1957/06/13 横浜の片田舎に両親の長男として生まれましたが・・・
母の胎内にいた時から大人しくて、両親共に私の事を「女の子」だと思っていたそうです。
この【晴美】と言う名前は、当時生まれる前から親に付けて貰った名前です。なのにどう間違えたのか生まれた私が♂だったので大慌てで男子名を考え直したらしいです。
幼稚園の頃 そんな私ですから、生まれながらに「女の子」としての人生を望んでいたのかも知れませんね。既にこの頃の私の遊びは”おままごと”や”人形遊び”が好きでした。動物のぬいぐるみは随分集めていた様に覚えています。
心臓の欠陥を病院で指摘されたのもこの頃です。
小学生の頃 病弱な上に心臓の欠陥を心配した親が、学校へ届け出て体育の授業を禁止されて6年間の殆どを見学で過ごしました。唯一許されたものはフォークダンスの練習とラジオ体操くらいでしょうか。
野球やサッカーなど男子の遊びも知らないで育ちましたから、自然と遊び相手は女の子ばかりになりました。
女の子に成りたい願望を自覚したのもこの頃で2年生の時と覚えています。4〜5年生の頃に付けていた日記に「女性に成りたい」、「なぜ女の子に生まれなかったのか」と願望を書き綴ったのが親に知られて大騒ぎになり、母親に連れられて1年間程の精神科通いをしました。
中学生の頃 中学へ進学してから、晴れて体育の授業も解禁となりましたけど、既に時遅しという感じで染みついた運動音痴は治りませんでした。
それどころか私の”女性化願望”が本格化したのもこの時期です。従姉のセーラー服を悪ふざけで借り受けて初めての女装を経験して、詰め襟の学生服にも強い嫌悪感を感じました。
親友(もちろん女の子です)から偶々、古着を貰い受けて親に内緒の女装が日常化したのもこの頃です。
小学校では楽しみだった家庭科の授業も、中学校では男女別々に家庭科と技術科に別れての授業が悲しくて仕方ありませんでした。
高校生の頃 中学生の時に女装して精神の安定を覚えた私は、高校生になってから益々エスカレートしていました。
周囲の友人達は異性への興味に夢中で、この頃になると数人は性交も経験して自慢げに話題にしていた人も多かった様に思います。私はと言えば自分の性に対しての疑問を益々深めた時期で恋愛には無頓着でした。

そんな私にある日、彼女との性交を自慢げに話す友人が記念に貰ったとの事で、彼女の下着を私に見せてくれました。私は男性としてでは無くて、より女性に近くなりたい気持ちでその下着を見ていましたが、つい我慢が出来なくて思い余った末に「私にも貰ってきて欲しい」旨、その友人に懇願していました。
この時に貰った友人の彼女のショーツとブラ、そして中学時代の親友(女の子の)から手に入れた古着のブラウスやスカート、ワンピースを着て初めての服装だけは完全女装の経験に満足しました。

友人達が異性に興味を惹かれている頃、私は同性の友人に恋愛感情を持ってしまいました。その彼とは長期休みの度に二人で旅行に行ったり、週末に遊んだりしてデート?のつもりで楽しく過ごしていましたけれど、彼の方はどんな思いでいたのでしょうね、私には楽しい思い出になっています。
大学生の頃 この頃になると流石に子供の頃からの女の子の友人はいなくなりました。
中学の時に古着を貰った親友(女の子)も離れ離れになり行き来が無くなってしまいました。
そんな中で高校の時に恋愛感情を持ってしまった彼とは離れ離れになるのが嫌で、不純な動機から同じ大学に通う事にしました。

この時期は大学生という事もあって、ハメを外して幾つかの事件が起きた時期でもありましたが、ここでは省略させて頂きますね。
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二十代の頃 普通の人生なら、この二十代に様々な出来事があるのでしょうね。
ところが私の二十代には、これと言って特筆すべき事は何も無い様な気がしています。もちろん、今の私が居るのですから、それなりに時を過ごして来た事に違いはなくて、新社会人、結婚という様な出来事はありました。
只ひたすらに自身の性別違和に思い悩み、でも誰にも何も打ち明けられずに貝の様に自分の殻に閉じこもっていた時を過ごしました。こんな私ですから、もちろん結婚願望などは微塵も無くて一生独身を通すつもりでいたのも確かです。

と言うよりも・・・結婚をすれば夫婦生活が待っているのは明らかで、私には”男”としての家庭での役割を持つ事に自信も無いどころか恐怖心さえ感じていました。
そんな私を両親が心配して、二十代の終わり頃に結婚を勧められました。子供の頃から殆ど親の言う事に抵抗する事のない私は、親が進める結婚の段取りに流されたまま結婚する事になりました。

今思い返せば、これが私の不幸な人生の序章だったのかも知れませんね。
三十代の頃 結婚生活に明け暮れた暗黒の時期だったと思います。

普通の家庭なら幸せと充実の三十代を過ごされる事が多いのでしょうね。ところが我が家に楽しい事は何も無かった様に思えます。
全ては私が男性としての役目を果たさなかった結果だとは思いますけれど、夜の夫婦生活さえも妻の主導で全てが妻のリードによるものでした。子供も一人出来ましたが、男性として殆ど機能出来ない私のせいで、妻の努力は並大抵のものでは無かったと思います。
妻との性交も年に数える程で、片手に余る程ではなかったかと思います。

こんな状態ですから、夫婦間も上手く行く訳がありませんよね。私はと言えば相変わらず男性としての役割が嫌で、深夜になると女性に成る事に憧れての”女装”を復活させていました。
この頃に再開した女装が今尚続いている訳ですけれど、徐々にエスカレートして化粧を始めたのもこの時期の事です。
四十代の頃 三十代後半に始めたネットで、目から鱗の状態になりました。
四十を迎えて直ぐの頃に偶々ネット上で”性同一性障害”という病名を知り、正に自分がその対象患者である事を自覚しました。

日々、夢中で該当ページを読み更けて、私と似た様な境遇の方達の多さにも驚かされました。調べる内に女性ホルモン療法やSRSの事も少しずつ知る事が出来て、多少の灯りが見えた気にもなったのがこの時期です。
併せて私と同類の”女装子”さん達のHPに出入りする様になりましたが、この時期は未だ家庭も持っていた事もあって距離は置いていた様に思います。

こんな事から私の女装にも拍車が掛かって、妻が正月や夏休みなどの長期休暇に実家へ帰った時などは一日中女装で過ごしていましたし、深夜にクルマで自宅から離れた場所へ出掛けての女装外出を始めたのもこの頃です。

ところが・・・悲劇は直ぐにやって来ました。実家へ帰省していた妻が帰宅して見つけた物、それは私が女装で使っていたロング・ヘアーのウィッグの抜け毛です。妻は私が浮気か不倫でもしているかの様に疑いを持ち、更に冷たく夫婦間は冷えて行く事になります。

そんな日常の最中に妻の携帯に不自然にメールが着信している事を感じた私は、隙を見つけて妻の携帯を調べてみました。悪い予感は的中していて、それは私の知らない男性からのメールでした。
妻に何気なく問い質したつもりでしたが、妻の開き直りは激しくて直ぐに不倫と判明しました。それにも係わらず反対に、私が先に浮気か不倫をしたかの様に逆襲に遭ってしまって例の抜け毛の事について問い質される始末でした。

私は女装の事など告白出来なくて、説明も着かずに悪者のまま妻の不倫を公認する形になってしまったのです。
結局、私が妻の性欲を全く満たせなかった反動は大きくて、妻は性欲を満たして貰える男性に引き寄せられる様にして家を出て行きました。

それから間も無くして離婚届の用紙に記入を迫られて我が家は崩壊してしまいました。
いくら上手く行っていない家庭とは言え、長年一緒に暮らした想いはそれなりにありますから、私の悲しみも深く脱力感と無念さから出社拒否状態に陥って離婚から2ヶ月後に失業まで味わう事になってしまいました。
そして今・・・ 3年前に離婚と失業を経験して、四十代半ばを過ぎた私は人生の焦りを感じています。

当時の心の傷は癒えないまま、それを引きずる様にして実家で母との二人暮らしを引き籠もり状態で過ごしています。
時折訪ねて来る親友が一人と月に1〜2度の割合で遊びに来る子供だけが世間との接点になっていて、先の見えない暗闇を人生最悪の時と思いながら過ごしています。

殆ど失うものも無いに等しい今の状態になってからは、性同一性障害の症状も強く感じる様になっていて真剣に様々な事を考え始める様になりました。
そんな或る日にネットで某MLに出逢えて、私の心の状態も幾分明るさを見つけた気持ちに成っています。
ネット上限定ではありますけれど、そこで初めてのカムアウトをしてみました。暖かい皆さんからの励ましも頂けて、中には個人的に様々な相談にも乗って下さる方に出逢えて感謝の気持ちに溢れています。

それと共に更に益々”女性に成りたい気持ち”は深まるばかりで、私の人生の大きな転機も近いと予感させられます。
今私は、真剣に女性ホルモンの投与やSRSを受ける事を考えて病院探しも始めたところです。
年齢的にも私に残された時間は多くはなくて、あと7〜8年の内に全てを決断して実施に移行しなくては成らないと思うと一層の焦りを感じます。

でも年老いた母と難しい年頃の子供に、どうしてカムアウトすべきかと考えると頭痛の種になってしまいます。
2005/03/28
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