恋人になった夜

 チュッという軽いリップ音とともに唇が一瞬触れすぐに離れた。

「久しぶり愛抱夢」

「会いたかったよ、ランガくん」

 ランガはキスをしてくることにためらいがない。日常の挨拶といった風情で彼の方から積極的に唇を重ねにくる。

 ランガの両親はいつもキスしていてそれが普通だったと彼は話してくれた。

 朝起きたら軽くキス、仕事に出かける前に慌ただしくキス、帰宅すれば速攻でキス、散歩しながら手繋ぎキス、見ていないけどきっとおやすみなさいのキスも寝室でしているのだろうと。それ以外でも特に何かがあるわけでなくてもさりげなくキスをしていたと。

 これらは夫婦もしくは恋人同士の挨拶のキス。親愛の表出だ。老夫婦だって同じだと彼は教えてくれた。

 幼いころからそんな両親を普通に見てきたんだ。そりゃ抵抗がなくて当然だ。

 一方、留学でアメリカに数年間過ごしたことがあるとはいえ愛之介は所詮日本人。さらにそんなラブラブ夫婦など知り合いにはいない。人前でキスをする——伯母どもいわく、はしたない男女——など身近にいなかった。欧米かぶれのくせにと思ったが、あれは僻みだったのかもしれない。

 ここは日本だ、人目に付くところでは控えるように、とランガには言い聞かせてはある。だから今もコースから少し外れたフェンスの陰で、誰の視線も向いていない隙を見計らってのことだった。

 この手の性的な意味などほとんど込められていないキスは、ランガに圧倒的なアドバンテージがある。自然体でキスを仕掛けてくる彼に愛之介は押され気味だった。

 もっとも誰もいない空間での性的で濃厚なキスなら愛之介に分がある。これは育ちというより単純に年齢と経験値の差によるもので、まだ少年でしかないランガもそれを理解し年上の男のリードに委ねていた。

 とはいえ、この関係を持ってしても、ランガが自分のことを恋人と認識してくれているのかわからないし情けないことに訊く勇気もなかった。


 金曜夜のS終了後に話したいことがあるから時間をつくって欲しい、とランガに言われていた。どこで? と色々考えたのだが彼の自宅マンションが無難ということで落ち着いた。母親は夜勤だということで帰りは翌朝十時過ぎになるという。話は長引くかもしれないし忠を待たせても申し訳ないからと、ランガは愛之介に一晩泊まっていくことを提案した。もちろん彼は母親にスケート仲間を泊めると予め説明している。


 二人とも歯を磨きシャワーを浴び寝巻きに着替えてと、すっかり寝る体裁を整えていた。

 愛之介はベッドに腰かけ、床にマットレスを敷くランガを眺めていた。

「愛抱夢の家と違って狭くてごめん。俺、こっちで寝るから愛抱夢はベッドで寝て」

「一緒に寝たいな」

「狭いよ」

「そうだね。でもその前に」

 ランガの腕を掴みぐいっと引っ張れば、体勢を崩し倒れ込んでくる。すっぽり胸に抱きとめ「キスしていい?」と耳元で囁いた。

「今日はもう何度もしたけど」

 ランガはは指を折りはじめた。今日会ってからのキスの回数を数えているようだが、なんの意味がある? 一日の上限でも決めているのだろうか。

「全部君からのキスだったからね。今度は僕からキスをしたい。どうかな?」

「わかった。その前に話がまだだよ。教えて欲しいことがあるんだ」言いながらランガは身体をを少し離した。

「確かに今日のテーマがまだだったね。で何を知りたいの?」

「俺たちいつセックスするの?」

 迷いも恥じらいもなく飛び出した質問は脈絡もなくストレートだ。愛之介はまじまじとランガの顔を見つめた。彼の表情は真剣そのもので、青い瞳が睨みつけるように迫ってくる。

 ここは冷静に返そう。咳払い一つで心を落ち着かせた。

「具体的には考えていなかった。様子を見つつかな。君の希望とかあるの?」

「あなたがやろうと言ったときかな。もういつでもいいと決めていた。今、これからでもいいよ」

 ランガは元気一杯に両腕を広げた。

 少し頭が重いような気がする。

「この部屋で?」

「だめ?」

 部屋をぐるりと見回した。

 ハンガーに掛けられた制服、デスクの上に並んだ教科書、校章の入った通学カバン。

 いいわけないだろう。もういい加減慣れたがムードもへったくれもない。頭がズキズキとするのは気のせいではなさそうだ。

「ここはいかにも男子高校生の部屋なんだよね。僕に罪悪感や後ろめたさを抱かせて君が面白がるとかいう何かのプレイ?」

 少しだけ茶化して反応をみる。

「ざいあくかん? うしろめたさ? プレイって?」

 ランガはきょとん顔でコテッと首を傾げた。いちにいさん……と六つくらいかな? 頭の上に並ぶクエスチョンマークの数だ。そりゃ通じるわけないか。

「あー気にしないで。それより君は本気でやりたいと思っているの?」

「やりたいじゃなくて、やったほうがいい、かな?」

 やったほうがいい? やらないとまずいことでもあるというのだろうか。意図が読めない。

「やったほうがいいとは?」

「正式な恋人同士になる前に、Sexual compatibility——身体の相性だった? を確認しておいたほうがいいって聞いたことがある。あなたがまだDatingだと思っている間に」

 愛之介は額に指を当てうなだれた。

 ここまでの流れではっきりしたことは、ランガが自分を恋人とはまだ認識してくれていなかったということだ。彼にとってのDating期間など既に終わっていると信じたかったのだが。そもそも愛之介は最初っからお試しなんてことを考えていない。ここは日本だ。

 気を取り直して「その発想になった理由を説明してくれる?」と水色の髪を優しく撫でた。

 ランガは自分の胸に手を当てた。

「俺さ、あなたと会うとドキドキする。それが会う度に強くなっていくんだ。ずっとあなたが見せてくれるスケートのせいだって思っていた」

 そこで言葉を区切り目を伏せ黙り込んだ。

 ランガの片頬に手のひらをそっと添えた。

「落ち着いて。ゆっくりでいいよ」

 彼は小さくうなずき口元をキュッと結んで顔をあげる。まっすぐ愛之介に向けられた青い瞳が微かに揺れていた。

「それが違うって気がついた。このドキドキはあなたへの好きなのかなって。好きがもっと大きくなっていくのかもしれないと思ったら、不安になった。——What if we're not sexually compatible?」

 セックスの相性が悪かったらどうしよう?か。まったくなんてことだ。普通の子はそんなこと考えたりしない。

 腰に腕を回し引き寄せるればランガは片頬を愛之介の胸に押し付けてきた。

「今よりあなたを好きになってから合わないってわかるくらいなら、今のうちに確認しておいたほうがいいかなって」

「きっと相性は最高だよ 」

「What if……えっと……最悪だったら?」

 間違いなくそれは杞憂だ。でもまあ、それを説明したところでランガの不安は解消されないだろう。

「セックスなんてしなければそれで済む」

「え?」

 ランガの背中で両腕をクロスしてそのままギュッと力を込めた。

「君は僕に抱きしめられるの好き?」

「うん、好き。あなたを抱きしめることも好きだよ」

「僕もさ。君を抱きしめることも君に抱きしめられることも同じくらい好きなんだ。癒されるからね。では僕とのキスは? 僕は君とするキスが好きだ」

「俺も好き」

「ほら、なんの問題もないだろう? キスしてスケートをする。キスして一緒に食事をしよう。キスして手を繋いで、キスして抱き合って寝る。どう? 素敵だろう?」

「それで愛抱夢はいいの?」

「もちろんだよ」

「本当に?」

「本当。君は満足できないのかな?」

 ランガはふるふると首を振った。

「僕が君を抱きたいと思っているのは嘘じゃないよ。でもそれは今ではない。それといきなりは無理だよ。色々準備しなければいけないものもあるし。何より君の初めては大切にしたい。必ず素敵な思い出にして見せるから」

 いずれ訪れる特別な日。いかなる方法で君をうっとりとさせようか。どのような企画で盛り上げるか少し考えるだけでワクワクする。華やかでロマンティックな情熱の夜を君にプレゼントしよう。少々鈍感なこの子には、傍から見ればドン引きするくらい大袈裟な演出で丁度良いだろう。

「約束するよ」

 愛之介は、すっと小指を立てた。

「Pinky swear? 大人はそんなことしないって、暦が……」

「赤毛くんが? 大人はどうするって言っていたの?」

「こうするんだって、DAPを」

「それは友人間の約束だよ。恋人同士は大人でも指切りなんだ。日本では昔からね」

 発祥は遊女が客に愛を誓った少々生臭いおまじないだったという逸話は黙っていよう。今は普通に無邪気な子供や恋人同士が指切りで約束を交わすのだから。

「わかった」とランガは素直に小指を差し出した。小指を絡め合う。

 セックスが愛の絶対条件ってわけではないけれど、セックスに意味がないわけではない。全身全霊で受け入れる他者の肉体と心に自分の生を鮮明に映し出すことができるのだから。

 それでも僕たちにはスケートがある。だから急がなくていい。無理しなくていい。今はまだ。

「さて寝ようか。遅いしね」

「一緒に寝ていい? 窮屈だったら下に移るから」

「もちろん。もともと同じベッドで抱き合って寝たいって思っていた」

「キスは?」

「もう遅いからね。おやすみのキスをしよう」

 軽く唇を合わせればランガの口元が綻んだ。

「おやすみなさい」

「おやすみ、ランガくん」

 部屋の明かりを落とす。

 体を密着させ目を閉じれば、ランガの気持ちよさそうな寝息がすぐに聞こえてきた。

 布地越しに行き交う穏やかな体温は、どこか懐かしくて愛之介を泣きたい気分にさせた。

 ああ、なるほどと思う。恋人のぬくもりはこんなにも優しく愛おしい。

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