N県の風呂に波が存在するというのは、初耳だ。


飛沫を大げさに跳ね返し、イルカみたいな動きで。
大浴場で、どっかの阿呆が盛大にバタフライで泳いでいる。

「つまんねぇ。夏といやー、ピチピチムンムンとかガチムチムンムンの旅行を期待してたのによぉ。引率超タリー」
「はあ…」
激しい水飛沫をびちゃびちゃと頬に受けた先輩にぎょっとしたが、先輩は何事もなかったように続けた。
「やーっとガキどもから離れたと思えば、肇なんかと風呂かよ。ありえねぇな。あーあ」
「はあ。つか、文句言いながら共同浴場でヒトの体触んの止めて下さい、誰か来たらどうすんですか!先輩って!」
「大丈夫、ちゃんとお風呂セットのシャンプー入れにあれ入れといたから」
「なんか女子っぽいの持ってると思ったら、アンタ何やってんですか!」
「アンタって何。何。誰の事いってんだ。
言い間違えちゃったか?言って良い事と、いけない事の、区 別 は つ け よ う、や」
「あは、すみまガボしゃ!」

頭を掴まれて、容赦なく眼前が桶の湯で埋まった。俺って昔からこんなんばっか。
謝罪は泡に重なって、届いたもんだか定かでない。髪を掴まれてるから、毛先からぼたぼた垂れる湯が目に痛いのなんの。
引き上げられた顔面に鼻先が近づいて、笑う。つーか、顔近いって。
何ともはや、本当にこの人は、どうしよ〜もない所がある。

「良いか俺はな、『アンタ』って言ったお前に怒ってんだよ。お前なんかに拒否されて怒ってんじゃないんだよ」
「はい、解りました。申し訳ありませんでした…」
「お前が可愛く無い訳じゃないんだよ、解るだろ。…だから、な?」
「マジ最悪だなアンタ…」
2度目は桶に殆ど水がなかった。母校を就職先に選んだのは早まったかもしれない。

「先輩達何やってんですか。オレ気まずいんですけど」
そんでまた、ややこしいのがノコノコ湯船から上がってきたりする訳で。
「気まずいのは俺なんだけど、英斗。でもよく来てくれたとも思ったりするわけで」
「髪洗ってやってんだよ、なー?」
「絶対そんな仲睦まじい感じではなかったと思う」
「修学旅行の最終夜なんだよ。ちょっぴしハイになっちゃったの。ハメくらい外させろ」
「それは生徒の台詞です」
「浴場でバタフライした奴が言うか!」
「今年は酒一気する馬鹿な奴らがいなきゃ良いけど」
「そんな元気残ってねえんじゃねーの。初日にはしゃぎすぎて、山道とか石段でヒーヒー言ってたし」
「近頃の若いもんは成ってねーな」
「体力測定の結果みても、最近骨のある奴が少ないっすね。水泳部員がすくねぇ訳だ」
「教える側にも問題あんじゃねーの?教師の体力も測定した方が良いな」
「それ、俺らもってことかよ?」
「えぇ?必要ネェだろ。見た感じ、ほらな。たくましさも、やっぱなんつーか年功序列みたいな?」
「それ、年の順に老いてるって意味スか?」
「どの口で言ってんだよ!この口か!?あぁ!?」
「な、なんで俺の事殴るんだよ肇が!」
「先輩が一番に決まってんだろ!余計なボケをするな!悪戯に刺激するな!」
「硝子の友情だなお前ら」
「肇まだ思春期で神経質なんス。こないだも『俺ってサ、此処だけの話、いまだに職員用トイレって入りづら」
「おい、表出ろやコラ、おい、出ろやコラ、ああぁ?」
「おい、カッカすんなよ。まあいいや。こっちきて、背中流せよ」
「えーやだこわーい。肇チャンどーしよパワハラだよ、怖いから一緒に流してよ」
「俺に振んな、黙っていけ!」

英斗も俺も先輩に色々こきつかわれちゃいるけど、俺の方が損してる気がするのは、多分気の所為じゃあないだろう。

「ま、後でお前らの背中流してやらない事もないよ」
「えー。遠慮しときます〜」
「マッサージも付けちゃおっかなぁ。全身くまなく、たっぷりじっくりと」
「ええ〜筋違えたら困るしー。俺らほら年功序列でひ弱だから、体力ないしぃ、」
「まあ、気に病むな。男は皆が役者じゃあねえ、整った良い姿形とか背の丈とかじゃあないんだよ。
例えて言うなら、男は皆、ランナーだ。
マラソン選手じゃなくても良いんだよ。
陸上選手の勢い…そうだな、走り幅跳びだって良い。どこ迄飛べるか。
つまりすべからくタイムと飛距、おっと手が滑った!」
「ちょっもー!やだぁ〜!どこ触ってもいいっつったけど、それはないすよ!」
「ん?駄目か?じゃあここは?ほれほれほれ!お、テメやったなこら!」
「やだ〜。先輩のお肉、けっこうやわらか〜い。あ、嘘嘘、ンン、も〜先輩ったら!お返しぃ!」
「ククッ、馬鹿ァくすぐってぇよ〜…」
「なーにを女子みたいな事してんですか!」
「べつに〜。洗ってやってるだけだよ」
「そうそう。肇ちゃんこえ〜なあ。じゃあサービスで肇は俺が洗ってやるから。おいでなサ〜イ」
「別にいいって…。あ〜も〜…。あ。なんか、英斗の、ちょっと気持ちいいかも」
「俺こそ、肇のちょっと気持ちいいかも」
「おいそこの、いちゃついてんじゃねー」
「先輩が言いますかね」
「だからな、俺は洗ってやってるだけだから」
「とかいっときながら、何でさっきのシャンプー入れ手にしてますかね」
「ん、ちょっと先輩、まずいですって…。肇もいるし…。ほんと、アンタも好きだよな…」
「ほぉ〜ら、このぬめりが体に優しい石鹸なんだってさ…」
「あれ、今『アンタ』って、あれ?なんで怒んないんですかねこの場合?」
「ほら、肇が厭らしい目で見てますし。代わりますって」
「え、あれ?結局持って来た俺に使うの?わ、くすぐってぇって〜!」
「先輩、ここの後ろんとこ、押すと気持ち良いんすよ〜。あんま知らないでしょ?」
「おいおい馬鹿言うんじゃないよ。俺を誰だと…あ、こらちょっ…」

「あ、英斗てめ、先輩に何してんだよ!」
すったもんだのじゃれ合いの挙げ句、滑り込んだ指の腹にも声を荒げないで、意外にも先輩はにやついている。
「あー、先輩やっぱご予定あるんすね〜。中、コンディションばっちり。案外教師水入らずで過ごす目的だったりします?」
「おいおい、ちょっとちょっと。勝手にこれは失礼だろーが。ちゃんと合意の上でだな…」
「ただの合法のマッサージサービスじゃないすか。その気に一寸なっちゃったりとか?俺テクニシャンかなー」
「そうか。…俺をその気にさせる為にそこまでして誘っちゃうとは、英斗、お前可愛いとこあんのな。よーし」
「なぁにを勘違いしてんですか先輩。肇ちゃん、押さえてよ。先輩って危ないから〜」
「へ?」
先輩の髪に、英斗の指が絡んだ。
瞬間、突然英斗が先輩の腿を抱えて掬い上げた。頭を打つのをガードしたつもりなのだろうが、二人ともしたたか体を打った。興奮した馬鹿が、馬乗りになって叫ぶ。
「ほらほらほらそっち!押さえて!」
「おわっ!ちょ、おいアブねーだろ!」
「馬鹿!殺されっぞ!!」
「いいじゃんちょっとハメ外すだけだって!」
「ハメ外すって、お、押さえてどーすんだよ、何すんだよ」
「いって!あにすんだよ英斗あっぶねーだろ。肇ざけんなてめ離せよ!」
「ひッ!…アレ?ひょっとして俺だけ怒られてます?」
殴られそうになったので思わず羽交い締めにしてしまう。
先輩はどうしてこうも、英斗の奴めに甘いのか。
手が滑ってヒヤヒヤもんだが、腕っ節だけなら負けていない。英斗は一度指を抜いて、先輩の足を押さえにかかる。
そこでやっと、英斗が何をしようとしているのかがうっすら伺えた。

要するに、アレだ。
改めて見学したかっただけの話という。
何だ、それならこの人は厭がるどころか、寧ろ自慢にするだろう。
妙な演出の所為で俺は余計なとばっちりだ。
厭がる足は閉じるでもなく、蹴りを入れる動きだから、押さえてしまえば開かせて覗き込むのは簡単だ。
おざなりに巻かれていたタオルは下腹迄めくり上がって、汗だか湯だかジェルだか判然としないもので濡れている。
さっき半端にふざけたせいで、まだ頼りない固さの肉棒がさらされて、ひくひくとちいさく持ち上がっていた。

「おい、止ーめーろって言ってんだろ殺すぞ!」
「またまたー。そんな見せるのを躊躇っちゃうようなもんですか?」
「おいおい。まいったな。何だ、そんなに俺のフォルムが見てぇのか。本当、厭らしい奴らだよお前らは。見たきゃ見ろよ、どっちから抱いてほしいんだよ…」
「先輩、威張るのならもうちょっと出来上がってからの方が…」
「よーし英ちゃんにお任せよ〜」
「ちょっ…、おい、も、そこはいいだろ!何、ぼさっと見てんだよ肇っ!」
「いや、その、手を放しちゃうと一波乱ありそうなもんで…」
「満足して頂こうかと、サービス的なものを」
「ははは…、セットで体も流しますから」
「いらねぇーーーよ!」
「しっかりエレクトしたとこ見学したいんで」
「だったら余計なとこ触んな!」
「ん、いいジェル使ってるんですね。これボトルでいくらくらいすんですか?すごい、気持ち良さそ…」
「もう良いだろ、これで一番大きいって、もういいって、ばっ馬鹿!」
先輩だって人間だ。
人並みに恥ずかしがりもする。
話している間にすっかり顎から腿迄グチャグチャになってしまって、先輩は煽られているのか歯を食いしばり始めた。
空気が不穏になってきた事に気がついて、英斗の顔を伺う。

…悪戯が成功して満面の笑顔だ。
英斗が俺を見て笑う。俺も悪戯ものの顔になっていたかもしれない。
手を離して殴られるか、このまま先輩が追いつめられるのを見届けてから殴られるか。
心底先輩を尊敬している俺は、迷った分だけ後者の誘惑に惹かれて、負けた。
「ああ、本当だ。
先輩の形、良いな…」
「ん、んっ、肇、見るな!も、勘弁しろよホント…!」
「はいはい先輩、リラックス。リラーックス」
労るような笑顔に押しつぶされて、先輩が歪めた口端から唸り声を漏らした。
ああ、駄目だ。
この人、今更逃げても収集がつかない。
「もう保たないですか、先輩?そんな筈ないでしょう」
「ひくひくしてんの、とまんないすね。あ、先っちょ垂れた」
「止せ、気まずい!」
「気まずいって何が?何で気まずいんですか。…自慢なんでしょ、見てますよ。何が気まずいんだよ、言えよ」
「、いいっていってんだろ、も、見るなよ…!」
こいつ。ほんっと可愛がられてる癖に調子づいてんなあ。
むき出しの耳を引っ張って、馬鹿っぽく冷たい文句を吹き込み続ける英斗に閉口する。
先輩は腕の中で激しく身じろいで、濡れた髪を頬に擦り付けた。
比較的控えめに品のある言葉で先輩をねぎらいにかかる俺の方が、どう考えてもまともな後輩だと思うんだけどな。
チクチク針で刺すような文句に先輩はすっかり煽られて、言葉は悪いが哀れっぽかった。

「先輩どうしたの、俺が見てるの、厭ですか。こんなにひくひくして、顔赤くしといて。後輩に見られて興奮した?」
「ふ…うっ、〜っ!くっ、くぅ…っ」
「何照れてるんですか今更。もっと近くで、いつも自発的に見せてんじゃないですか。すごいカッコで…」
「やっぱパシリの前で行かされるのって、燃えますか。俺なら恥ずかしくて泣いちゃうね、こんな…」
不格好にぐうと鼻を鳴らして、あの人の目が、決壊をこらえている。
「…先輩、俺も一緒に指、入れていいですか」
「こんなにそっくり返っちゃって。膨れちゃって、すごいね、こんなに垂らして」
「一本、増やすだけだから」
「あっ、あっ、肇っ、触るな…」
「先輩。駄目ですか?このまま…」
英斗に指を絡めて、食い込ませようとしたあたりで。
「ク、………ん....ン…っ!はっ…はっ、はっ、はあっ、はぁっ、あ」
不可抗力なんだから堂々としていればいいだろうに。
顔を精一杯逸らして、泡まみれの萎えた股間を曝して、先輩は折り畳まれたままで息を荒げた。

「なんか……イメージがだいぶん、変わっちゃいますね。ねえ、先輩」
「こんな、首迄かかっちゃって…。一番だよ、先輩。よかったね。良かったっすね、先輩が一番助平ですよ」
「ああ、先輩、狡ぃっすよ。俺の前ではあんなSな癖して、これはないでしょ」
「ね。俺らちょっと可哀想じゃないの」
ジェルまみれの腿をぺちゃ、とひとつ撫でて笑う。
足の付け根を伝って、緊張感の無い横っ腹に幾筋かの体液が垂れ落ちた。
「…今さ、先輩さ、肇の指で行ったでしょ?違う?ビックリしたっすよ、どうしようかと思った」
「…ちょっと、先輩を押さえてんのきついかも。やべーな」
「何で?もう暴れすぎて、ぐにゃってきてるじゃん」
「英斗、やばい。俺、ちょっともう、したいわ…どうしよ、気まずいんだけど」
「どうして。肇がそのまま入れればいいじゃん」
びく、と引きつって振り返ろうとする先輩の腰に、マウントポジションで英斗が乗り上げる。
「肇が先輩に入れたいって」
くぐもった反発を流して、囁く。
英斗の声は瑞々しくて、同じ男でもやっぱり聞いていて気分がいい。
「駄目ですか?先輩。先輩のが萎えちゃったらやめますから」
「俺が入れんの?先輩に」
何となく、英斗の日焼けした手の上から手のひらをかぶせて、先輩の口を塞いだ。
「…良いよ、俺は。英斗が入れてーんだろ。起ってんじゃねーかよ」
「何で俺が入れんの。俺は遠慮するって。殺されるって。肇チャンこそ入れな」
「良いよ、殺されろよ、先に入れろよ。いいってば、今更うろたえてんじゃねーよ」
「俺は良いよぉ。ほら肇に譲るよ」
少し噛まれそうになったけれども、なおも反発している先輩の柔らかい唇を、無理に指で塞いでいるのは少しだけ楽しかった。 先輩の股間がまた芯を持ってきているのが見えたから、手を離して腿の際ををひとつ啄んだ。
「良いですよね、たまには。肇にも一回くらい、仕返…いやご褒美あげて下さい」
湿った口元を解放された先輩がついに喚いた。

「はーい、暴れないで下さいよお客さん」
入れ違いに英斗が体重をかけて、先輩をつぶしにかかる。耳慣れない、情けない悲鳴があがる。
恐ろしい奴だ、体育の教師だけに、急所を心得てやがる。そこだけは妙に感心した。
「肇、タオル落ちたよ。なんか手ぬぐいがハラリ、って感じ。風情あるねえ」
「英斗、お前ちょっと黙ってて」
「やめ、馬鹿、やっ、触るなよおっ…!」
「先輩、すみません、俺、我慢できなくて…」
ベタベタの股間が視界に入って、ああこの人Mなとこがあんだよなぁと、何だかしみじみした。
慣れてるのか慣れてないのか判別はつかなかったが、ジェルまみれの上に寧ろ抵抗は緩いくらいで。
たちの悪い快感に、真綿で首を絞め合っているような感触がする。
…多分この感覚には慣れない方が良い。

「よせってっ、やめて、入れないで、やめ…厭だぁ…っ」
「先輩、なに後輩に甘えてんすか。ねぇ、おかしいでしょ」
英斗の煽る声が邪魔だ。
こっちまであてられそうになる。
集中できない。
頑丈な体は多少の体重をかけても簡単にはひしゃげないから、日に焼けていない腿を思い切り割り開いた。
背中をひとしきり噛んで、腰が明日に響くかどうかは考えない事にした。

「ふ………うっあっ、あ、あっ、肇、は、あ、あ」
「甘えてんすか?滑るよヒロシさんこっち向いて」
タメ語で弄っていいもんなのかちょっと迷った。
我ながら馴れ馴れしいと思うけども、先輩は返事はおろか顔さえ上げない。
「鏡に映らないよ。下向かないで、ヒロシさん」
ドサクサにまぎれて英斗が俺を真似て呼びはじめて、また腹がたつんだこれが。
先輩を見て発情したのか、俺の背中をつついて、なぁなぁ、と何か訴えている。
指がぬめっていてくすぐったい。
放っておくと生意気にも髪を撫でてくるので、頭を振って避けた。

「なぁ肇、今夜はさ、寝言言わないでな」
「ちょっと待てよ」
「8年前のこと、思い出しちった。突然叫ぶんだもんオマエ。スンゲービックリして。何かと思って」
「…」
「未だに夜突然目ェさめるよ、俺。やめろよなー」
「黙ってろって、何だってそんな話」

そうだ、修学旅行で8年前にもN県に来たっけか。だからって何もこんな時に。

あれ、俺、英斗とおんなじ部屋だったよな?K都の宿ってどうだっけ?あれ?N県の宿ってそもそもどんなだ?
深夜にテレビ見たよな確か。有料チャンネル付けたっけ?付けらんなかったんだっけか。
丑三つ時、見た事も聞いた事もない、意味不明のカルトバンドのPVが流れて、皆してぎょっとしたのをわずかに覚えている。
土産買いにはしゃぎ狂ったり、だべったりテレビ見たり、ウノかトランプかなんかやってた気もする。

でも、誰と何の会話をしたのか全然覚えてない。
騒いだり夢中になったり、大した会話はしなかったのかもしれない。
ありえないことに、確か疲れてしょっぱなから寝ちまったんだよな。
いや、初日はそうだったとして、二日目は?三日目は?
起きてる間、何してたんだっけ?ウノかトランプ?
アレ、何かを賭けたな。花札か?何を賭けて?金は駄目だし。なんも覚えてねー。
あれか、強烈に潮騒が五月蝿くって、磯臭さが癖になったホテル…なわけねえな。N県とK都に海はねえだろ。
クラブの合宿とごっちゃになってしまったのか?いや、確か合宿は、大酒かっくらって戻しそうになって大目玉くらって、練習休んだアレだ。
先輩もあの時いたし。
何で覚えてないんだろう。

思い出は僅かに、深夜のテレビに青白く映し出された英斗の横顔だ。
画面に見入っていたのか、言葉は無く。半笑いで、瞳がペカペカとテレビの光を反射して、

「うなされて、何か言ったの?俺」
満面の笑顔の英斗に、やや不機嫌にそう言ってしまってから、しまった悪かったかなと思った。
こんなまっ最中に声をかけられたら、苛立って失言したっておかしくは無い。
「うわ信じられない。自分で忘れてやがんの」
悪いとは思うが、修学旅行の事は、正直大して覚えてない。
お目当ての史跡は撮影不可だったし、歴史的な感銘は何だかふわふわと、頭の中で勝手に幻想化されている感がある。
郷土土産特有の怪談集とか艶話とか、ああいった冊子をバスの中で読み聞かせただとか、解りやすい記憶しか残ってない。
だけど、旅行が退屈だとか、かったるいとか思っていた訳じゃあ決してない。
多分俺にとっては、楽しく平和に終わったという事実が、只満足だったからだ。



刺激があの時、足りなかったか。
修学旅行のつきそいでこんな狼藉を働いている自分に、我ながら呆れた。
「これにこりたら、もう焼入れのセクハラ、止めて下さいよ」
本来なら、あのヒロシさんがこんなに我慢して女役をやってくれたのだから、これからは尚更に働かせてもらう所だけれども。
覚えてろよ、とか言ってくれるのを期待しての言動を、先輩は読み取ってくれなかったらしい。
タイルにこすってぐちゃぐちゃに濡れた頭からしずくを垂らして、
かじりついた鏡を息で曇らせて、ちいさく唾を散らしているだけで、返事がなかった。

噛まれるかと思って遠慮していたから、やっとキスできたのはもう終わりにしようかという頃合いだった。
先輩は早く終わりにしたかったんだろう、こっちがゆっくり舌を抜いても必死に唇に舌根を押し付けて来る。
まるで懇願するような様子は、いつもの先輩とは似ても似つかない。
「ヒロシさん、興奮する?俺、良い後輩でしょ、俺、先輩の事尊敬してるんすよホント。兄弟みたいに」
生々しい表情に満足した自分は、本当にこの人を尊敬してんだろうか。



一期一会の機会だけれどもすぐ下で先輩の首に噛み付いている英斗の頭が邪魔で、しみじみしてもいられない。
英斗の馬鹿の前だ。
仕方なしに先輩にひとつ頬擦りして、目を細めて。
視界にある大きすぎる快楽を逃がしにかかる。
英斗の脱色した髪がフワフワチクチクくすぐったい。こいつ、髪の毛先一本に至る迄うぜー。
鼻を軽く埋めると、けばけばしいシャンプーの香だか、まだ落としきれていない日焼け止めの匂いなんだかよく解らない複雑な匂いがした。
口を塞がたせいでくぐもった掠れ声で先輩が何か口走っている。
「あ、あっあっ、いくっ、いくうぅっ!あっ、あ、抜いて…抜いて」
この人はつくづく、上でも下でもAVみてーなノリで。
中にやられると思っていたのか、腹の上に出しきった俺の様子を見て、安堵の目をする。
ああ、なんか悪いなあ。
一回では収まりが悪い俺の様子を察したらしく、三白眼じみた見開いた目にまた、怯えの色が浮かぶ。
ガタイ良いし喧嘩も強い癖に、こういう風に弄られると弱いんだなぁこの人。
それで、英斗に寝首かかれたんだな。
いや、悪気で寝首かいたんじゃなくて、多分こういう奴なんだろう。
調子に乗せておくと、どこまでも調子に乗っちまう。


腹の上に積もった体液を胸迄垂らして、お前は蛇か、と情けなく嘆く先輩の背中越しに。
手持ち無沙汰らしい英斗と、目が合う。
「ヤラシーの、おまえ。蛇。目ぇ何か赤いし、潤んじゃってさ。ちょっとこえーよ」
「うるせえなー、先輩の前でだけ蛇なんだよ。ああ、我ながら気持ち悪い事言った。お前もう邪魔だから出て行け」
「なんか寂しいから先輩に入れるか、お前に入れるか、させろよ」
英斗は先輩の胸をなぜながら不服そうに漏らす。
蝸牛みたいに首をのばして振って、喉をさらすように感じ入っている先輩が癪だ。
何で俺が選択肢に入ってんだよ。こいつ、頭本当にわりぃな。
「いいわきゃねーだろ。第一、俺の高校の先輩だぞ」
「おい、さっき俺が入れても良いって言ったじゃんよ」
「うっせうっぜー。兎に角駄目だ、それは無し」
「キスして良い?」
「…良いよ」
褐色の腕が回されて、英斗は何を勘違いしたのか、俺のほうにキスして来た。
睫毛が当たって、目を閉じた石像の様な表情が至近距離にある。

…先輩に気に入られて、こいついい気になってやがら。
「これじゃ風呂出らんないよ」
つつくように、遠慮がちに下半身を手の平に擦り付けて来る。
いっちょまえに雰囲気出してんじゃねーよ。素面じゃねーのか。違うんか。
先輩のほうはというと、すっかりグニャって、鰻みたいな体たらくを曝している。


「右手の平くらいは貸してやる」と、体を撫でたから、英斗はますます調子に乗って、
くくと吐息混じりに笑って口づけをまた深くした。
プールの塩素の匂いなんか、いくら何でもするわきゃねーから気のせいだ。
ただでさえ、誰か入ってこようもんならいたたまれない現場だ。
見られてこいつと噂が立つのは厭だから、早く終わらそう。
「肇よー、もっと真剣な顔しろよ」
「無茶言うな!」
「昔は真剣そのものだったろ。夜中にキスしてくれって叫んだじゃん」
「知らねぇよ。だから、寝ぼけてたんだろそれは」
英斗のやつが、これから耳元で喘いでみせんのか。いや、もしかしたら一丁前に我慢するのかもしれない。
目を細めて、俺は何でもない振りをする。
こっちも石みたいなツラで返そうと誓う。
手を引かれたから、タオルの脇から手を貸すと、狭間から見える日焼け跡がいっそうなま白く感じた。
ああやっぱねこいつも生きてんだねなんぞと暢気に考えて、泡立つ感触や音に、こちらも感化されそうになっているのを耐える。


キスしたかったんだよなぁ。
9月の水泳の授業の時も、良い年した男子高校生だというのに。
何だかんだでいつも一緒に泳いで競争して、だべってた。
市民プールに涼みに行って、海に青春求めてさすらって。
ナンパに失敗して、仕方なしに男二人で泳いだ。
何が悲しくて野郎二人で夏の思い出、いや、去年あった筈の恋の代わりに友情を俺は得た、青春なんてそんなもんだ。
我ながら硬派だな位に考えていた。

なんでこんな馬鹿とばっか泳いで満足していたんだろう。

夏が明けて、消毒剤のカルキの匂いをぷんぷんさせてる更衣室は生臭かった。
着替えの時、不意に喋くってる時にキスしたくなって、ふやけた口ばっか見てた。
安物の脱毛剤だかブリーチ剤だかでかぶれたとか、痕がつきそうでマジ泣きしかけたとか。
会話が途切れてからも、奴が着替えてる間、何度と無く口元を盗み見た。ただそんだけ。

思春期であることだなあ、気の迷いであるなあ、と気にも止めなかった。
馬鹿友で、馬が合って。憎めないやつで、ノリもいい。何と言っても泳ぐ姿が。
くだらない事ばっか喋っていた筈はない。学生をやってればそれなりに修羅場もあった。
今日のように思い出の場所にいれば、何かしら思い出す記憶もあることにはあるが。
結局英斗と過ごして残った記憶の大部分を、ダベリの数々ではなく、無言の英斗の顔が占めている。



報われないというか、ものすごくくだらない報われ方というか。…忘れてた。
アホか俺は。寝言でまで迫った癖して忘れるやつがあるか。
今頃突きつけられて、我ながらどうしたもんか。
こいつは先輩の報復も恐れない馬鹿だから、いちいち後先の事なんざ考えもつかないんだろう。
慎重には慎重を、の教職の反動かもしれない。何だか笑えた。
…英斗の奴がネコでなら、5年もしてまだ縁があったら、相手してやっても良いかもしれないなと思う。

今回もきっと気の迷いだ、手近な奴(手近すぎる)に気移りしているだけだろう。
おそらく、今彼女がいないのがいけないんだ。
そして先輩の折檻もいけなかったんだ。
ポーカーフェイスを決め込んだら、何の反動やら目が潤んできた。

一度は閉じたまぶたを開ける。
目が据わってんだか色気づいてんだか判然としない顔がある。
「肇おまえ、顔ヤラシーよ」
お前の方がずっと厭らしいじゃねーか、この鈍感めと突っ込みの役割を果たしたかったが。
その隙に先輩がタイルを這って逃れようとしているのに気がついて、英斗も俺も腕をのばした。


「なに逃げてんすか、先輩」
「いっ…もう良いだろ、後は若い二人に任せるよ。見逃せよ、お前」
「駄目だよ先輩。逃がすかって」
「自分たち若いんで、もう少しお手合わせ願います」
「萎えてたら止めるって言っておいたじゃないすか」
「ちっくしょ…覚えとけよお前らぁっ!あ、嘘だろぉ!」
吊るし上げられた脹ら脛を伝う泡の筋が、腿に迄伝うのが見えた。
右の踝を掴まれてタイルの上を引き戻される先輩の、怯えた目元に僅かに涙が滲んでいて。そうとう効いたらしい。
情けない様子で厭がる先輩を英斗が背後から抱きかかえる。
「俺、あんたの事なんか嫌いだったけど、なんか好きになれそうだよ」
「オイ俺の先輩だって言ってんだろ!」
「うっせーな、いいだろケチ。お前助けてやったのに、ぜんぜん解ってねーのなバカ。第一、先輩だって俺のほう気に入ってそうじゃんか。てか、ぜってぇー俺と先輩の方が仲良いよ今」
「おめーちょっと浮かれ過ぎなんだよ!先輩が器デケーからって調子にのんな」
「ハアア?そっちこそ元ヤンだから何?舎弟が何だって?俺は、先輩が有名な元ヤンだからじゃなくて、人間性を尊敬しているんですがぁ?」
「はっ、テメーなんざ要するにただの後輩だろ!元ヤンをなめんな、俺は高校からの腹心だぞ!」
「おまえなんかパシリじゃんか!虐められてんだろ!ホント不憫なやっちゃな!」
「ああああ!?いてまうぞコラ!」


その年の修学旅行の最終日、引率の教師が3人、こっぴどく風邪を引いた。
その夜は3人を代わる代わる生徒達が看病するという、異例のものになった。




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