薄暗い夜の中、彼女は目を覚ました。

 ―――ワタシは、いつの間に眠りについていたのだろう?

 記憶にあるのは、闇。
 そして、今も見えるのも、闇。

 ―――けど、どうして……
    ワタシは、生きているのだろう?


プロローグ/雪月に祈る夜 



 彼女は、ふと自分が一降りの刀を抱いているのに気がついた。

 ……ああ、これは……

 幽かに残る記憶の中で、思い出す。

 ……これは、ワタシの大切な物だったはずだ。
   そして、ワタシに無かったモノをくれた、あの人の……

 だから、空を見上げた。

 ……あの人は、いつも空を見ていた。夜の空を……

 彼女が見上げる先には、藍色の空と優しく輝く月がある。

 ……下弦の月。あの方のように、いつかは消える月……

 そんな事を想いながら彼女は―――――その月を虚ろに見つめ続けた。



          ◆◆◆



 深夜、玄関の方が騒がしいのに気づき、(あおい) 静香(しずか)は目を覚ました。
 何かあったのだろうか、と体を起こしたところで、襖の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「静香様、し―――――」
「このような夜更けに、一体何です?」
「あっ。し、静香様……も、申し訳ありません」
「いえ―――それよりも、何かあったのですか? 先ほどから玄関が騒がしいのですが」
「は、はい……そ、それが、美月(みつき)様が先ほど参られて、静香様を呼びなさい、と……」
「? ―――お姉さまが?」
「はい。ですから、すぐに玄関までお越しいただけますか?」
「え……ええ、わかりました」
 静香から了承を得ると、声の主は部屋の前から離れていった。
 気配が離れていったのを確認して、静香は人知れず溜息をつきながら考える。
 この夜中に用とは何か? ……それに、自分を直に呼ぶ理由は、何か?
 ……葵の仕事の方ではない。すると、考えられるのは……
「―――でも、ざっと考えつくのだけで二つ三つくらいあるのよね……」
 そのどれもがあり得そうで、静香は思わず苦笑した。



 静香が遅れて玄関に来ると、そこでは使用人の何人かが困り果てたような顔で話し合っていた。
「―――どうしました?」
「静香様―――」
 声を掛けると、使用人達は慌てて振り向いた。
「あら? ―――その子は?」
 と、そこで静香は、一人の使用人の腕に子供が抱かれていることに気づいた。
 歳の頃は四、五歳くらい。肌は白く、髪は黒くて長かった。今はすやすやと眠っている。
「はい。先程、見知らぬ女性が訪ねてきまして、この子を預かって欲しいと………」
 寝ている子を起こさないようにという配慮からか、子供を抱いている使用人とは別の使用人が答えた。その声からすると、先程静香を呼びに来た者らしい。
「もちろん最初は断りました。この寒い中、格好が白の薄い着物だけでしたし、所々すすけていてぼろぼろでしたから―――――ですが……」
 そう言われて、やっと静香は気づいた。使用人が抱いている子供の服装も、所々すすけていることに。
 それは、今聞いた女性とまるっきり同じ―――という事は、親子で同じ服装だったということ。
 そしてその服装は、死に装束にも似た―――――
 静香は、この格好をする人を知っていた―――いや、一人じゃない人達の筈だ。
 ……っ! まさか、だって今年はもう―――
「……そう、そういうことですか、美月姉さま―――――で? その子、一人だけ?」
「? そうですが……」
 唐突に雰囲気を変えて言った静香の質問に、使用人は怪訝な表情になりながらも答えた。
「それで? 美月姉さまは?」
 静香は少し取り乱していた。口調が地に戻るくらいに。
 だが、それは当たり前だった。なにしろ、そんな大事な事をここに至るまで全く考えていなかったのだ。自分に腹が立つし、あせりもする。
「美月様は、その女性のすぐ後に来られて―――」
「そうじゃなくて―――今どこに?」
「あ、はい。その事について美月様から言づてで、「先に行く」とつい先程」
「それじゃ、子供を連れてきた女の人は? やっぱり姿が見えないんだけど?」
「……あの、その……美月様に気をとられて、少し目を離した隙に……」
「―――いなくなった?」
「……はい。……すみません」
 やはり――と静香。そして、そこからが早かった。
月影村(つきかげむら)?」
「え―――? あ、はい。確かに、そうおっしゃられていました」
「そう、やっぱり……なら、至急紫苑(しおん)を叩き起こして、(ゆみ)白羽(しらは)と合流させて」
 すばやく判断し、静香は使用人たちにそう告げる。
 こういう時こそ冷静になるべきだ。
 ……悔しいけど……アイツもそう言っていたし、それが今の私の役目。それに、まだ美月姉さまだっているのだから、ここまで気にすることでは無いかもしれない。
「…………………」
 しかし、今出来る手、今出せる手は全て打つ。それで、手遅れになるのなら仕方ないが、なにもしないで全てが終わってしまったら、目も当てられない。
 それに、始まったかもしれないけれど、まだ終わってはいない。
 ……そう、終わってはいない。だけど。間に合わないのなら、せめて彼女だけでも……
 静香はそう自分に言い聞かせ、無理にでも頭を冷静に保つ。
「それから、車と今空いている者を―――――あ、いえ、やはり車だけでいいですから、すぐに用意して。それが出来次第私も出ます」
 おそらく他の者を連れていくのは止めた方がいい。下手をすると止められてしまうから。
 ……けれど、あそこが動いたとなると……
「あの静香様? この子、どうしましょう?」
 現在起こった事、これから起こるであろう事を静香が考えていると、女の子を抱いたままだった使用人がおずおずと訊ねてきた。
「え……? あ、ああ、そうね……とりあえず、そのまま寝かせておいてあげなさい」
 静香は少し考えた後、そう答えた。
 そして、その時静香はすでに確信していた。

 この子は、このまま預かることになるだろう―――と。



          ◆◆◆



 彼女が夜空を眺め始めて、少しの時が流れた。
「―――――――」
 不意に、彼女は見上げていた顔を誰もいるはずのない暗闇に向けた。
 どこからか―――いや、もうすでに彼女にはわかっている。林立する冬木の間の暗闇に、人が二人居る事など。
 だから彼女は、闇を見つめている。
 そして、その睨み合いらしきものはしばらく続く。しかし彼女からは、なんの感情も感慨も感じられない。ただ、闇を見ているだけのようだった。
 そうするうちに先程まで出ていた月が、いつの間にか現れた雲に隠れた。
 ―――辺りの闇が、さらに深くなる。
 すると、それを待っていたのか木の陰に隠れていた人物が現れた。ただやはり明かりが消えた今、彼女の所からは人だと分かる程度の影しか確認できない。
「―――――――」
 そんな影の様子をぼうっと見ていただけの彼女が、何故か突然微笑んだ。
「!?」
 この暗闇の中で見えているのか、彼女の顔に浮かぶ表情に影は一瞬驚きの気配をみせる。
「――――――?」
 相手の驚きの気配を感じ不思議に思ったのだろうか、彼女はとても不安そうだ。
「……あれが?」
 そこに、別の所から声が聞こえた。口調からすると男だろうか。だがその声は、影にだけ届く大きさで彼女には聞こえなかった。
「わかりません―――でも、あれは少しおかしいです」
 その声に、影が答えた。こちらは女のようだ。
「おかしい?」
「ええ。おそらく何かが原因で、まだ不完全なのだと思います」
「そうか……だが、このままでは……か?」
「ええ」
 闇に紛れている二人は、彼女を無視して話し続ける。
「ならば―――――」
 堅い意志を込めた言葉を発しながら最初の声の主は、持っていた黒い鞘から銀色の刀身を引き抜いた。
「……はい。どうか、お願いします。その後は私がしますから―――――」
 女は一瞬躊躇ったが、すぐに決意を固めたらしい。
「ですから―――――そのまた後の事は、お願いします」
 強くそう言った。
「……………ああ、承知した」
 少しの沈黙の後、声は了承し―――――その直後に、彼女が動いた。
「「!?」」
 女と声の主は、咄嗟に身構える。だがそれは、無意味な行為。
 ただ彼女は、再び空を見上げただけ……なのだから。
「―――――――」
 彼女は、降り来る物に対して無邪気に笑っていた。その見た目の年、相応に。
 たとえ彼女にとってそれが、偽りのモノだとしても―――――
 女は、その様子を悲しむように見つめ、そして呟いた。
「……あぁ―――あの子はやっと……自由に、なれるのね―――――」



          ◆◆◆



「―――そっちは、どう?」
「駄目だ。これといって収穫なし」
「そう、まあ期待はしてなかったけれどね―――――て、あれっ白羽は?」
「……さあな。ここに居ないってことは、もっと奥にいったのかもな」
「まだ奥に? ―――まあ、白羽なら大丈夫か……」
 雪が降る最中、一組の男女がそんな話をしていた。
 日付が変わった頃に降り始めた雪は、いつしか吹雪いていた。その凄まじさといったら、まだ降り始めて一時間も経たないうちにすでに地表が見えない程積もっていることからまかるだろう。
 まだ積もっていない所と言えば、いまだ燻っている焼けた家々ぐらいだった。
「それにしても―――――酷い有様ね」
 女の方――若水弓が、顔をしかめながら辺りの景色を眺めて呟いた。
 焼けた―――いや、焼かれた家々。その周りに漂う、焦げた臭いと血の臭い。
 それはあまりにも、普通の日常からかけ離れた光景だった。
「ああ―――――だが、こっちの方も酷くないか?」
 男の方――葵紫苑は、自分の足下の雪を蹴飛ばしながら弓に訊いてきた。
「う……ま、まあね。でも……それも自業自得でしょ」
 それを改めてみた弓は、そっけなくそう言うとプイッと横を向いた。おそらく、そんな物をいつまでも見ていたくないのだろう。
 そういう物を見慣れている弓にしても、それほど見るに耐えない物なのだ。ソレは。
「そうだな」
 紫苑の方もそれ以上は弁護する気にもなれないと、それに同意する。
「それでさぁ、私達って何をしに来たんだっけ?」
 いやなものを見た、だから忘れるんだ、と弓は話題を変えた。
「ん? 義姉さんに言われたのは『月影村の調査、確認、後始末。あと生存者保護』っていうものだったが―――――まあ、今見てきた現状とこの雪では……駄目だろうな」
「だよねぇ………なら、どうしようか? あともう少し―――――――」
 ―――ビュウウゥゥゥゥゥ―――――
「―――――――ね………ねえ、紫苑?」
 と、急に吹雪いてきた様子に、弓は言おうとした言葉を飲み込み、代わりに相方の名前を呼んだ。
「……何だ、弓?」
「このままだとさ、私達………遭難しない?」
 探し始めてから、止むことも衰えることさえもない吹雪。視界は雪、雪、雪。上も下も雪だった。というか、少しの間動かないで話しているだけで二、三センチ程体に積もるなんて、尋常ではない。
「するかも、な……………それも洒落ではなく」
 周りの状況を見て、少し死を連想する二人だった。
「と、とりあえず、帰ろっか? 今ならまだ何とか」
「ああ、全く反対する理由もない。こんな状況だ。任務放棄と怒られる事も無いだろうし」
 そもそも、急すぎた。出来るだけ早く、ということで二人とも着の身着のままにここに来ている。
 そんな状態なのだから、義姉さんも鬼にはならないだろう……、と二人は思った。いや思いたかった。
「よしっお勤め終了〜!! 白羽、帰るよ〜」
 弓は、まったくもって恐ろしい考えを打ち消すために、あえて明るく宣言してから、何処とも知れずもう一人に向けて言葉を飛ばした。
「―――で……ちなみに、これは紫苑の判断ってことで、よろしく」
 そして、不意に紫苑の方へと向き直り、何とも無慈悲な言葉をとっても軽い口調で言い放った。
「なっ!? ちょっと酷いぞ、ソレは」
「ま。いいから、いいから―――――」
 紫苑は思う。いつものことながら、なにもいいことは無い……と。
「―――帰る、のか? 弓」
 と、そこで、そんな紫苑を横目にみながら、さっき弓が呼びかけたもう一人――白羽が戻ってきた。
「ええ―――――て、あれ? どうかしたの、白羽………何かあった?」
 どこかいつもと違う白羽に気づき、弓が訊いた。
「そうだな、あったと言えばあった……でも、私的な事だから今回の件とは関係ない」
「私的な事、って……ああ、そういえば。あなたと初めて逢った時、此処から来たようなこと言ってたっけ。
 ―――――で? それはもう良いの?」
「ああ。とりあえずの確認は済ませた」
「……そう―――じゃあ、帰っても良いんだね」
 あえて聞かず、弓はもう一度確認する。
「―――ああ……かまわない」
 すると、ほんの少し間を置いて、白羽は頷いた。
「うん―――じゃ、帰ろうか。あなたはともかく、私が凍え死にそうだしね」
 弓の言葉の中には、紫苑は含まれていなかった。


          ◆◆◆



 そんな風なやり取りをしていた弓達の前―――彼女達がここに現れるより早く、一人の男が同じ場所にいた。
 その頃はまだ雪も小降りで降り始めとあまり変わらず、ちらちらと夜の空に舞う程度だった。
 だが、男の目にはそんな物は入ってはいなかった。
「―――――」
 男は、声にならない声で、誰かの名前をぽつりと呟いた。
「………何処、だ……?」
 ここには誰かを捜しに来たのか、訊ねてきたのかはわからない。
 そして、時間にして半時。男は、静寂が支配するこの場所を探し回っていた。
 しかし―――
「これはどういう事だ―――? ここではなかった……というのか?」
 その男の捜す物は見あたらなかった。全く、何も……此処だったという、痕跡すら。
 ―――と、
「くくく………」
 男が突然、押し殺すように、笑った。乾いた……笑い。
「そうか」
 ついで、男はすでに雪で白くなりつつある景色の方を冷ややかに見つめ、呟いた。
「では……訊こう―――――其奴は何処だ?」
 酷く、冷たい声。何の感情も籠もっていない、無機質な声だった。
「そうか……わかった。ならば、ここに用はないということだな」
 男はそう言うと、さらに何事か呟き、腕を前に突き出す仕草をすると、素早くこの場所を去った。

「―――まさか、雪月の巫女とはな……」

 そんな、言葉を残して。



          ◆◆◆



 その日、弓達が帰ったその後も雪は降り続け、その惨劇の地を覆い隠した。
 まるでその出来事を悼み、死者を埋葬するかのように。

 今より、九年前の事である―――――



プロローグ/雪月に祈る夜・了 



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