御前試合から一ヶ月程が過ぎたある日の朝の、水度坂病院。
院長室にて寧々による午前の予定説明を聞き終え、診察室へと向かおうとする勘久郎だったが、部屋を出るところで彼女から呼び止められた。

「ところで勘久郎様、差し出がましいことなのですが………」
「ん？なんｽか？」

勘久郎が振り返ると、常日頃から控えめな彼女が更に遠慮がちな様子で佇んでいた。

「…そろそろ、他の方とご一緒にお食事されるというのは…如何でしょうか？」

早花咲組の事件から御前試合で焔魔堂ろくろと対戦するまでの間、勘久郎はケガレ喰いを使えぬ様口に封印の呪を施し、それをマスクで隠して暮らしてきた。
口を糸で縫ったかのようなその見た目は傍から見て気分の良いものではないし、何より勘久郎自身が封印について触れられることを嫌った為、どうしてもマスクを外さねばならない食事は、自室か院長室で自分独りで食べるようになり、また周囲の人間もそう出来るように配慮を続けてきた。
ただ、寧々にとっては気掛かりな面もあった。本来は気さくで人好きのする性格である勘久郎が、そのような状況を寂しく感じてはいないのかと。
勘久郎は天井を仰ぎ、しばし考える。

「……そうｽね。まあ悪くはないと思うｽ」

その返答に安堵し、表情を緩ませる寧々だったが、

「でしたら、その、今度から………」

続く言葉の途中で言い澱み、視線を下へと落としてしまう。
決して時間に余裕のある状況ではなかったが、それでも勘久郎は自分の方から続きを促すことはせず、ただじっと彼女を見つめる。
三十秒ほどの沈黙の後、寧々はゆっくり顔を上げ、口を開いた。

「…焔魔堂家の方々とご一緒されるというのはどうでしょうか？」

封印を解くきっかけとなった焔魔堂ろくろがいるというのは勿論、有主と式神であるきなこを除けば焔魔堂家のメンバーは皆ろくろの同期、つまり早花咲組がもし生きていたら同年代となっていたであろう面々である。
ケガレ喰いを解禁したとはいえ精神的な元気を取り戻すのはまだまだこれからであろうし、その為には彼らとの触れ合いをもっと増やすのが最善の手ではないか、というのが寧々の考えだった。

「…あ〜、ろくろ君達とｽか？」
「はい。と言いましても青陽院に通われている方がほとんどですので、お夕飯だけになりますけども」
「ん〜〜〜〜〜……」

勘久郎は再び天井を仰ぎ、部屋の上部を一通り見回してから返答した。

「ま、夕方は用事でお邪魔することも多いし、確かに丁度いいかもしんないｽねぇ」
「そうですか！」

その好感触な返事に、寧々の表情がぱあっと晴れる。

「では早速今日からでも構いませんか？」
「オーケーｽよ」
「ありがとうございます！焔魔堂さんに連絡してきます！」

そう言って寧々が院長室からはしゃぎ気味に出て行くのを見送ってから、勘久郎は小さく溜息をついた。

そしてその日の夜。
水度坂宗家本邸の自分にあてがわれた部屋に戻り、明日の任務や病院勤務シフト等の予定を確認している最中、寧々がふと置時計に目をやると、ろくろと約束した時間から三十分程が過ぎていた。

「勘久郎様、今頃は焔魔堂家の皆様とお食事楽しんでいらっしゃるでしょうね…」

勘久郎が焔魔堂邸に集う学生達と和気藹々とちゃぶ台を囲む光景を頭の中に廻らせ、口元を綻ばせたその瞬間、スマホからコール音が鳴り出した。
急いで画面を確認すると、通話の着信で、表示された名前は『焔魔堂ろくろ』。

「…！？」

すぐさま画面をタップして耳に当てると、こちらから挨拶をする間もなく、ろくろの叫び声が耳に飛び込んできた。

「寧々さん助けて！大変なんだ、勘ちゃんが………」

水度坂家に車を出してもらい、寧々が焔魔堂家に駆けつけると、お茶の間には泥酔してちゃぶ台に突っ伏す勘久郎の姿があった。
困り顔の焔魔堂家の面々を代表して、ろくろが頭を掻きながら事情を説明する。

「勘ちゃんってばさあ、なんでかお酒の一升瓶持ってきて、ウチに着くなり『今日は酒が飲みたい気分なんｽ』ってラッパでイッキし始めちゃってさぁ…。で、後は見ての通りなんだけど。あ〜もう、折角きなこが張り切って豪華な料理用意したってのに…」
「…申し訳ございません」
「あっ、別に雛塚さんが悪い訳じゃないんで！」

主に代わって深々と頭を下げる寧々に、林檎が慌ててフォローを入れる。

「それで勘ちゃんさ、もうしばらくは起きそうにないけど、どうしよう？ウチで泊めてもいいけど」
「いえ、流石にそこまでご迷惑をおかけする訳にはいきませんから、こちらで連れて帰りますね」
「寧々さんが？大丈夫？」
「はい。車で来ていますし、職業柄人を運ぶのには慣れていますから」
「そっか…じゃあ気をつけてね」
「お気遣いありがとうございます」

そう言ってもう一度頭を下げると、寧々は手際良く勘久郎を背負い、玄関前に止まっている車へと向かっていく。
その後姿を見て、林檎が「逞しいんだなぁナースって…」と呟きを漏らした。

水度坂宗家本邸に着くと、寧々は相変わらず寝こけている勘久郎を彼の寝室の布団まで運び、白衣を脱がせてから着衣を軽く緩める。
それから台所に行き、水の入ったコップと二日酔いの薬を乗せたお盆を持って戻ってきた。
それを枕元に置いた後、少しでも酔い覚ましになればと夜風が入るように縁側の襖を静かに開ける。

「勘久郎様、今日はどうなさったんでしょう…」

長年彼の傍に仕えてきた寧々だったが、こんな節度の無い酒の呑み方をする姿は見たことがない。
空の半月を眺めながらため息をついたその時、後ろから勘久郎の声がした。

「どうして寧々ちゃんはぁ〜、僕と一緒にご飯食べてくんないんｽかぁ〜？」
「………え？」

気がつくと、寝ていた筈の勘久郎がすぐ傍まで迫っており、後ろから寧々を抱きしめた。

「だったらぁ〜、僕が寧々ちゃんを食べちゃうっｽよお〜」

そしてそのまま体重を前へとかける。
完全に不意を衝かれた状態の寧々は、それを支えきれずに下敷きとなる形でその場に倒れ込んだ。

「あっ、あのっ、勘久郎様！？」

僕がキミを食べる、という言葉の後に押し倒してくる…という、もうそういう意図しか汲み取れない状況にただただ動揺するばかりの寧々だったが、

「………すぅ…………すー……………」

勘久郎の極めて和やかな寝息を耳にして、平静を取り戻した。
何とか下から這い出して、彼の様子をそおっと窺うものの、どう見ても熟睡している。見事な寝落ちであった。

「ま、まあ、ここまで酔っていたら、変な行動をしたり、訳の解らない事を口走ったりしても、別におかしくはない……ですよね」

自分に言い聞かせるようにそう口にしながら、寧々は再び勘久郎を布団へと運ぶと、ほっとした様な残念な様な、複雑な心境で部屋を後にしたのだった。

それから次の日。
公務で泰月楼に赴いた勘久郎に、同じく公務でやって来た憲剛が声をかけた。

「………何だ、そのザマは？」

酷い二日酔いの勘久郎が、憲剛によろよろと歩み寄る。

「だって〜、普通ああ言われたら、じゃあ私と一緒にご飯食べませんか？っていう流れになると思うっしょお〜？」
「はあ？何言ってんだテメェ？」
「なのに寧々ちゃんときたらぁ〜………もー酒でも飲まないとやってらんねｽよぉ〜〜〜」
「うわっ！酒臭ぇじゃねーかこのヤブ医者！！」
「うっ、うええええ…」
「げえっ！やめろ！こんなトコで吐くんじゃねー！！！」

今度は憲剛からの連絡で、寧々はまた勘久郎の元へ駆けつける羽目になったのであった。