 「その時点で振り落として、ひとり帰るだけだが。」 「そうか。」 ああ、そうするだろうな。悠逖ならそうする。なら、安心だ。 それにしてもガキの頃ならいざ知らず、肩車ってのは懐かし過ぎる。 たかがしゃがんでいる人の背に乗り上げるだけだとたかをくくっていたが、自分の事ながら思ったより、無意識に足を動かしてしまう。悠逖がいなかったら、一ヵ月分の罵声を費やしたに違いない。時間を掛けて悠逖の背中をよじ登り、肩に足をかけると太ももを押さえてくれる。ここで「きゃあ」とか言ったらやっぱり放り出されるんだろうな。 両足が肩に掛かったのを確認すると思ったよりよろけず、揺すり上げてからゆっくりと立ち上がった。その端々に、自分に対する気遣いが見て取れて、声を立てず笑う。 そーそー、だからだよ。俺が悠逖を気に入るのは。 ぽそりと呟かれた。 「……特に貴様はわからんな。」 普段なら、どういう意味だよと声を掛けるが、自分でも今日は酷いと思う。まるで酒に酔っているみたいだ。 安定した歩みで下草を踏み拉く悠逖の背で、ぐるぐると周りを見る。餓鬼の頃を思い出しただけでなく、目線の変わるのは歳を経ても面白い。当然のように猪穴から出た重明を悠逖が背負った事で、拍車をかけた。 風景はもう見慣れたものに変わり、塀に連なる道で、何度も踏み入れたことのある場所だ。 「……あっれえ? 」 「方向感覚も狂ったか。」 「あー、そういうのもあるけど、確かここ初めて悠逖を見た場所だよ。」 振り落とそうか。そういうように強張った悠逖の背の上で、飽きもせず周りを見通そうとする。 「おーおー、そうか。」 ざくざくと進めていた足がぴたりと止まった。 「本当に大丈夫なのか? 」 感情の入っていない声だが、本当に気にも掛けていないなら声を発する事もない。それでいくと、あんまり気に入っていない自分を助けた上に、拾って帰ってくれるという事は、なんだ、そんなに機嫌が良かったのか。 そうかそうかと、勝手に一人合点し、悠逖の背中で力を抜いた。 それでいままで無意識に意識を逸らせていた、自分の汗と悠逖の香りに気付いた。肩に置く手の平に伝わる温度も、寝床の中の暖められたそれでなく人のもの。そういえば長い事、こんな風に人にくっついたりしなかった事を思い出し、また笑い出しそうになる。そんな自分を抑えて、こてんと悠逖の肩に顎を乗せた。 誰にも言う事もなかった言葉が口からこぼれ出たのは、そのせいだ。 「悠逖。もし、俺が死ぬまで変化できなかったら、どうなると思う。」 「なぜわたしに聞く。」 聞き流すかと思った。失言なので出来得る限り聞き流して欲しかったが、どうやら聞き流すつもりはないらしい。なんだ、本当に今日は変な日だ。 「ーー俺のこと別にどうにも思ってないから。守護の一族の生まれとか、じい様に似てるとか、印が濃いとか、おまえそういったこと気にしないだろ。」 気にしないというよりは、関係のないといった風だ。 流石に重明は自分が産まれた時の事を覚えていないが、父親は印もなく血が薄かった為にどれだけ周りに喜ばれたかは知っている。それを裏切り続けている現実も。 「わたしに問うても何もでないぞ。」 承知の上での問いだ。興味の一欠片もないそれについて述べろといわれたら、俺なら怒るね。 「ああ、そういえば一言だけ言いたいことがある。」 腹に溜まっていた毒と共に吐き出された何かへの苛立ちは、重明には知れた事だ。 何かとちょっかいを掛ける重明の存在は、人となるたけ関わらないようにしている悠逖にとって邪魔臭い物だろうし、血筋でもって今の位置に居るのも気に入らないだろう。悠逖の編成の仕方を見る限り、実力以外は年齢も繋がりも関わりないとしてある。 「貴様を見るたびに腹立たしい。」 「そりゃ悪かったな。」 続いたのは、重明の知らない言葉。 「何故迷う。」 「ーー迷う? 」 「同じ守り部といえ、部下は部下だ。こだわらず先に進め。」 「なにを……。」 「追加だ。貴様はむかつく。」 きっぱりと言い切られて、問う気になれない。 「なにが聯歌家家長だ。変化も出来んくせに、振り返るな。崖を駆け下りろと命じられれば従う。森に火を放てと命じられても、従うだろうが。」 そんな馬鹿な。 部下を窮地に追いやるような真似は出来ない。変化出来なくても身体能力は平均を軽々超える。周りの血と感情に酔うから、どれだけ昂ぶっても人間らしくあろうとどれだけ踏ん張っているか。 「貴様は前を見て駆け抜ければいい。従うのは自分の意思だ。いちいち振り返って赤子に手ほどきを教えるようにふり返るな。貴様に従うのも隣で死ぬのも友としてでない。国の守り部としてだ。勘違いするな。貴様はむかつく。」 「俺は…、振り返っているか……。」 「……自分で考えろ。」 びくりと背中が引き攣って、なんだと思う前に降ろされた。 「何故言わない。」 慌しげに、懐中から布に包まれた何かを取り出す。手早に解かれた中から小刀が落ち掛け、無造作にそれは元の懐の中に押し込められた。多分鞘走りを防ぐ為に巻いていたのだろうにそれだけでどうするつもりかと興味だけで見ていたら、胸に押し付けられた。さっぱり訳がわからない。 ぎしぎしと胸が軋んだのは確かだ。きつい言葉だった。陰口を叩かれたのはそれなりにある。ただ、忠告であれ相手が思慕を寄せていた相手だったのは今回が初めてだ。 図星ほど良く刺さるものはないなと実感したが、その精神的に痛んだ先を拭われてもどうにもならないだろう。 「なにを呆けて……。」 不意に言葉を切った悠逖は自分の手に視線を落とし、忌々しげに眉を寄せる。 「わるい。ただの見間違いだ。」 見間違いにしては行動がよくわからない。そこは怪我をしていないから、何があるわけでないし。 「いや? なんか痛みがなくなったし。」 ぺたぺたと、拭われていた辺りに触れる。精神的な痛みだったけれど痛んだのは本当だったし、惚れた相手に今日はふれあいが多いし(恥はかきっぱなしだが)。 段々と眉間の皺が増えていっている事に浅はかにも重明は気付かなかった。 「わっ、待てよ。ーーぎゃあぁ! 足首もってひきずんなああああああ! 」 「なんだ、ここまできたら家まで寄ってけよ。」 「おまえみたいに暇じゃない。」 連雀に、馬鹿にされつつ王へ事の次第をしたためた文を頼み、残り少ない本日をせめて穏やかに過ごそうと扉を開ける。 外はもうそろそろ日が落ちる。通って家事の面倒を見てくれる舎乃娵のばあさまがいるのだが、いつも居るという訳でなし、ならば治して行けと連雀と柏木嬢に勧められ、有難く好意に甘えた訳だ。 右足をぎちぎちに固定すれば、気をつければ無視できる痛みになったし、松葉杖もその時に借りた。 湯を使って泥を流すのと同時に、不運も流れていく気がして今ではもう少しで鼻歌が出る所だ。 用意してある筈の舎乃娵の飯を食べようと、食堂への扉に手を掛け、一瞬ひるんだ。 何を感じたか自分の記憶を確かめる前に、扉が開く。 「重明。大丈夫ですか。」 「うわっ、王どうしてココにっ! 」 カテゴリー分けをすれば、天敵にごくごく近い相手が心配そうにこちらを窺っていた。 絹糸のような細い黒髪を一つに纏め、穏やかに微笑む彼女は確かに愛らしい乙女だ。 彼女が王になるまで、話した事はなかったが、自分に必要な事は知っている。あの人嫌いの気がある悠逖と現在王である彼女は、前王である彼女の兄と共に幼馴染で、その三人で一つの世界を共有しているようだった。一角が崩れた今では、相手しかいないという風に寄り添うことがある。ーー苦痛だ。 しょうがない嫉妬だ。単なる。 彼女が名を捨てた者といえ、それともだからこそ押さえつけようもない感情がわく。王位を次の者に渡し、王の出る血統をつむぐ事を熱望される女性。悠逖の家系も彼女と釣り合いが取れない事もない。 「あら。用事があるからと約束していたでしょう。ここの部屋にいるのは、たしか、しゃのすさんというおばあさまが入れてくだすったからよ? 」 「いや、その、すんません! ちょっと足挫いちまって立ち往生してしまって…。っていうか、そっちに行く約束じゃなかった…。」 「ええ、その予定でしたけれど。今日は満月でしょう? 」 「満月ですか。」 またその話題が出たなと思いながら、貯蔵箱を探る。どんぐりのクッキーは王に出していいものか。 連雀に頼んだ手紙は、王と行き違いになったわけか。 また、耳に痛い話を聞かされるだろうと覚悟を決めつつ、野いちごのジャムも出せばいいやと陶器の瓶を引っ掴む。 「ええ、満月でしょう? 悠逖が落ち着かなくてね。しょうがないヒト。」 「は? 」 身内に関する笑い話のように語る彼女の言葉に、皿に盛り付けーー皿にクッキーをひっくり返していた重明の手が止まる。 ーー主語がおかしかった気がするが。 「あら、気付かなかった? 悠逖って満月周期に体調を崩すの。困ったものね。」 「ーーあの、よくわかんないんですけど。」 全く持って、何が言いたいんだ彼女は。自分じゃなく、悠逖が体調を崩す。ーーだから? 悠逖が言うには、誰もが月の影響下にある。そういうことだろう? 「この件はあと一言で終わるわ。『悠逖が、重明が動けないからこっちに来いと言ったの』。」 「どういうことですか。」 「それだけのことよ。欠けている所は、重明が見つけることじゃなくて? 」 何もかも知っている顔で囁く彼女に、嫉妬しているといえばそうでしょうねと返されるのを分かり切って言葉をおしとどめた。 続く言葉が、塀の外の話でなければ吐き出していたかもしれないが。 おしまい |