そらいろのうた
序章 はじまりの合図
2章 展開
3章 終わりの予感
終章 そして青い空
序章 この空に響く琴の音
周りが壁に囲まれた部屋に、私と兄の空が二人きりでいた。
ベッドの上に空兄。その傍らに私・琴音。
空兄が何か言った。
でも私はずっと泣きじゃくっていた。
空兄が私の頬をなでる。
私は空兄を見つめた。
また空兄が何か言った。
私は小さく頷いた。
とても、辛い、夢だった。
ジリリリリリ……!
目覚ましの音で琴音は目を覚ました。深い眠りから急に覚めさせられて、何だか気怠い気がする。手探りで枕元の目覚まし時計を探る。ない。
そうだ、なかなか起きられないから、タンスの上に移動させたんだっけ。
目をこすりながら琴音は起きあがった。ベッドが軋み声を立てる。
「ふぁ……」
目覚まし時計を止め、やっと静寂の戻った部屋を見渡す。昨日部屋の掃除をしたばっかりだから、結構綺麗だ。
正直言ってベッドが恋しい。
「……寝直しちゃおうかな……」
甘い甘い誘惑に、ついついベッドに逆戻りしそうになる。
「駄目駄目!これで昨日も遅刻したんだから!」
今日も教室の後ろのドアをこっそり開けて入るなんて、何だか悲しいものがある。
琴音は大きく伸びをして、ハンガーに掛かった制服を取った。
そろそろ秋も近い時期なので、少し肌寒い。
冷たい肌着に首をすくめながら勢いで着替え終わった頃、丁度、一階から母親の呼ぶ声が聞こえた。
「琴音!琴音!!ご飯よ!起きなさい!!」
「はーい、起きてる!!」
琴音は怒鳴り返すと鞄を持って下に降りた。今日はゆっくりご飯を食べる時間があって嬉しい。
一階へ下りると、そこにはすでに兄の空がいた。ダイニングの椅子に座って、バターを塗ったパンを食べているところだった。
「お早う、琴音。珍しく早いね。今日は遅刻しなそうだね」
くすくす笑いながら兄が朝の挨拶をすると、妹はムッとして言い返した。
「私だって早々遅刻してるわけじゃないもん。失礼ね!」
「ごめんごめん。昨日と一昨日とその前だけだよな」
「……!!」
琴音が睨むと、空はくすくす笑って立ち上がった。
「ごちそうさま。今日は練習があって遅くなるから夕飯はいらない」
「気を付けてね」
母親がパンを持ってきながらそう言うと、空は玄関に向かいながら片手を上げて応えた。
「もう……!空兄ったらひどいよ。お母さんにばらすなんて……」
「まったく、琴音ったら……。だから言ったでしょ、早く寝なさいって」
「だって……」
琴音は小さく頬を膨らませた。
「だってじゃありません。すこしは空を見習いなさい」
「……はーい」
このまま行くとお説教になりそうなので、琴音は素直に返事をした。
椅子に座り、母から受け取ったパンをかじりつつ、琴音はふと今日の夢を思い出していた。
余りよく覚えていないけど、嫌な、悲しい夢だったような気がする……。
三ツ木 琴音。16才。深山高校1年生。
琴音は6才離れた兄のことを思いだしていた。
三ツ木 空。22才。深山大学4年生。
琴音はお兄ちゃん子だった。昔は両親が共働きで、家にいるのは大抵空と琴音だけで、毎日一緒に遊んでいた。ずっと一緒の部屋だったのが、小学校に入った頃に別々になったときに、琴音は母親にくってかかった。「なんで!?」と。
空がそう望んで別々の部屋になったのだと母親に聞かされ、「お兄ちゃんに嫌われたんだ」と一ヶ月くらい沈んだ記憶がある。
でも雷の日は一緒に寝てくれた。雨の日は迎えに来てくれた。夜道を歩くときは電話すればいつでも迎えに来てくれ、琴音は自負していた。お兄ちゃんが一番大切なのは自分なんだ、と。
今、兄は深山大学の普通科に通っている。外見からはそうは見えないが、心臓に持病があるため、激しい運動は医者から止められていた。
だから、大学に入ってすぐ、幼なじみである相良澪と、大学で出来た友達の遠城草一に誘われ、バンド活動をし出したときははっきり言ってびっくりした。
もちろん両親は大反対をした。母は泣き出した。
それでも兄はがんとして意見を変えなかった。「俺は、自分の存在意義を確かめたい」そう言って。
琴音は心配して空の部屋に行って止めたが、優しい兄は今回だけは言うことを聞いてくれなかった。
それから3年。両親も少しずつ、兄のバンドを認め始め、今では練習に行く兄にお弁当を持たせてやるまでになった。それでもたまに兄がバンドをやってる最中に倒れることがあって、その時はまた口々にバンドを辞めろと説得する。しかし兄は聞かない。その繰り返しだ。
ふと、琴音は思い立った。
「あれ、お母さん、今日は空兄にお弁当作ってないの?」
「ああ、今日はみんなで澪ちゃんちに寄るんだって」
「そうなんだ」
幼なじみの相良澪は、ほんの2件隣の家の人だ。昔からあの二人は仲が良く、一時期付き合っているとの噂もあった。最近はそれに遠城草一も加わり、琴音は疎外感この上ない。
「いいなー。空兄は。バンド活動楽しそうで」
兄のバンドはTRICK・OUTと言って、兄がボーカル、相良澪がキーボード、遠城草一がドラムと言った三人バンドだ。最近じゃ結構人気も出てきて、ファンの女の子が出待ちしていたりもする。その場合大抵お目当てはボーカルでルックスもいい空なのだ。
「あんたはしちゃ駄目よ」
母親は怖い顔で言った。空がバンド活動をやることに相当やきもきしているのであろう。琴音は首をすくめた。
「やらないよっ。歌下手だもん」
そう言って、琴音は席を立った。
「ごちそうさま、奈月が待ってるからもう行くね」
「はいはい、気を付けてね」
母親は琴音には心配する言葉もおざなりである。琴音は唇をとがらせて、鞄を持った。
「行って来まーす」
8時10分。これなら余裕で間に合う。
そう思ってゆっくりと玄関から外へ出た。
ピーンポーン。
石井と書かれた表札の下にあるチャイムを押すとすぐに家から奈月が出てきた。
「おはよ、琴音」
「おはよー、奈月」
「今日は遅刻しないのね」
「……お願いそれを言わないで」
琴音は情けない笑顔で言った。奈月は、ふふ、と笑う。
琴音の家から学校まで15分。奈月の家からは10分。学校への行く途中の道に奈月の家があるので、琴音はたいてい奈月と一緒に登校する。
しかし琴音はけっこう寝坊するので、待っても来ないときは奈月は先に行くことにしている。
行動派の琴音に比べ、奈月はおっとりとした性格なので、二人はうまくいっていた。
歩きながら、昨日のテレビや今日の宿題の話をしていると、突然奈月は「あ!」と大声を上げた。
「ど、どうしたの?」
琴音が聞くと、奈月は目を輝かせながら言った。
「そうだ、頼んでおいたTRICK・OUTのチケット、貰えた!?」
「あ」
琴音は口を開けた。その様子を見て、奈月は拗ねたように琴音を見つめた。
「ひどい、忘れてたのね」
「ご、ごめんね奈月。昨日お兄ちゃんに言うの忘れてた。敦也から電話があって……。……あ」
二重に墓穴を掘ったようである。
奈月は更に拗ねたように唇をとがらせた。
「金田くんに夢中だった訳ね……」
「だからごめんって!」
金田 敦也。いわゆる、琴音の彼氏である。
今はフリーターをしながら、バンド活動に勤しんでいる。レッド・ソースと言う結構売れているバンドで、ギターをやっているのだ。
3ヶ月前、兄のバンドへ行ったとき、偶然席が隣で知り合ったのだ。
「明日は必ず持ってくるから!許して!」
琴音が両手を合わせて拝むまねをすると、奈月は苦笑して頷いた。
「わかったわ。毎回いい席貰ってるんだもの。ただし明日は絶対ね!!最近TRICK・OUTのチケットが手に入りづらくなってきて……困ってるのよね。インディーズの中では赤丸急上昇中だもの……」
「そうなんだ」
琴音は目を丸くした。この前、最近元が取れるようになったと遠城さんが笑いながら言っていたが、そんなに売れているとは知らなかった。
そんな話をしているうちに、二人は学校に着き、始業前の一時をまた他愛のないおしゃべりに費やすのだった……。
キーンコーンカーンコーン……。
一時間目が始まった。琴音の苦手な化学である。金曜であり週末の一時間目。はっきり言ってやる気がない。
琴音はあくびをかみ殺した。昨日は一時近くまで敦也……金田敦也としゃべっていた。最近ずっとそうなので、琴音は寝不足だ。
敦也と付き合い始めたのはおよそ一ヶ月前のことだ。空兄のライブで会ってから、たまに一緒に出かけるようになり、しばらくして告白された。
男と付き合うのが初めての琴音は毎日が新鮮で、とっても楽しい。
おかげで勉強など全く身が入らない。……というのは口実で、今までも結構身に入ってはいなかった。
「あふ……」
もうだめだ、眠い……。
琴音は諦めて意識を放棄した。
机に伏せて、眠る体制を取る。化学の先生は50才を超えた白髪の老人で、授業中眠っていても怒らない先生だ。回りも死屍累々である。そんな中、右斜め前の奈月だけはしっかり前を見て、授業を受けていた。
ゴメン、奈月!後でノート見せて!
そう心の中で手を合わせて、琴音は眠りの底に引き込まれていった。
「琴音……。琴音ったら!」
小さく揺さぶられ、琴音は目を覚ました。するとすぐ側に奈月の困ったような顔があった。
「もう、2時間目始まるよ!次は英語のたかのんだから、寝てると怖いよ!」
琴音は慌てて、とび起きた。英語の高野先生は授業中とっても厳しく寝てると起こされる。そして、怒られる。
琴音がおきてすぐ、高野先生が入ってきた。間一髪。
「ありがと、奈月!」
小声で礼を言うと、奈月はウィンクを返してきた。
そんなこんなで奈月に起こされつつ、琴音は今日はずっとぼうっとして過ごしたのだった。
「ただいまー」
すごくやる気のない声を出しつつ、琴音は玄関のドアを開けた。
ね、眠い……。
帰ってすぐ寝ようと思っていた琴音は鞄を玄関において階段を駆け上がった。
お母さんにいつも「きちんと片づけなさい!」と怒られるのだが、どうも癖のようで、鞄は下に放ってしまう。
階段を上がると、ドアが閉まる音がして、登り切ったところで空とばったりあった。
「どうしたの空兄。忘れ物?」
「ん。歌詞カードを忘れたんだ」
空は微笑んだ。
「琴音は眠そうだな」
「んー。……眠いよ。寝るよ」
「おやすみ」
空はそっと、琴音の頭に手をのせて、階段を下りていった。
そんな空を見送って琴音は部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。
……お休みなさい。
……起きると、夕方だった。
お母さんはもう帰ってきているようで、一階から料理している音が聞こえる。
琴音は寝ぼけ眼で降りていった。
「おなか空いた……」
「あら、お早う、琴音。起きたの?顔洗ってらっしゃい」
「んー……」
洗面所で顔を洗うと、幾分かすっきりした。
改めて台所に行くと、お母さんが何やら大きめな重箱を包んでいた。
「なに、それ?」
琴音が聞くと、縛り終わったお母さんは、それを「はい」と琴音に渡した。
「え!?何これ!」
「あんたの今日の夕飯」
母親はしれっとして言った。驚く琴音。
「なんでおべんとうなの!?」
「お母さん今日ね、これからお父さんと石井さん夫婦と温泉に行くの」
「うそ!もう暗いよ!」
「ホントは昼行って、夜には帰る予定だったんだけど、石井さんの旦那さんが昼に急に仕事が入っちゃってね、今から行くことにしたの。一泊二日で」
琴音はあまりのことにあんぐりと口を開けていた。
母親は意に介さず、てきぱきと用意を済ませている。
「おみやげ買ってくるから」
母親がにっこり笑って言った。琴音は力無く首を振った。
「いらないから早く帰ってきてね……」
何しろ琴音は全く何も出来ない。掃除と、皿洗いくらいしかできないのだ。食事も作れず、洗濯もしたことがない。
放っておかれたら最後、間違いなく死ぬかも。琴音はそう思った。
「携帯電話を持っていくから、何かあったら電話してね。特に、空に何かあったらすぐ言うのよ」
離れてもやっぱり空のことは心配なのだ。琴音は頷いた。
「じゃ、行って来るから。寂しかったら奈月ちゃん呼んで泊まって貰ったら?」
そう言い於いて、母親は出かけていった。
琴音は呆然と見送っていた。
いきなり置いて行かれるとは思っても見なかった。とりあえず、奈月に連絡しよう。
そう思って、琴音は電話を取った。
もはや暗記している奈月の電話番号を押し、お互いの境遇を確認した上で、琴音の家に奈月が来ることになった。
「まさかいきなり置いて行かれるとは思っても見なかったよ」
琴音は苦笑して言うと、奈月も頷いた。
「ね。うちの親は放任主義だから、このまま一ヶ月くらい帰ってこなくても納得できるけど、琴音んちのお母さん達まで行くのって珍しいよね」
「……とりあえずおなか空いたし、ご飯でも食べる?」
「あ、うん!ごめんね私手ぶらで来ちゃって……」
「いいっていいって。二人分以上あるから」
実際琴音の母が作っていった重箱のでかさを見ると、二人分どころか悠に四、五人分ありそうだ。
奈月が首を傾げた。
「あ、空さんが帰ってくるのっていつ?待ってようよ」
「空兄は今日夕飯いらないらしいから、いいんじゃないかな」
「なんで?」
奈月はあからさまにがっかりした顔だ。
TRICK・OUTのボーカルと食べられると思ったのだろう。琴音はクスリと笑った。
「なんか、澪さんのうちに食べに行くって言ってたよ」
「相良澪の手料理?」
「うん。澪さん、一人暮らしらしいし」
「空さんだけで?」
琴音は更にくすくす笑って言った。
「違うよー。遠城さんも一緒だよ。やだな、何考えてるの?」
「だって二人って怪しいじゃない」
奈月は自分の顎に手を当てて、考えるようなそぶりを見せた。
「あの二人付き合っているんじゃないかなーってよく思ったのよ。ライブ中もよく澪さんが空さんにしなだれかかるし」
「演出だって」
琴音はとうとう吹き出した。空兄を見ている限り、そんなことは全くないだろうと思った。昔から空兄は、女の人に興味が無いと言うか、積極的に関わろうとはしていなかった。
だから、そんなことない、と琴音は言い切ったのだ。
……そんなの嫌だと言う思いが胸の裏にあったのかもしれないが。
「じゃぁ、行ってみる?澪さんの家」
琴音はいたずらっぽく笑った。
奈月は目を見開いて聞いた。
「え!嘘!?」
「空兄に電話してみるよ。ここにこんなにおかずがあることだし、一緒に食べないって誘ってみる」
言うが早いか琴音は受話器を取り上げた。兄の携帯電話の番号を押してみる。
トゥルルルル、トゥルルルル。
二度ほど鳴ってからカチャ、という音がして繋がった。
『もしもし?』
「あ、空兄?私、琴音だよ。今電話大丈夫?」
『ああ。澪の家だから。どうした。何か、あったのか?』
空兄の優しい声が聞こえる。
琴音は首を振った。
「ううん、あのね、良ければ私と奈月も澪さんの家で一緒に夕飯食べたいなーって思って。駄目?」
電話の向こうで驚いたような気配がした。
『それはかまわないけど、なんでいきなり。母さんは何ていってる?』
「なんにも。だっていないもん」
『??町内会か何かか?』
「……奈月のご両親と一緒に温泉行っちゃった……」
電話の向こうでしばし沈黙が降りて、次の瞬間空と遠城の吹き出すような笑い声が聞こえた。
「ちょっと、笑わないでよ!空兄ってば!」
『あはは、ごめんごめん。石井さんのやりそうなことだなと思って。母さん達も行くなんて珍しいけど、最近あの夫婦と仲いいし、つられちゃったんだな。』
「うん、だから今奈月と二人っきりなの。ご飯は大勢で食べた方がいいでしょ?一緒に食べたいな」
『ああ。いいよ、おいで。ただあんまりご飯がないかもしれないな。澪、どうだ?』
琴音は慌てて否定した。
「大丈夫、ご飯だけはお母さんがいっぱい作っていってくれたから。それ持っていくよ」
『じゃあ、ちょっとすぐ戻るから待ってろ。』
「え?なんで?また忘れ物?」
『……。いや、もう夜遅いから心配なだけ。すぐ行くから待ってろよ。』
「いいって。……あ」
切れちゃった、とつぶやく琴音。奈月は嬉しそうに頬を染めた。
「すごい、いいな、優しいね、空さんって!わざわざ迎えに来てくれるんでしょ?でも、TRICK・OUTのみんなとご飯出来るんだ!嬉しい!!」
見るからに狂喜乱舞という様子に、琴音はちょっと呆れたように言った。
「いや、空兄も澪さんもそんな、普通の人と変わりがないよ。そんなに喜ぶほどのことじゃないような気がするんだけど……」
「琴音は分かってない!!」
奈月は琴音に指を突きつけた。思わずのけぞる琴音。
「澪さんなんて大学じゃ、ファンクラブまでいるのよ!!遠城さんはあのルックスだし、今まで何人もの女の子と付き合ってきたけど、本気になった人はいないみたいだし、空さんなんかもう、もてない方がおかしいわよ!はっきり言って琴音の兄が空さんだって知ったとき、私倒れそうだったんだから!!」
奈月と琴音は高校に入って知り合ったのだが、出会ってすぐ急速に仲良くなり、春のうちには琴音の家に奈月が、奈月の家に琴音が、遊びに行ったり泊まりに言ったりするようになっていた。
空はバンド活動のため、あまり家に帰ってこないのだが、奈月が遊びに来た三回目くらいのとき偶然廊下で出会って、あまりのショックに目が落ちそうなほど目を見開いていた。
一年前から相当のファンらしい。
本当に倒れるかと思った琴音が空を追いやると、奈月はやっと復活した。
『ななななにあれ!!嘘!空だ!!TRICK・OUTの空じゃない!!?』
『そうだよ、知ってたんだ?TRICK・OUT。』
『当たり前でしょ!!きゃー、もう、夢なの!?』
その後はひたすら興奮して手が付けられなかった。
それから半年近くたった今でも、空に会うととたん緊張で大興奮する奈月を琴音は不思議な顔で眺めていたものだ。
そんなに大好きなものを持つ気持ちってどんなだろう?
琴音はそう思う。
今まで、漫画にも芸能人にも全く興味がなかった琴音は、そこまで興奮したようなことがなかった気がする。
それってすごくつまんない人生なんだろうな。
琴音は自分を振り返ってそう思った。
ガチャッ。
玄関のドアが開く音がする。
「ただいま」
「空さんっ!」
奈月がダッシュで玄関に走る。は、速い。
前に聞いたら「命かけてるから」と笑っていたが、ほんとに命かかってるような気がしてきた。
「おかえりー空兄」
命のかかってない琴音はのんびりと玄関まで出迎える。
空は靴を脱ぎながらにっこり微笑んだ。
「ああ、ただいま、琴音。いらっしゃい奈月ちゃん」
奈月はにこにこしている。笑顔が一つ百円だとしたらすでに空兄は一万円以上は払わなくちゃだな。そう思いつつ琴音は台所へ行って重箱を持ってきた。重い。
何も言わず空は琴音の手からそれを受け取った。
「あ」
持てるよ、と言おうとして、空が優しく微笑んでいるのを見て言葉を引っ込めた。空は決してそれを琴音に持たせようとはしないだろう。
お礼代わりにちょっと笑って、琴音は玄関の靴箱から靴を取り出した。
「行こう、奈月、空兄」
奈月は空に見とれている。
琴音は苦笑して声をかけた。
「先行っちゃうよ」
「あ、うん。行く行く」
奈月が慌てて靴を履く。続いて空。
玄関を出ると、外は少しひんやりしていた。
ここから澪の家まで約三分程。
予想通り奈月は浮かれていた。空は黙っている。黙って、夜空を見上げていた。
琴音はふと心配になって空を振り返った。
「空兄、もしかして行かない方が良かった?」
「……いや、そんなことないよ」
「でもなんか、顔が困ってるよ。迷惑だったの?」
空は首を振った。
「いや、違うよ。……ただ」
更に困ったように空は言う。
「遠城がもうできあがっているから……。ちょっと心配でね。お前はともかく、奈月ちゃんに手を出したりしないかなって」
「お前はともかくってどういう意味よ!」
琴音がふくれると、空はからかうように言った。
「遠城は面食いだからな」
「……空兄!!」
琴音は眉をつり上げた。言外に可愛くないって言ってるようなものだ。
当の奈月は「遠城さんなら襲われても良いかも……」と呟いていた。
ふん、と空から顔を背けて、琴音は澪の家に小走りに駆けていった。
後ろで空が小さく笑う声がする。くやしい。
いつも空は琴音をからかう。可愛がっているんだろうが琴音には腹ただしいやら悔しいやら。
むくれた顔のまま琴音は澪の家のチャイムを鳴らした。
ピーンポーン。
家の中から「ハーイ」という声と、何かが走ってくる音がした。
ドアが開いて、中から澪の優しい笑顔が出てきた。
「いらっしゃい、琴音ちゃん」
「こんばんは、澪さん。夜遅くゴメンナサイ」
澪はにっこり微笑んだ。
「いいのよ、何なら泊まっていったら?一人じゃ寂しいでしょ?」
「ありがとう、澪さん。でも奈月がいるから大丈夫」
琴音は笑った。澪は家の中に招き入れようと、少し身を避けると、その隙間にすごい勢いで男の人が飛び込んできた。
「きゃっ!」
琴音は小さく悲鳴を上げた。
その男の人は遠城さんだった。
「いらっしゃーい!琴音ちゃん!待ってたよ!女っ気が無くて困っていたんだよ!」
と、遠城が言うが早いか、澪はその頭を殴りつけた。
「私は女だ」
「いててて……。あれ、そうだっけ?」
へらへら笑う遠城に、澪がもう一発入れる。痛そう。
「遠城さん……。できあがってますね」
「だから言ったろ」
後ろから空の声が聞こえた。
振り返ると空と奈月がすぐ後ろにいた。
琴音をそっと押しのけ、澪に重箱を渡す。
そして、遠城の片腕をつかんで、起きあがらせた。
「居間に連れて行くよ」
と、苦笑混じりに澪に断って、遠城の身を支えながら家の奥へと消えていった。
その姿が消えると、澪は二人を招き入れた。
「さあ、上がって。ごめんね、酔っぱらいがいるけど、邪魔だったら三枚に畳んで押入に突っ込むから」
笑顔でさらりと言う。
「今は居間しか食事できるところがないの。ついさっきまでそこで飲んでいたから、ちょっと散らかっているけど勘弁してね」
琴音と奈月は、上がりこんだ。居間にはいると、確かに少し酒臭い。
ひんやりとした風が流れ込み、窓の側のカーテンが揺れている。
「少し換気したんだけど、まだ酒臭いかな。ごめんな」
眉を寄せる琴音を見て、空が謝る。
「大丈夫、我慢できる範囲だよ。それにビールがないからそんなに嫌なにおいじゃないもの」
琴音はビールの苦い匂いが大嫌いだ。それを飲んだ酔っぱらいが絡もうものなら、本気で嫌になる。
「みんなビールが嫌いなのよ。だから、チューハイや焼酎割りにしてるの」
澪はおっとり微笑んだ。
「でも、二人はまだ駄目よ。ジュースを出すわね」
はあい、と返事をしつつ琴音は残念に思った。
ビールはあまり飲みたくないけど、ジュースのようなお酒なら飲んでも良いかな、と思っていたからだ。
重箱を居間のテーブルの上に載せ、包みを開けると中から色とりどりの食材が出てきた。おむすび、唐揚げ、ウィンナー、卵焼き、サラダにスパゲティー……。
「まるで遠足だな」
空が言うと、琴音ははっと気付いた。
「ああ、わかった!これ、もしかしたら昼ご飯として石井さんと食べるつもりだったんじゃないの?それが石井さんの都合で急に夜になったから旅館に泊まることになって、用意したこれがいらなくなったんだ」
それで四人前用意したのか、と琴音は納得した。
「何だか申し訳ないね。うちの親のせいで……」
奈月が恐縮して言う。
空は微笑んで首を振った。
「大丈夫、そんなことないよ。母さん達は最近石井さん夫妻と付き合うようになってから、あまり物事を悲観的に考えなくなったんだ。おかげで最近は外泊しても、バンドに行ってもそんなに過保護に干渉しなくなった。ありがとう。君達のおかげだよ」
空は嬉しそうにそう言うと、奈月はポッと頬を赤らめた。
「そうそう、おかげでこんなにおいしそうな夕飯が食べられるんだしね」
琴音もそう言うと、奈月は頷いた。そして琴音は我慢できかねたように重箱に手を伸ばす。
「食べよっか、おなか空いちゃった」
和やかに夕飯が始まった。
琴音と奈月はご飯に集中して食べ、空と澪はお酒を飲みつつたまに重箱をつまんだ。
遠城はソファに横になっていたが、目が覚めると、お茶を飲んだり、トイレに行ったり、奈月にからんで澪さんにどつかれたりしていた。
奈月は終始ご機嫌だった。澪はいつも通り穏やかで、遠城さんはいつも通りはしゃいでいた。
あ、と思いだして琴音は空の隣に座ると、空が琴音の頭をなでて優しく「どうした?」と聞いた。
「あのさ、空兄。次のライブっていつ?席を一個欲しいんだけど」
空はちょっと驚いたように言った。
「珍しいね、琴音が来るのも。三カ月ぶりだね」
「ううん、私じゃないの。奈月が行きたいって言うから……駄目?」
空は微笑んだ。
「いいや、大歓迎だよ。一つで良いなら空きがあるから」
「やった、空兄、ありがと!!」
そこに遠城が口を挟んだ。
「琴音ちゃんは来ないの?琴音ちゃんが来ると、空がすげえ張り切るから、大歓迎なんだけどな」
琴音が空を見ると、空は「そんなでもないよ」と肩をすくめた。
「うーん、私はいいです。バンドって、なんか耳がおかしくなっちゃいそうで」
違いないや、と遠城は笑った。
「琴音は金田くんのライブにばっか行ってるからね」
いたずらっぽく奈月がばらした。この雰囲気に酔っているようだ。
「うわ、馬鹿……!」
琴音は首をすくめた。
空が隣で小さく身動ぎしたのには気付かずに。
「ああ……。レッド・ソースの?」
澪が思いだして言った。
「ギターの人でしょ。もしかして……琴音ちゃん」
「付き合ってるんですよ」
奈月がばらす。
琴音は心の中で奈月を罵倒した。
「そうなんだ……」澪は驚いて、目をちょっと開いた。その視線は、琴音ではなく隣の空に注がれている。
隣に座っていた空がいきなり立ち上がると、澪に向かって「氷を取ってくるよ」と言い置き、居間を出ていった。
澪は「あ、案内するわ」とついて行く。
空は昔から何度もここに来ているので、勝手知ったる他人の家だと思うのに、何でだろう?
そう思いつつ、二人がいないうちに琴音は奈月をどついた。
「こら!奈月!!勝手に人の秘密をばらすな!!」
「ご、ごめんごめん!つい……」
奈月はTRICK・OUTのみんなと一緒におしゃべりできてすっかり浮かれている。
「つい、じゃなーい!」
「ごめんなさいー!え、でも、琴音、誰にもそれ言ってなかったの?」
「……まあ、奈月が最初に言った人だからね」
琴音は憮然としている。
奈月は両手を会わせてひたすら謝った。
「ほんとごめん、私、浮かれすぎちゃったみたい。もう言わないから!」
「ほんとよ!」
琴音はため息をついて念を押した。
奈月はこくこく頷く。
「でもなんで?空さんが怒るとかあるの?」
「それはないと思うけど……」
琴音は首を振った。
「だって、敦也に引き合わせてくれたの空兄だもん。頑張れよって応援してくれたし」
しかし、結果報告はしていない。
何だか照れくさくて言えなかったのだ。
「空さんて、恋人とかいないの?」
奈月は興味津々の顔で聞くと琴音は首を傾げた。
「知らない。いままでうちに連れてきた人って、澪さんとあと数人しかいないし、誰も恋人って紹介してくれなかったな。澪さん以外は一回きりしか来なかったし……」
「じゃあやっぱり澪さんと……?」
奈月はどうしてもあの二人の関係が気になるようだ。更に言うと、氷を取りに行ってくるにしては、なかなか帰ってこない。
「そんな訳はなーいです!!」
突然遠城が話に入ってきた。
驚く高校生二人組。
「空くんはねー、澪のことは友達としか見てないよー。重大な事実が、あるのだぁ!」
ソファに寝転がりながら、酔っぱらい独特の大きな声で叫ぶ。
「重大な事実って……、誰か他に恋人がいるのですか?」
奈月が尋ねると、遠城はへらへら笑った。
「ひーみーつー!空はなぁ、怒ると怖いのだ!声が氷点下まで下がるんだ!俺はそれが怖い!なー、奈月ちゃん」
にっこりと(へらへらと言うべきか)奈月に笑いかけると、奈月はポッと顔を朱に染めた。
「可愛いなー、やっぱり。澪の怖い顔と全然違うよなー」
「……それはこんな顔か?」
絶対零度のオーラを放ちつつ、琴音の後ろから声がかかる。澪の声だ。
後ろを振り向けずに琴音は固まった。
そんな澪をまともに見たであろう遠城は凍りついた。
「ははは、遠城クン。おしゃべりは嫌われるぞ」
声だけは笑顔で、澪は遠城に言い放った。そのまま凍ったままの遠城の襟首をつかむとずるずると部屋の隅に引っ張っていき、そのまま押入に放り込んだ。
「ふう、すっきり!」
晴れがましい笑顔で手を叩く澪に、琴音と奈月は二人して声がなかった。
「み……澪さ……」
やっとの事で声を絞り出す琴音に澪は「何かしら?」と微笑んだ。
激しく引いた。あえて遠城のことには触れずに、聞いてみた。
「空兄……お兄ちゃんは、どうしたんですか?なかなか戻ってこないけど」
「あ……ああ。えっと、氷がなかったからコンビニまで買いに行って貰ってるの。しばらくしたら戻るわよ」
澪はなぜかちょっと慌てていた。
「ならいいんですけど……」
しばらくぎこちない沈黙が降りた。
押入で何かがしくしく泣いている声が聞こえる気がする。
「澪さ……」
「琴音ちゃん……」
覚悟を決めて琴音が遠城さんを出してあげて、と言おうとすると、澪も何か言おうとして声が重なってしまった。
「あ、どうぞ、お先に」
「あら、ゴメンね」
琴音が譲ると、澪は微笑んで続けた。
「大したことじゃぁないんだけど、琴音ちゃん、いつからレッド・ソースのギターと付き合っているの?」
「え!?」
本当に意外なことを聞かれ、琴音は戸惑いと焦りで赤くなった。
「いえ、えと……一ヶ月くらい前から……デス」
「これもただの好奇心なんだけど……」
澪はそう言ったくせに真剣な瞳で琴音を見た。
「その人のこと、本当に好きで付き合ったの?愛して……るの?」
「……」
琴音はあんぐり口を開けた。正直言って澪がそんな事を聞くのは初めてだった。
「あ、愛……?」
くすぐったい言葉だ。敦也の事が好きで、告白されて嬉しくて……でもまだキスすらしてないのに、愛!?
「イヤ……よく分からないんですけど、なんでまたいきなりそんなことを?」
澪は困ったように苦笑いした。
「いや、その、ね。昔から仲良しの琴音ちゃんが、変な男に引っかかっていたら嫌だなあって思ってね。ほんとにたいして深い意味はないから!」
「……敦也はそんなに変な男じゃないですよ。空兄も応援してくれるくらいだから」
いぶかしげに琴音がそう言うと、澪は目に見えて表情を暗くした。
変なの。そんな表情で琴音が澪を見ると、玄関でチャイムの音がした。
「あ、空だわ!」
慌てて玄関に行く澪。その瞳にうっすら何か光るようなものがあった気がして琴音は驚いた。
「澪……さん?」
しかし、空と一緒に戻ってきた澪の目には光るものなど無かった。
気のせいかと思って、琴音は目をこすった。
「ただいま、遅くなってゴメン。……どうした、琴音?おねむの時間か?」
空がいつものように琴音をからかう。
眠くはないのだが、もう十一時を回っている。確かに人の家にいていい時間を過ぎているかもしれない。
「そんな訳じゃないんだけど、もうこんな時間だし、帰らなきゃ。奈月、起きて」
奈月は琴音が澪と話しているうちに眠くなったのか、ソファでうとうとしていた。
「う……ん。ごめん、眠くって。最近ずっと遅くまで起きていたから……」
「奈月も?じゃあ帰ろうよ」
琴音は奈月に手を貸して起こした。
「もう帰るの?残念だわ」
澪は慌てたような、残念そうな複雑な顔で言った。玄関まで見送りに来る。
「空兄は?」
「うちに泊まっていくわ」
澪はさらりと言った。琴音の胸が、チリリと痛む。
まだ兄離れできそうにないみたいで、自然と眉が寄っていたかもしれない。
すると澪は嬉しそうににっこり笑った。
「大丈夫よ、遠城もいるんだから」
「あ、そ、そうですよね。あは、じゃあ、澪さん、お邪魔しました。お休みなさい」
自分の気持ちがバレバレのようで、琴音は何だか照れくさかった。
「おじゃましました……」
奈月はまだぼーっとしている。
「また来てね」
澪は微笑んだ。
月が、煌々と辺りを照らしながら、空に浮かんでいた。
なにかを、琴音は何かを忘れている気がしてならなかった。
押入では一人の男が泣いていた。
帰ってすぐ、奈月は眠たがってベットに潜り込んだ。
琴音も、すぐ下に布団を敷いて、寝ようと体を横にした。
しばらく、二人の息づかいだけが聞こえる。
静寂が、辺りを支配していた。
「……琴音、起きてる?」
「……なぁに……」
半分眠りかけたところなのに、と琴音は返事をした。
「……ごめん、琴音。さっき……」
「何?今日のこと……?気にしてないよ……」
「……だったらいいんだけど、ごめんね」
「ん……」
そういうと、また沈黙が降りた。
そういえば、今日はまだ敦也から電話が来てない。出かけているうちに来たのかな……・・。
そんな事を思いながら琴音は今度こそ、眠りの中に落ちていった。
朝、寝起きの悪い琴音は奈月に起こされて目が覚めた。
ダイニングテーブルにつくと、奈月が食事の準備をしてくれた。
「すごい、奈月!料理できるんだ!」
たいしたことないよ、と笑って、奈月は皿を並べる。
朝ご飯はパンに、ジャム、目玉焼きに野菜の炒め物だった。
「空さんのぶんはどうするの?」
「いいんじゃない?……・・澪さんが作るでしょ。おいしいらしいよ。最近空兄、澪さんちにばっか行ってるもん。練習が忙しいんだって。防音施設、澪さんちかスタジオにしかないからさ」
正直、琴音はあまり楽しくない。昔はずっと、日曜日ごとにかまってくれたのに、最近はめっきり二人で遊ぶことも減っていた。
特にここ一ヶ月、琴音が敦也に夢中になっているという事も差し引いても、一緒にいた時間は相当少ないはずである。
「そうね、TRICK・OUTも今、大変そうだものね」
「なんで?」
琴音がきょとんとして聞くと、奈月は呆れたように肩をすくめた。
「クリスタル・フェスタが近いじゃない!大変なのはTRICK・OUTだけじゃなくて、レッド・ソースもよ?」
「……・・??なんで?」
全く意味が分からない。奈月はため息をついた。
「クリスタル・フェスタで毎年ライブやるでしょ?それのトリを誰にするかどうかの選抜ライブが来週あるじゃない。多分今年はTRICK・OUTが取るわよ」
「そ、そうなの?」
初耳だ。というか普通の人は知らない情報だと思う。前々から奈月は、バンド活動に関して詳しかったが、よくそんな情報入ってくるものだと思う。
「何でそんなこと知ってるの?奈月?」
奈月は片眉を上げていった。
「普通でしょ?ていうか、彼氏がレッド・ソースで、兄がTRICK・OUTなのに琴音が知らないとは思わなかったわよ」
「あう」
言われてみるとそうかもしれない。敦也とは最近あったことやら他愛のないことばっかり話をしてて、バンドの話は めったにしない。最近伸び悩んでいるようで、話したくないそうである。琴音もそんな敦也に気をつかって他愛のない話しかしないのだ。
「それと今日、インディーズチェックの発売日よ。まず間違いなくTRICK・OUTは載ってるわよ」
「……・・。奈月。私たまにあなたの情報網が恐ろしい……・・」
奈月はくすくす笑った。
「ま、インディーズファンなら普通の情報だから。……・・ごちそうさま」
奈月は両手を合わせてごちそうさまをした。
琴音も箸を置く。
「ごちそうさま。奈月は今日予定あるの?無ければ一緒に買い物行かない?」
「……・・本当にごめんね、きょうはちょっと用事があるの」
奈月は申し訳なさそうに言った。
琴音は残念そうに頷いた。
「そっか、じゃあしょうがないね」
食器を片づけると、早々に奈月が帰ってしまい、琴音は一人で暇をもてあました。
「うう、暇だよ。……・・敦也に電話してみよう」
ところが、敦也の携帯の電源は入ってなかったようで、機械が無情に「おかけになった電話は電波が届かないところにいるか、電源が入っていません」と言い放つ。
「うううー」
あまりに暇なので、琴音は近所のコンビニに出かけた。
お菓子と雑誌を買うと、帰り際に「インディーズチェック」という雑誌が出ているのに気付いた。
「奈月が言っていたやつだ」
琴音はそれをレジに持っていった。茶髪のお兄さんが愛想のない声で「825円です」と言う。
琴音は千円札を払って、お釣りを受け取った。
早速家に帰って読んでみると、確かにTRICK・OUTもレッド・ソースも載っていた。ほかにもいろいろ、ビジュアル系やら、全く知らない人たちが多く載っていた。
そのなかで、TRICK・OUTはインディーズのなかでも、「赤丸急上昇!これは買いだ!」というコーナーのトップを飾っていた。
レッド・ソースは真ん中あたりに載っている。琴音は両方読んでみた。
TRICK・OUT……・・リーダー兼ドラムのSOUICHI、キーボードのMIO、ボーカルのSORAの三人が三年前に立ち上げたユニットである。ドラムのSOUICHIはその神業的リズムセンスで、幻想的な空間を作り出す。キーボードのMIOの実力は平凡ながら、ボーカルのSORAの歌に曲を付けていて、それはすばらしいセンスがある。注目すべきはボーカル、SORA。命を振り絞るような声量、そして、その透明な声に酔いしれるファンも多いとか。
はっきり言って二重丸だ。あとは伸びるばかりのお買い得品である。最新のシングル「罪人」はお気に入りの一曲!! オススメ度、☆☆☆☆☆
レッド・ソース……・・一年前までは伸び続けるばかりだったが、一年前、ボーカルのレイナが脱退してからはあまり思わしくない様子。新しくユメミという女性ボーカルをミッドフェアーから引き抜いたはいいが、最近どうもマンネリ化している。ここらで一発前のように魂が震えるほどの新曲を出して欲しいものだ。オススメ度、☆☆☆
レッド・ソースは結構さんざんな事を書かれている。琴音はむっとした。
ところが、TRICK・OUTは相当褒められている。写真を見てみると、ライブ中の写真のようだ。写真の中で歌っている空も、微笑んでいる空も、別の人のような気がする。
琴音がTRICK・OUTのライブに行ったのは今まででほんの三回。開設当初、半年前、三ヶ月前だ。
母親が余りいい顔をしないので、琴音は望んでいこうとはしなかった。開設当初は遠城さんに連れられて(拉致されて)、半年前は奈月と一緒に、三ヶ月前は空に誘われて、行ったのだがあの熱気と熱狂、会場全体を包む興奮の渦に酔いしれそうで、琴音は怖かった。
また、歌っている空が別人のようで、何だか怖かった。優しい笑顔で見つめる目が、鋭く真剣になっていて、優しく琴音を支える腕が、荒々しくマイクを握る。バラードの時に聞いた空のその透明で切ない声音に、琴音は心臓が鳴りっぱなしだった。
空兄は魂を削って歌っている。そんな気がした。
観客はそんな空にときめき、熱狂するのだが、琴音としたら空の魂を削りきったら死んじゃいそうで、怖くて、怖くて……・・。
だから琴音はあまりTRICK・OUTのライブに行きたがらない。
その点、レッド・ソースは好きだ。安心して聞ける。
ボーカルのユメミと、ギターの敦也がたまに寄り添うのを見ると、ムッとするが、TRICK・OUTのライブのような強迫めいた興奮や、恐怖がない。
それなのでお母さんにはばれないように毎週行っているのだった。
「今夜は電話しようっと……・・」
琴音は敦也の写真を見ながら微笑んだ。
夜。昼頃に母親が帰ってきて、嬉しそうに温泉饅頭をおみやげに持ってきた。だが今だに空は帰ってこない。
琴音は自分の部屋で、電話の子機を睨み付けていた。
十分ほど前に敦也に電話したのだが、通話中だった。そろそろ電話しても良いかもしれない、と思って、ダイヤルを押そうとすると、丁度そのとき電話が鳴った。子機に着信するが早いか、琴音は通話ボタンを押した。
「もしもし!」
『……・・琴音?』
びっくりしたような声が聞こえる。
「敦也?うん、私わたし。えっへへ、今何してたの?電話したけど、繋がらなかったから……・・」
『……・・。』
電話の向こうでは沈黙している。
「どしたの?今日の昼も繋がらなかったんだよ。ね、明日は暇なんだったら……・・」
『悪いけど。』
電話の向こうの声が、琴音の浮かれた声を遮った。
『俺は、お前の彼氏じゃないよ。』
「……・・。……・・!空兄!?」
琴音は驚いて叫んでしまった。
まくし立てた琴音も琴音だが、空も空だ。途中で止めてくれたって良かろうに……・・。
「ひどい、早く言ってよ、恥ずかしい!」
『……・・。止める暇もなくてね。』
電話の向こうの空の声は、ひどく、疲れているように感じた。
「……・・空兄?どうしたの?なんか、疲れているの?」
『……・・いや、大丈夫。今日も、澪の家に泊まるから、母さんにそう言っておいて。』
「ほんとに大丈夫なの?何だか声、変だよ」
『……・・大丈夫だよ。』
空はいつもの優しい声に戻った。
『心配してくれて、ありがとう。じゃ、母さんに伝えてくれ。』
「……・・うん。程々にね」
頷くとすぐに電話が切れた。二連泊なんてめずらしい。母親に伝えると、母も驚いてぶつぶつ言った。
「まったく……・・。空ったら、ほんとに心配かけて!」
機嫌が悪くなった母から逃げるように琴音は二階に上がった。とたんに鳴る電話。
「はい、三ツ木です!」
『琴音?俺だよ、敦也。』
「敦也!!」
琴音の声が嬉しさに弾む。
「一日ぶり!昨日はゴメンね、電話してくれたりした?澪さんちに行ってたから」
『あ、ああ、そうなんだ。昨日は俺もちょっと用事があって電話できなかったんだ。ごめんな。』
「ううん、あ、ねえ、明日暇?」
『明日?夕方過ぎれば暇になるよ。昼間はバンドの練習があるから。』
「じゃあ、一緒にどこかに行かない?」
せっかくの日曜日。遊びたい。奈月とでもいいけど、彼氏と遊ぶのはもっと楽しい。
『いいよ、もちろん!』
敦也は優しく言った。
琴音は敦也の優しいところが好きだ。ふとさりげなく車道側を歩いてくれたり、疲れた琴音の手を繋いでくれたりする、その優しさが。
その優しさが少し空とかぶる辺り、琴音は相当ブラコンなのかもしれない。
その後待ち合わせを決め、いつものように他愛のない話をしていたところふと敦也がぐちをこぼした。
『最近本当に忙しくって……・・。俺のとこのリーダーの啓介さんがさ、絶対次のライブに間に合うように詩を書けって……・・。メンバー全員に書かせるんだぜ?俺センス無いのに……・・。』
琴音は思わず笑ってしまった。敦也は不満そうに『笑うなよ』と言う。
「ごめんごめん、だって昔敦也が書いた詩をレッド・ソースのファンの子に見せて貰ったんだよ。そしたらさ……・・」
すごかった。
十分くらい笑いが止まらなかった。
「なんなのか全く分からなかった。なんで象が空を飛ぶの?あの開け、ゴマって、なんの暗号なのよ?」
思い出しても笑ってしまう。敦也が電話の向こうでむくれたような雰囲気が伝わってくる。
『うるさいな、あんなんでも一生懸命書いたんだよ。』
「ごめんって。ね、それってクリスタル・フェスタの選抜ライブに向けてなの?」
『……・・。なんで知ってるの?』
「奈月に聞いたの。大変そうだって。最後になれるといいね」
琴音は本気でそれを言ったのだが、敦也の声は目に見えて不機嫌になった。
『……・・去年は俺らがやったんだよ。クリスタル・フェスタのラストステージ。今年もとるさ。絶対な!』
憎しみが、声の端から漏れていた。それは、琴音に向けられたものではないと思いつつも、琴音は黙り込んでしまった。
しばらくの沈黙の後、敦也が取り繕うように言ってきた。
『じゃ、明日、ハチ公前でな!楽しみにしているから!』
「う、うん!明日ね」
そう言って切れる電話。
琴音は、暗い雰囲気を振り払うように首を振り、ベッドに潜り込んだ。
明日は絶対遅刻できない。頑張って起きなくちゃ。
そう思いながらも、なかなか琴音は寝付けなかった。
外で、犬の遠吠えする声が聞こえる。
空兄は今日も帰ってこない。
まさか本当に、澪さんと付き合っているのだろうか……・・。
そんなはずはないか。遠城さんも言ってたし。
うつらうつらしながら、琴音はそう思った。
そのまま、眠りに引き込まれていく。
夢は、あまねく人々を広く照らす
しかし、すべてのものが選ばれるわけではない
弱者を踏みつけにし、だからこそいっそう美しく輝くのだ
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