そういえばこいつどこに住んでんだっけ。
終電近い癖して人影も疎らな各駅停車、反対側ホームへの階段すら無い片道の改札を過ぎて、
色のはげた遮断機に歓迎される。
新宿の居酒屋でいささか酔いが回って、家迄休みに行かせろ畜生めと絡んでから、どのくらい歩いただろう。
あんまりにも自分の事を喋らないから、俺も驚く程こいつの事を知らない。
渋々ながらも思いがけず承諾した圭に、意外と友達甲斐のある奴めと貸された首を絞めて歩く。
知らずにやけ顔になっているかもしれない。
12時前から明かりの消えた住宅街、次の街灯が近づくまでが寂しい坂道。
まだまだ眠らない高速から、クラクションが遠く聞こえる。
闇夜の雲をぼんやり通り過ぎて行く広告のサーチライト。
ポリ袋の前に寝そべる猫がくぐもった声で鳴く。
「な、見ろよ、ここ。ゴミ捨て場。さあ行きな。明日清掃車が連れてってくれるからな、然るべき場所に」
「へへ、駄目だって圭、そうは問屋がおろしゃしねえってな」
「おお、良い川があるぜえヒロちゃん。なっ、放流してやるから海迄行って大人になろうぜ」
「な、じゃねえよ。いいからお宅拝見させろって。まだァ〜?」
「ほれ、階段上がれっか?着いたぞボロ雑巾」
腕を貸されてブロック塀に囲まれた砂利を踏み、住人の郵便受けを素通りする。
縦長の四角い蛍光灯に照らされたドアには、表札が無い。
ぎいと軋んだくすんだ木のドアが開いて、その奥の暗がりが一筋照らされた。
「あ、何か昔のお前ん家の匂いがするかも。ソースかけたハムみたいな匂い」
「うるっせえよ悪いか。すぐ閉めろ虫が入ってくっから」
四角いお盆サイズのコンパクトな玄関に靴を脱ぐ。秋も深いというのに、何でか出ている扇風機。
だいぶ年季が入った建物は、片付いてる割に小汚い。
寝ぼけた様にぱちぱち瞬いた明かりは、やたら不健康に青白くて目に眩しい色で、その癖酷く薄暗いのだった。
「あれ。何だよ俺とほとんど同じ間取りじゃねーか」
「そこでじっとしとけよ。漁んなよ」
積み上げてある漫画雑誌に、ちらほら重なるパチンコ雑誌。
その下に、絶対デジタルに対応するまいと思われるビデオデッキとテレビとが置かれている。
不自由していないのだからいっそ昔の女が見たいと、『白く濡れた夏』やら『嗚呼女達猥歌』やら、
10年前は年代物のAVや日活ポルノを上映し合ったものだが、あれはまだ持っているのだろうか。
と、とん、という幽かな物音を追ってみると、陰気な色の明かりに引き寄せられて、
ふくよかな腹をした蛾が、台所の磨り硝子越しに網戸をたたいていた。
油除けのアルミ板や、換気扇は染み付いた油汚れやら埃やらがうっすら見て取れた。
年季の入った木の床も、洗面所もそうだ。
ただ、どこもかしこも俺の家よりは小ぎれいに掃除が行き届いているという。
ふと目を留めた戸棚の上に、うちのと同じ型の、コーヒー沸かしが置かれている。
何となく振り返ってみる玉のれん、くたびれた畳の四畳半、一点豪華主義の贅沢なCDコンポと、
ヘッドフォンが置かれているのも。
簡易の洗面台に映る自分が、コップに入れられた歯ブラシとカミソリ越しに見えてぎくりとした。
片付いているから、最初は気がつかなかったのだ。
眼前に俺の部屋があった。
俺の家を出て来て、目の前にまた俺の部屋がある。陳腐な錯覚が酒でのぼせた頭から離れない。
そこかしこを見回していると、やかんの麦茶をコップに汲んできた圭と目が合った。
小洒落た本人にそぐわない部屋が、ますます異様に見える。
「どうした」
「うち来て文句垂れてた割にゃ、俺んちと変わんねぇじゃねえの」
「羨ましくなるんだよな。模範的な4畳半て」
「何上から見下してんの。何の模範だよ」
「お前んとこより奇麗だろ」
「抜かせ。似たようなもんだろ」
「風呂見てみる?何なら入る?」
「いいわ。酒回るし。惨めになる」
強引に引きずり込まれた狭い風呂場に転がされながら、最後に掃除したのがいつ頃か思い出せない、
惨めな我が家の風呂場を思い起こした。
正方形の風呂釜が曇りのない銀色に光っている。温い湯を張りながら、濡れた服を脱ごうともしない
圭の背中が見えた。だらしがないだけで、別に陰気という程の事は何も無い。
造りは似ているのに、何がこんなにこの部屋を陰気に見せているのだろう。
湯気の息苦しさと、靴下を跳ね返りに濡らされた不快感に風呂場から這い出た。
10年前の圭は三度の飯より音楽好きで、ドラムがぴか一で、掃除の時間はバケツや足を踏み鳴らして
リズムをとって、ダンスだってちょっとした物だった。
二人して素行で散々親を泣かせた癖、族にもならないで済んだ事にお互い驚いたものだ。
俺の知っているこいつとは、体つきも、服装も様変わりしている。
そういえば英語は俺よりも良い点とって、色んな国での暮らしてみたいだの、世界の恋人になるだのと
好き勝手に豪語していた。
根付く場所が変われば人となりも別物というが、妙に奇麗好きな所は変わらなかったのだろう。
「なあ圭、俺、高校の頃と比べてどうよ?」
風呂場の圭が水音をさせながら答える。
「年取ったな」
「お前もな。他に」
「自分の事だって大して覚えちゃねえよ。俺もお前もそんな変わり映えしないんじゃねえの」
「へっ、薄情者め」
そういえば、今居る学校だって当時の先生が退職して、高校時代の俺達を覚えている人間はもう殆ど残っちゃいない。
忘れて欲しい不祥事は多々あれども、張り合いが無いといえば確かにそうだ。
勝手知ったる人の家とは良く言ったもので、自分の家に似た場所に居ると、自然気兼ねも無くなってくる。
了承も得ずに床を敷き、円い吊り電燈に布団が勢い良く触れて酷く埃が舞った。
とんだ奇麗好きだと思いながらも、まるで態と小汚い所を真似られているような、何やら病気めいた気分にさせられた。
布団に潜り込んでそば殻の枕を平らにたたいていると、風呂上がりの圭が呆れた様子でやってきて布団を剥いだ。
「誰が薄情者だって」
狭い押し入れの中に押し込められた俺が最初抵抗もせずにへらへらしていたのは、
押し入れの中で血まみれのバラバラ死体がポリ袋に詰められているような、そんな妙な気が晴れて安心したからだ。
率直にそう告げたのが気に障ったらしく、圭は俺を押し入れにねじ込みながら良い笑顔をする。
小突かれ、締められ、掻かれ、良い年をした男同士の憎しみ混じりのスキンシップの果てに、結局襖は閉め切られ、その天井の低さに閉口した。
中は夏がけとタオルケットが入っているだけだが、畳の上よりいくらか暖かくて、大して薬臭くも無い。
指に当たる樟脳の小袋はすっかり中身をなくして、ぷっくり膨らんでいた。
さて、秋の夜長に何を話したものか、狭い其処を出ようと身体を捻った所で、
一筋差し込んでいた明かりが消え、圭が早々に寝たのが分かる。
今更ここを出て布団を引きずり出すのも面倒だ。
畳に直に寝る気分でもなし、ましてや暗闇で彼奴の布団に忍び入るのもぞっとしない。
酔狂にも程があると思いつつ、木材の匂いと眠気に身を委ねた。
あのタイプの奴には根掘り葉掘り聞かない事だ、其れが腐れ縁を保つ秘訣だなぞと、
要するに深入りする要領も良心も持ち合わせていないだけだ。
俺は全く薄情だ。
貧乏暮らししているのは、何も教師が儲からないからだけじゃない。
下宿時代を忍ばせる一昔前の和風アパートを住まいを選んだのには、懐古的な願望だってないではない。
同じように外国での生活経験もあることだし、こいつの性分にもきっと似た所があるのに違いあるまい。
多分そうだろう、改めて見直してみると、成る程いかにもこいつの好きそうな部屋だ。
タワシやら何やらを持ち出して、鼻歌でも歌いながら掃除に勤しんでいる情景やら、
裸の女にカップ麺を作らせている妄想やら偏った像が目に浮かぶ。
ただ、あの乾ききった薄ら寒い風呂場は生活感に欠けていたから、格好がつかないんだと。
しかし昼頃に優しく蹴り起こされる頃には、陽の光に暖められてすっかり部屋は暢気な模様に変えられていたので、俺はただ蛍光灯の色を変えた方が良いぜと、ただ其れだけを口にした。