雨降って

 

アンナは机に頬杖を突き、まだ誰もいない教室の窓から外を眺めていた。
ついさっき降り出した雨は早くもグラウンドに灰色がかった水溜まりを作っている。
窓ガラスに叩き付けられた雨が風で伸び、蚯蚓のように這い回った。
空の教室は妙な閉塞感がある。いつもより湿っぽい空気に体が圧迫されているようだった。
…傘、持ってくれば良かった。
天気予報でも観てから来れば良かったのだが、
朝はそんなことを思い付く気分でもなかったし、葉と顔を合わせたくなかった。
別に喧嘩した訳ではないのだが、今朝は葉が起きる前に家を出た。
葉はまだ家も出ていないだろう。傘を持って来るはずだ。
だからと言って葉に頼む気にもならなかった。
どうすることも出来ない雨を、アンナはただぼーっと眺めていた。
雨足が強くなるにつれ、初めぽつぽつと生徒が増え、
一定の間隔を置いて二、三人で来る者が数珠繋ぎになって次々と教室に入って来た。
五分前の予令の頃には教室がだいぶ騒がしくなった。
マジ、チョー、素で、うざい、てゆーか、いかつい、かなり、きもい、ゼッタイ、ウソー、ありえない。
鬱陶しいほどの人いきれの中、そんな言葉ばかりが絶えず耳につく。
HRのチャイムの2分前、開きっぱなしの扉から葉が入ってきた。
アンナの方をちらっと見たが、話しかけては来なかった。
アンナは、安堵と同時に、突き放された感じがした。
席に着く葉を目で追い掛け、その背中を見つめていると突然、目の前を白いシャツが塞いだ。
目を上げると、一人の女子がアンナに覆い被さるようにして机に両手を突き、立っていた。
「ねぇ、恐山さん」
女子はアンナの応答を待たず、小声で続ける。
「恐山さんってさ、麻倉君と付き合ってんの?」
突然の問いにアンナは固まった。
普段学校ではそんなにべったりとしている訳ではないのだが、
色恋沙汰気になる思春期の少年少女は葉とアンナの間にあるものを敏感に感じ取っていた。
違う、と誤魔化せばこの場から抜け出せるのだが、
その言葉が出て来ず、というより言ってはならない気がした。
かといって本当の所を話せば忽ち広がり、変な噂が立つ。
アンナは気まずくなって女子から目を反らした。
その視線の先で、扉の所に三人組の生徒がこちらを見ているのに気づいた。
アンナが答えずにいると、身を乗り出して更に問いつめた。
「ね、そうなんでしょ?」
女子の言い方にアンナはむっとした。眉が少し吊り上がる。
そうなんでしょ? 私知ってるのよ。
そういうニュアンスをアンナは嗅ぎ取ったのだった。
…あんたらに葉の何が分かるのよ。
そう思い何かに気付き、じゃあ、とアンナは自問した。あたしは葉の何なんだろう。
なかなか声を出さないアンナを女子はもどかしく感じて、
ねぇ、と言ったところで遮るようにチャイムが鳴った。
そして間髪容れず、担任が名簿と教材、チョークの入った箱を抱えてやってきた。
それらをどんと教卓に置いて、さっきの女子のように机上に手を突いた。
おらお前達早く席つけ出席取るぞ、おいそこ静かにしろ声が聞こえねぇだろ。
担任の方を見て女子は無言で立ち去って行った。
出欠確認の間、アンナの表情は曇ったままだった。
HRを終え、担任が教室を出る。
それを合図に座っていた生徒達が席を離れて散らばり、またお喋りを始めた。
あの女子はもうアンナの所には来ず、扉に集っていた生徒と
机を囲んで何かひそひそと話し込んでいた。
席が近いため、話が少し聞こえてくる。
でさ、どうだった? それがさ……、えー、ありえない。
五分後、やはりチャイムと同時に教師が現れ、担任と同じことを言って授業を始めた。
えー、新政府により定められた徴兵令、地租改正、えー、学制等に農民らは悉く反発し、
各地で一揆を起こしたわけ。えー、つまり、一揆が一気に起こったわけだね。
生徒からへらへらと笑いが起こる。アンナは全く笑えなかった。
…あたしは葉の何なんだろう。
…許嫁。アンナは心の中で呟いた。
今日家を早く出たのは葉への当てつけと誤魔化した現実逃避だった。
戦いを経て葉はどんどん成長し、また自分から離れてしまっていっている、という不安がアンナを襲った。
実際、もうすぐ葉はSF本戦に向けてここを発ってしまう。
離れたくないと独占欲が募り、自分達の関係に介入する者に対して嫉妬する。
それ故、例えば葉が、たまおと話している、それどころか彼女の料理を食べていることにすらアンナは妬いた。
教科書に明治前期の一揆の発生数の棒グラフが書かれていた。
民衆が制度に刃向かう。ヒトは周りの変化を嫌う。今のアンナと同じだった。
変わるということは言い換えれば気付くことで、自分の限界を知ることでもある。
あたしと葉は婚約者だから、とその間柄に頼って自分は本気で葉を愛していない。そして信じていない。
アンナはそのこと認めてしまうのを恐れ、逃げようとしていた。
「おい麻倉」
教師が葉を呼んだ。授業開始から居眠りしている葉を起こす。いつものことだ。
だが、今のアンナは「麻倉」という言葉に対して過敏に反応した。
声が聞こえていないのか、それほど深い眠りについているのか、葉は全く応じない。
周りからどっと笑いが起こる。さっきのような笑い方だった。
「なんだ、まったく仕方ない奴だな」
そう言って教師も笑った。アンナにはその笑いが不愉快だった。
張り付いたような笑顔。生徒に対しての威厳があるのだろう。無視されたのが気に食わないのだ。
そしてそれは次第に本当の笑いになり、端的に言えば支配を諦めるようになる。
男と女も、とアンナは教師の空笑いを見ながら思った。こうやって別れていくのね。
不協和音の隙間から、あ、雨止んでる、と声が聞こえた。
俄雨だったのだろう。雨水に濡れた窓を眩しいほどに太陽の光が照り付ける。
朝の葉の姿が過る。アンナは、ほっとしながらもこれで一緒に帰るきっかけがなくなってしまったと少し未練たらしく感じた。
「ねえ、虹出てる」
一人の女子がそう言うと、窓際の生徒が一斉に外を見た。
アンナも少し体を向ければ空が見えるが、そんな気にはなれなかった。

放課後、生徒達の談笑の中アンナは鞄を持って
さっさと昇降口まで降り、革靴を突っ掛けて足早に門を出た。
水溜まりを避けて帰路を辿りながらアンナはさっきの授業のことを思い出していた。
…もし葉がいなくなってしまったら、あたしは独りあの中でやっていけるのだろうか。
マジ、チョー、素で、うざい、てゆーか、いかつい、かなり、きもい、ウソー、ゼッタイ、ありえない。
学校で絶えず聞こえるその語彙が、アンナの気分を曇らせる。
その一つ一つが体に降り懸かって冷えていくような感じがした。
…あ。
アンナは街道に出て周りで傘を差している人を見るまで、
実際に雨が降っていることに気が付かなかった。
大したことない、としばらくそのまま歩いていたが、思いのほか強く降り出したので、
仕方なく側にあったHEIYUの入り口で雨宿りすることにした。
…片意地張らず一緒に帰れば良かった。今日は後悔してばかりね。
アスファルトを叩く雨音が、まるで嘲笑のように聞こえた。
葉のいない世界を受け入れれば、変化から逃げ、
決まったボキャブラリーで他人と同じに振る舞えば、楽になれるだろうか。
「アンナ?」
後ろから、どこか懐かしい声が響いて、アンナの背中がぴくんと跳ねた。
振り向くと、ビニール袋を手に提げ、傘を開こうとしてそのまま止まっている葉がこちらを見ていた。
アンナは今まで悩んでいたことが全て吹き飛んでしまった。
…葉。
そして胸の中が底から熱くなっているのに気付いた。
道路に溜まった水を車のタイヤが蹴り上げる。アンナは傘の下で俯きながら歩道を歩いた。
「ほら、もっと中入れよ。濡れちまう」
狭い傘の中で何となく距離を取ってしまうアンナを、葉は自分の方に引き寄せた。
今朝、女子が近付いた時とは違って嫌な感じはなく、更に胸が熱くなった。
葉は自分の肩を濡らしてアンナを傘に入れたりしない。
『オイラは楽が好きなんだ』
…今も変わっていないのね。
あの女子はこういう男と付き合ったことがないのだろう。
媚び諂うような連中と関わるから夢中になれず人の恋路が気に掛かる。
「なんであんたが買い物なんかしてるの?」
今日初めて自分から口を開いたな、とアンナは思いながら聞いた。葉は、ほっとしたような顔で答える。
「最近さ、お前あんまり食欲ねぇみてぇだから、たまには気分転換にオイラが晩飯作ろうと思って」
…やっぱり気付いてた。
『楽じゃないお前は放っておけん』
…本当に、変わってないわ。勘違いしてた。変わってたのはあたしの方。
アンナはそれが解って、痞えていたものが胸の熱で溶けた。
「もう平気よ」
…たまおにも気、使わせちゃったわね。
たまお、と心の中で呟いても、もやもやとした気持ちは起こらなかった。
「そうか」
ユルユルと歩く葉に、自然と歩幅が合わさった。
「じゃ、しっかり食べんと。胸も大きくならんしな」

スパアァァァン

傘と一緒に葉が吹き飛ぶ。立ち代わって太陽が照り付ける。雨は止んでいた。
道草に懸かった露が、葉の緑を映して翡翠のように輝いている。
アンナはまだ雨の匂いの残る空を見上げた。

…あ、虹―――。


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