例えて言うなら、カメレオンに似ていた。
昆虫をディナーにする為に植物に擬態していて、それと知らず持ち主に鉢植えごと愛でられているようなものだ。
慈愛に満ちた眼差しが通り過ぎるのをやり過ごすことは大変に居心地が悪い。
そいつは俺の脇を通り過ぎるのに、行きつ戻りつ、大層時間を要したのだ。
早く通り過ぎろと多少焦れながら、俺はすっかり鉢植えに馴染んで見せた。
それだから身を隠す為に擬態を徹底する羽目に成ったのだ。
仲間に見つかりでもしてみるがいい、正体曝して双方からなんと罵られる事だろう。
仲間からも見つけられる事の無い程上手く化けようというのだ、生半可な難儀じゃない。
ますます持ち主は鉢植えの世話を焼く。鉢植えに紛れて、計らずも俺は愛でられる。
やっとで苦しい姿勢での食餌から解放されるのだから、やはりどちらかと言えば喜ばしい部類に入る。
「おう、俺俺。近藤。お前今日空いてっか?」
「お、ちょうど良かった。連絡しようと思ってたんだよ。あのよー、俺こっち離れる事になってよー」
子供の頃には、成人した自分の様子は想像もつかなかった。
「突然だなおい。何?教え子と関係発覚でもしちゃったか?『教師』ってのはよ、性別も『教師』って分類の人間を指すものと思ってたがね」
「阿呆ぬかせ、危ない橋はわたんねえよ。ちょっと転任する事になってよー」
「やっぱ左遷か」
「ちげえってのバカやろ。聞いて驚け、○◯◯だぜ。○◯○高校」
「オイオイ、地元じゃんかよ。夜道で刺されんじゃねーの」
「あのなあ、オマエと違って俺は人望あンだよ。あ、そうだオマエさ、それ公衆電話だろ。携帯変えた?教えてもらった番号、何度かけてもかかんねーでやんの」
「ああ、わりわり。今止められてんだ。来月になったらまたかけてな」
「そんなになるまでかけんなよお前。てか、いい加減家に電話引けよ。使えねえな」
「いろいろ面倒な事情があんだよ。隣りの部屋、同じ職場のおっさんが棲んでるし」
「…ああ〜、成る程面倒だ。で、何だったっけ?」
「今日飲もうって言ってんだよ。どこにする?」
「じゃあ、新宿」
「新宿か。東口の公園前で良いか。西武新宿の方が近いっけ?」
「公園前にしよう。寂しいもんだな、東京で圭と呑むのも最後かあ」
「言う割に、ドライだよなお前」
交通の要とはおよそ思えない程におぞましい狭さ。
煙草の香だけを便りに不潔さを見て見ぬ振りした、埃と黒いガムだらけの狭っ苦しいホーム。
「いやあ、見送りが圭ってのも何だか照れらあね。仕事あんのにわりいな」
翌月の第3金曜。
「いや、考えてみたらいつも俺この時間新宿だし、今日遅番だし」
そういや、今日か昨日あたり新幹線に乗るとか言ってたか。
学校の生徒か、馴染みの1人くらいは、見送りにくる事も考えられた。
本来自分は一般人に顔を覚えさせないのが望ましい立場ではある。
駅前のコーヒーショップのtallサイズコーヒーだって、片手に持ったまま電話をするのは億劫だった。
それでも見送りをしとくかと腰を上げたのは、駅前のコーヒーショップから見える山手線の新宿駅のホームの片端で、
退屈そうに大荷物に腰掛けている弘の姿が目立って目についた偶然の所為もある。
込んだ電車を避けて何本か見送っているので、大分長い事滞在していたらしかった。
東京駅から新幹線へのホームまでへの道を、雑踏に急かされながら歩く。
一言二言、冷てえなお前はよ位にふざけてなじってやるつもりでいた。
いざとなってみると、冗談でも引き止めようという気にもならず。
なぜそんな冗談を口にしようとしたのかすら、明白でない。
後ろに広がる新幹線の改札ホームが、妙に感慨深い。
上京する息子に父親がするように、気のきいた言葉のひとつもかけるべきか。
「ま、体壊さないようにやれよ」
なけなしの地味な文句に、にかりと弘が笑って返す。
「おう。じゃ、またな。お前もあんま根詰めんなよ」
「あん。じゃあな」
「ま、お互い生きてたらな」
「似合わねえなあおい。じゃあな、またな」
弘は踵を返した。突然似合わないニヒルを気取るのは止せと言いたい。
連絡を遣ろうが遣るまいが、気にかける程の事は何も無い。
近藤圭なんて男はもう居ない。
こいつにとってもそれがハッピーラッキーってもんだ。
あいつが地元に持ち帰るアルバムの片隅に、写真で俺が載っている。
ただし既に名前が違う。出で立ちも、そこそこ違う。
徐々に変化は起こった。
今では学生時代の記憶が、あの頃に考えていただろう事が、想像できなくなって来ている。
今こうして街を歩き回る自分と、昔の自分が同一だという実感が湧かなかった。
歩くアルバムの弘がいなくなって、一層希薄になった。
じきに把握できなくなるだろう。
あいつは消えていなくなったのではない。ただ、地元に戻って働くだけだ。
癪な事に、奴は学生時代の自分を、キッチリ保っている。
これから暫くは、面倒な仕事が回される予定は無い。
事故物件とビルの清掃と喫茶店の仕事だけで回っていける算段だ。
それでも、それなりの覚悟はとうにできている筈だった。
ただ、因果な仕事をやるようになっても、まだどこかで生きていた筈の、
学生時代の自分が、今はもう輪郭しか残っていない気がした。
いよいよ大詰めを迎えるな。
今に始まった事でもないが、とうとう振り返れない時期に来たと悟った。
ほんの一時、弘と馬鹿をやっている間だけ、猶予を感じていた。
その時期はもう終わった。弘がひょっこり顔を出す前の、元の生活に戻っただけの話だ。
これからまた自分は、子供として過ごした時間よりも長い時間をかけ、変わって行くのだろう。
日常を飛び出したくて成らなかった学生時代の自分の姿よりも、日常の皮をかぶっている自分の姿が、いつしか鮮明になって行ったように。
俺はこれからまた、玄さんの孫代わりに同じアパートで暮らし、同じ職場で、同じ仕事をして、壮年になり、老人に成って。
そっくり模倣するように年を取って行くだろう。
大ポカをやらかして、不慮の事故に見舞われない限りは。
無害な人間を模したアパートの付け焼き刃の内装も、いつか玄さんのような、年季の入った其れに近づける事が叶うだろう。
それでいい。望む所だ。
小便臭い自動販売機、飛び散ったジュースにたかる蟻、ゴミ捨て場に集まる蝶、トラップじみた蚊柱、弧を描く銀蠅。
同業者、果敢な整備工、花束男、何処ぞの先生、ボーナスを着飾るOL、化粧した女子高生、
垢抜けない中坊、絵に描いた熟年夫婦、芝居帰りのご婦人方、ホワイトカラーの男達、私服警官、ホームレス、酔っぱらい。
大人の形状をしている癖、どこか雛形じみた高校生の群れが波打つように泳いでいる。
ホーム端で受ける事に成る、喫煙所の恩恵と受動喫煙の洗礼。
交通の要とはおよそ思えない程におぞましい狭さ。
煙草の香だけを便りに不潔さを見て見ぬ振りした、埃と黒いガムだらけの狭っ苦しいホーム。
高架下のゴミ集積所で、ポリバケツに銀蝿が群れをなす。蛍光の橙に照らされた夜が赤い。
愛しくも無いし情緒溢れるでもない、ただ馴染みだけの有る光景。
これ迄の職業柄身に付いてしまった物騒な想像力が、何でも無い場所の破滅を目に見えるように浮かび上がらせる。
日本に戻って暫くの間、人死にのない日常が逆に非現実的に視えた。
ぼんやり眺める列車内の人間の容貌を軽く眺めれば、彼らが乾涸びたり腐乱した人体になる様もだいたい想像がつく。
未だ嗅覚と胃袋は切り離せないが、視覚と胃袋を切り離せていないうちにこれを想像したなら、いつか心身ともに変調を来しただろう。
残骸と残像とを片付けるのも仕事の内だ。
ともすれば破壊の瞬間が頭から離れてしまう程に、後片付けの様子は夥しい情報として氾濫する。
例えこの商売を引退しても、事故物件の清掃業務を辞めては成らないのは暗黙の了解だ。
後の事を考えないから引き金を引く事ができるのに、その清掃業務を切り離してはくれない。
人間を片付ける。其処に加害者と被害者が居た証拠を隠滅する。腐乱の痕跡を消す。
見ず知らずの、内側を暴かれた人体は重くて鼻持ちならない。
消臭スプレーの耳障りな音が何度もリピートする。蠅の照りと、羽音とが。
一度持ち場を離れて、何でも無い空気を嗅いでから、室内の空気をもう一度嗅ぐ。まだ残っている気がする。
髑髏マークに突然に抵抗を覚えたのは、最後に残るのが人体の礎だけだと当たり前に思い知らされるの厭さにだ。
いつか会社の人間も、自分も、これまで見てきた人物の終焉を同じように迎えると。
あの人も解っていて、そのユニフォームを着せる。だから俺も望んで着る。
俺はもう昔の圭ではない。圭だった男はあいつの中に居る。保ちたかった自分はあの中に居る。弘がその故郷に持ち帰る。
自分がこれからどう変態しようとも、もう躊躇は無い。
『○◯○高の近藤』として過ごした高校時代は、これ以上無いという位馬鹿をやって楽しめた。
仲間にも友人にも事欠かず、夢中になったものだってその時々では本物に違いなかった。
それでも日常における己の立場を思い知った分、同程度には、二度と戻りたく無い程に後ろ暗い時期でもあった。
弘は腐れ縁で、楽友で、バカ友と、時にヤリ友すらもこなしてくれた恐ろしく能天気なイカれ野郎だ。
こっちに首を突っ込んでこないから、奴と居る間は大変にお得な状況に事欠かなかった。
まさかアリバイまで提供しているとは、思いつきもしなかっただろう。
色のぼけた紫陽花だけが小綺麗なアパートの階段を、よくコンビニ弁当をプラプラぶら下げて登った。
蔦っ葉の絡んだ手すりの脇に、角部屋の洗濯機がごんごんと音をたてて。
日曜の昼頃行くと、胡散臭い簾の奥で、ごつい母親がたてる類いの包丁の音がする。
そういう時は大概素麺の具を切っているか、ラーメンを火にかけているのだ。
たまに折り畳みのテーブルに答案用紙が束にして積まれていて、畳に赤ペンが転がっていた。
氷入りの麦茶のコップは露を帯び、カクベツに冷たいものが用意された。時に温いのもご愛嬌だ。
銘柄は昔っからおんなじ、猛獣に襲われて重傷を負った、あの目のぱっちりした女優が宣伝している麦茶だ。
高校時代にあいつの家で出たコップに、同じ盆で。
打算でも、何でも、あいつに会うと、俺も昔の自分に戻った気がした。
高校時代というのは一時に色んな事が重なるもので、正直大して覚えちゃいない。それでも、忘れる事のできなかったあの時代の事が。
昔話を特別好んだ訳でもない、それでも次々に色彩を帯びた。
否が応でも思い出す。
今でも其処にあるかの様に忘れ難い記憶から、取るに足らないようなガラクタまで、昔の断片的な時代の象徴が。今でもあいつの部屋には詰め込まれていた。
昔と同じレコード、CD。のろまな再生しかできなくなったウォークマン。おんぼろギターに口ずさむ、歌に昔と同じ声。ロマンポルノに眉の太い黒髪のAV女優、赤ペンに答案、学年便りにプリントの山。本、年代物のジャン○、音楽雑誌、サ○デー…資料と雑誌の山。
忘れていた筈の雑多な匂いがしていた。
教室、化学室、美術室、体育館、更衣室、図書館、焼却炉、渡り廊下から居候の部室に至る迄の。
視聴覚室の黒カーテンを開けたとき、陽の差し込む角度、そのなかに浮く僅かな塵ですら。
あまつさえ今度の勤め先は出身校ってか。業腹だ。
もっとセッション位しておくんだった。にわかバンドのメンツは出世しただろうか、今頃何やってんだか。
俺がよく叩いてた2階の流しのバケツは、もう代替わりしたのだろうか。
過去の産物の山が羨ましい訳じゃない。
「昔の刺々しさを丸くできたのだから、失った若さは惜しく無い」
というのは弘の弁だ。
年に不相応な程中年じみた物言いをするかと思えば、俺より余程若々しい。
仕事柄、子供達との接点が奴を若々しく見せているのかも知れない。
奴の中には青々とした過去が、未だにすくすくと息づいている気がした。
全員揃って生きていたあの時間が。
その何処かに、高校生の俺が居るのかと思うと。
時にはふらふらとからかいに、時に突発的になり振り構いもしないで、
それでも毎週ではしつこいから、せめて隔週にと遠慮もした。
欠かさず会いに行っていた。離れられなかった。
どれだけ赤面ものの過去であろうが構わない。どんなに浅はかでも愚直でも良い。
弘の中の、学生時代の自分を愛していた。
奴は古巣に戻る。
俺は新宿に向かう。
踵を返した。出社迄はまだ、充分に余裕のある算段だった。