なあ。もうその辺にしとけば?
「ああ、でも明日までに終わらしときたいから」
電気スタンドに照らされている横顔は、やはりまだ若い。
「先生ってのも大変だ」
「可愛い教え子の為だからな」
近藤、お前は今何してんだっけ?
「ビルの清掃とサ店」
「めんどくさそうだな。まだお前朝昼夕カップ麺とかやってんじゃねえの?」
「三十路前だからこんなみみっちい飯でも様になるがな」
「何で突然くんだよ」
コンビニの弁当突きながら。
「暇だったから」
パリパリワシャワシャとコンビニの袋を丸めて。
「何かあったのか?」
「んにゃ特に何も。近くまで来たから面拝んだろと思っただけで」
「ふーん。何もないにしちゃ顔が老けたな、お前」
「歳なのはお互い様だろうが」
「ま、この歳になるとお互い色々きついやな」
「いつもこの時間に食ってんのか?」
「いつもは8時台かな。今日は採点で遅くなっちまってよ。折角来たのにもてなせるようなモンがなくて悪いな」
「いや。お前まだなんか仕事あんだろ?」
「そうなんだよ。小テストの採点が残っててよー」
「ほんと面倒なんだな。忙しいとこに悪かったな、そろそろ俺戻るわ」
「おいおいそれこそ何しにきたんだか解らねーだろ。もう少しゆっくりしてけよ」
「仕事しろよ俺らの税金貰ってんだろ」
「採点しながら話しちゃいかんて規則はない」
「めちゃくちゃ迷惑そうな面して何言ってやがる」
「まあ、邪魔にさえなんなきゃ、突然の来客ってのも悪くないって事よ」
CDを手にコンポのコンセントを繋ぐ後ろ姿。
ジャケットと中身が一致していない。それを見とがめる俺も、相変わらずだ。
煙草の煙が白く立ち上り、天井が霞む。
遠くに規則的な電車の音。
ベッドに座って雑誌を読んでいると、弘が伸びをして立ち上がった。そのままキッチンへ向かおうとする足音をヘッドホンごしに聞きながら、ページをめくる。
突然、明かりが落ちた。眼の中にちらちらとスタンドの残像が残る。
「おい電気」
「悪ィ、停電」
「あ、そう」
「くっそ、ブレーカーが見えん」
「携帯使えば?」
「ああー、うん、今電池切れてら。懐中電灯…どこ置いたっけか」
「そんなに使ってたか?電気」
「CDと電気スタンドと冷蔵庫と、蛍光灯と…」
「見かけよりショボいのな、ここ」
「ショボいとかいうな」
「まあ、いいだろ」
「よかァねえよ」
「まだか?」
間があって、ようやく明かりが戻った。背伸びする必要もなかろうに、何故かつま先立ちになってブレーカーを上げている。
その背中を抱いていると、煙草の香と膚の匂いに混じって何か覚えのある匂いがある。何だったか思い出せずにいると、居心地悪そうな視線とぶつかった。
「お前も変わったよな」
「お前もな」
手首を取って腕時計をはずしてやると、日に焼けた堅い手首に白い部分が露出する。汗をかいてるから、という制止を無視してなぞると、くぐもった味覚を覚えた。
「解答用紙が皺になる」
「ま、いいから」
焼却炉の煙のような渋みのある強い香ではない。
汗に混じる匂いは、このアパートに染み付いているものとは違う。
母校の図書館の匂いに近いと、解答用紙の束を前に思う。
弘のくたびれた靴下にコーヒーの染みがあるのが見えた。
息を押さえて、肩に凭れかかる仕種。
肩口に当たる息が熱い。
「ん」
「なんだ?」
「何でも」
「毛が入ったか?」
「猫飼ってるのか」
舌がちらりと覗いて、糸を引く指が短いピンと張った毛を唇から引きだした。
随分久しぶりに会ってから、たまに飯食ったり飲みに行ったり、特に目的もなくダラダラとダベる程度の付き合いだ。昔やってた事の流れで、たまにこういう事になる。
「ん?」
「、うっ、ん、うぅっ!」
「おいおい」
「ふッ、」
「気をつけろよ、近所にばれる」
「そりゃこっちの台詞だろうが。いっ!」
「ん」
「ゥ、、く、、」
どん、と鈍い音が注意した側から響いた。
浅い息が徐々に深くなってくる。二度、三度と押入れのふすまに両肘が当たる。
浸ってんのな、お前。
「ほらまた、よせよお前。土壁が剥げるだろ」
「、ぅうう…っ、、」
「ぅ、…はっ、」
壁から弘の手を引きはがすと、支えを失った上半身は自然と畳の上に前のめりになる。肘が擦れるので角度を変えようとしたら抵抗を受けた。
仕方が無いので腕まくりしたシャツを手首まで降ろしてやる。これで少しはましになるだろう。
逃げる腰を苦労して引き寄せる。シャツの腹に手を差し込んで撫ぜると、ややビール腹の妙に柔らかい肌はひどく熱く、何だかおかしかった。
「はぁっ、は…っ、、」
「まさか弘、お前学校でこんな事してねーよな」
「、ぅ…っ」
肘を畳についてかぶりを振ると、汗ばんだ首筋にかろうじてひっかかっていたヘッドホンが下に落ちた。
「まあ、普通はしねえわな」
ばん、と床を手が打つ。
覗き込んで促しても言葉は無い。眉が寄せられ、眼をきつく閉じている。
意味は無かったらしい。ぜいぜいと喉を鳴らす音が耳に残る。
意味が無いんならするなというのに。近所迷惑なので腕を押さえ付けて続ける。
「お前、やりづれーからいちいち逃げんなよ」
「逃げてねぇよ」
「腰逃げんてんだろ」
「違うだろ、お前が下手だから、俺が軌道修正してやってんだろ」
「じゃあお前上でやってみ」
「その手に乗るかよ…」
「このまま4の字固めしてやろうか」
「どんなマニアックなプレイだよ」
「そういや修学旅行でやったっけか、プロレス大会」
「今は俺が注意する側だけどな」
「憎まれ役だってか」
「違ェよ。やってる事は少々荒っぽくても、今の子供は素直なもんだ」
「そんな事言って虐められてんだろ?」
「誰が」
「虐め甲斐あるもんな、お前、」
「、んっ、、」
「ほら、上やってみろって」
「うっ、…う、っ!」
「、…、」
「うんっ、うぅ、、ッ」
「静かにしろって…!」
「、ん、ーっ!、、ぅ、ぅ、く…」
「、、ハ、」
「、んッ、んッ、んッ、ん、」
「お前、やらしいって…絶対」
「、近藤…、なぁ、」
息の間から、低く擦れた小さいつぶやきが漏れた。
すっかり感じ入っている顔。伏せた目が濡れている。
「まだ我慢しろよ」
腕の中の感触は10年前と同じ。表情は懐かしいようでいて、昔のそれとは全く別物だったが。
溢れてきた物を指で救い取りながら、動きを緩める。無意識の軽い締め付けがあって、相手が自分を感じ取っているのが解る。
すっかり身体が馴染んでしまっている証拠。
こういう時、微妙な罪悪感を前よりも強く感じざるを得ない。
「な、…、」
「もう少し、ほら顎」
顎を上げさせ、そのまま喉まで甘噛みする。汗と石鹸の混じった香。
「、…、、く、」
「、」
「、ゥ、んっ…、ん……。ん、ん…ッ、、ぁ…、、」
「…何て格好、してんだよ」
「…凄い格好してんな、俺ら」
「こういう趣味があるってのは、教師としてはあまり良く思われないんだろうな」
「さぁな」
「こんな事してて、いいのかお前」
「別に…仕事には関係ないだろ」
「そりゃ、そうだ」
お互い、男じゃ無きゃ駄目な訳でも無し。昔の癖が再発しただけの事だ。
引けば途切れる腐れ縁とでも言うのかもしれない。
「10年はでけぇな。お前が公務員になってんだもんな」
「変わる奴は変わるもんだ」
「そんなもんかね」
「お前こそ、向こうの生活どうだった?永住とかすんの」
「いや、今のとこそのつもりは無い」
「嘘吐け」
「何で解った」
「タメに、戻ってきたって連絡よこさねえからよ」
「あっちに慣れちまうと、無性に戻ってくンのが面倒くさくってよ」
「お前は、丸くなったよな」
その言葉に目を丸くした後、にやにやとしながら近藤は聞き返す。
「俺が、昔よりか?」
「あんま、仕事に根つめんなよ。近藤」
「ああ」
肝に命じとくわ。
そう言って寝煙草をふかす横顔は、いつもより年相応に若く見えた。