美奈の恋愛研究日誌

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夏とはいえもう薄暗い時間。下校時刻をとうに過ぎた、無人に近い校内を、一人の少女が歩いていた。

すれ違う者もなく渡り廊下を通過し、三階へと階段を上っていく。窓から射し込んだ残光に、丁寧に肩で切りそろえられた黒髪が映える。健康的な太股がプリーツスカートの下からわずかに覗いた。

(遅くなっちゃった・・・先生、まだ残ってるかな)

ほっそりした手首を飾る腕時計の時刻は、全生徒、全教職員に退去を告げる鐘が鳴るまでの、わずかな余裕を示している。

少女の名前は五十嵐美奈。この私立星南大学付属高校の二年生で、成績は学年トップ。全国模試でも常に上位に入る秀才である。

さらに整った目鼻だちと、均整のとれた肢体とがそこに加わるのだが、男子生徒の間で、彼女の人気はさほど無い。

それは美奈の、自分の容姿をあまり意識しない、インテリ然とした生真面目な態度によるところが大きいのだろう。

茶髪や化粧、ピアスにルーズソックスといった、今時の女子高生らしい要素は、その身なりにひとつとして見られない。清潔感あふれる制服姿は、まさに一分のスキもない優等生といった感じだ。

「五十嵐さんてさー、化粧とかしないの? モトいーんだからマジしたほうが絶対イイって」

ある時、美奈とまったく対照的な格好の女生徒に、そう言われたことがある。しかし彼女は参考書から目を離しもせずに、

「成長期における化粧は、美容の面から言えば明らかにマイナスよ。それだけ肌の老化が早く進むから、結局成人後もずっと化粧に依存することになってしまうの。・・・わたしは、化粧なんて健康な素肌を維持する努力を怠ることへの、程度の低いごまかしでしかないと思っているから」

と、こういった台詞を返すようであるから、女子の中にも親しい友人と呼べるほどの者は一人しかいない。

ありていに言って、周囲からやや敬遠されているのである。

しかし、だからこそ、こんな時間まで校内に残っていても、その名目に『彼』の実験助手という肩書きを使っていても、誰にも不審に思われることはないし、さして詮索もされないのだった。

もっとも、今日の場合は図書委員長としての職務を全うしていたために遅くなったのであるが。

三階の化学実験室の隣。そこが校内に『彼』個人が与えられた研究室だ。

化学教師、高原修司。勤続三年目の二十五歳。偶然生成に成功した対女性用ヒト・フェロモン『魔薬』を使い、美奈を含む数人の女性をコマした悪人である。

学校側の彼に対する特別の待遇は生徒も知るところであり、その知的な容姿と、柔らかな人当たりもあって、女子の間でひそかに人気が高い。

しかしながら、休み時間に彼が女生徒に囲まれたりする、といったことは今までほとんどなかった。

やはり美奈と同様、相手に一歩踏み込むのをためらわせるような雰囲気を、彼が身にまとっているからだろうか。

ともあれ、それは今の美奈にとっては望ましいことなのである。

(やだ、ドキドキしてる・・・)

緊張で、胸の鼓動がすこし速くなっていた。それを押さえ込むかのように、美奈はカバンを胸元に強く抱きしめる。

自分の中に新たに芽生えた感情。彼に処女を散らされてから、次第に形を成したそれが何なのか、美奈自身にもしばらくわからなかった。

時に心地よく、時に不愉快な、容易には説明できない複雑な精神状態。

しかし最近、これはおそらく、一般的に恋愛感情と定義されるものなのではないか? そう思うようになっていた。

同時に、その可能性を反証してみてもいる。

快楽に流される言い訳に、恋や愛といった綺麗事を持ち出しているのではないか?

『魔薬』を持っていれば誰でもかまわないのではないか?

自問した。なんども、数え切れないくらいに。

(違う・・・と、思う)

彼はきっと、美奈をただ欲望を満たすためだけに利用しているのではない。

だいたい、このごろは『魔薬』をまったく使わずに身体を重ねているのだ。それもほんの数回でしかなく、真面目に実験を行うだけの日のほうが圧倒的に多い。

二人の関係の始まりは、たしかに異常なものだったけれども、今では会話や行動の端々から、彼の優しい気遣いを感じるようになっている。

美奈のいろいろな相談にも、彼は親身になって応じてくれた。

『魔薬』によって与えられる、原始的な喜びとはまったく別の心地よい感覚を、美奈はそこに見出すことができている。

肌を合わせなくても、暖かな何かが自分を満たしていく、そんな幸福感を。

(そうよ・・・だから)

だから昨日、思い切って、この想いを彼に打ち明けた。

まだ未整理なままの気持ちを、それでもなんとか伝えようと、たどたどしく、しかし一生懸命に言葉を重ねた。

今思い返すと、まったく赤面してしまうような内容。

(ううう、どんな顔して会えっていうのよ・・・)

足の運びが遅くなる。昨日、返事も聞かずに部屋を飛び出してしまったのが悔やまれた。

もっとも、なけなしの勇気をふりしぼった後、あの場にとどまるのは到底むりだったであろうけど。



美奈が自分自身に起きた変化に気付かされたのは、先日、いつものように妹のはずみにせがまれて、勉強を見てあげているときだった。

はずみは美奈の一学年下で、成績は中の上といったあたり。姉妹だけあり、顔立ちは美奈に似ているが、姉とくらべてやや柔和で、幼い印象を与える。洒落っけのない眼鏡をかけて、一見したところは地味目の外見だ。


彼女の飲み込みは決して悪くないので、美奈も教えるのに苦労はない。自分の復習がてら、妹の頼みをいつも快く引き受けている。

テーブルをはさみ、向かい合って勉強をしていると、はずみがふと思いついたように聞いてきた。

「ねぇお姉ちゃん、最近帰ってくるの遅いよね。何やってるの?」

はずみの問いに、美奈は数式を解く手を止めた。シャーペンをもてあそびながら、微塵の動揺も見せずに簡潔に答える。

「化学の高原先生に頼まれて、実験の手伝いをしてるのよ」

「ふーん。どんな実験してるの?」

「そうね・・・はずみに言っても、理解できないんじゃないかしら」

「うー、ひどいよそれ。どーせはずみはお姉ちゃんみたいに頭良くないもん」

はずみは、拗ねてみせるその表情にも愛嬌がある。自分にはとても出せないものだな、と美奈は思う。

「わたしのは努力の賜物。頭が良いっていうのは、高原先生みたいな人のことを言うの」

そう言ってノートに目を落とす。自覚は無かったが、声がわずかに軽く弾んでいた。

「・・・お姉ちゃんって、高原せんせいのこと、なんだか嬉しそうに話すんだね」

「えっ?」

顔を上げる。はずみはにこにこと笑いながら美奈を見ていた。

「かっこいいもんね、高原せんせい」

(かっこいい・・・?)

脳裏に浮かぶ、化学教師の線の細い顔。美奈の胸の奥で、微かに感情が揺れる。しかし彼女は、

「そう?」

口に出しては、ただそう答えた。はずみが意地の悪い笑みを浮かべる。

「ふふふ、お姉ちゃん知ってる? 高原せんせいって結構人気あるんだよー」

「はずみ! いいから黙って手を動かしなさい」

「はーい。えへへ、おこられちゃった」

小さな舌を唇から覗かせながら首をすくめて見せると、はずみは問題集に取りかかり始めた。



それから二時間後。湯気の充満する浴室で──

(・・・ふう、なんだっていうのかしら)

湯船に肩まで浸かりながら、美奈は物思いに沈んでいた。自分と彼との奇妙な関係について、再検討していたのである。

何故、自分は彼との関係を続けているのだろう。

(薬のせい・・・じゃないのはたしかね)

美奈の前に彼の助手をしていた少女。

(たしか、C組の・・・凪原さん、だっけ)

彼女が研究室に来なくなった訳は、容易に想像できる。そして、それは同時に、あの薬に習慣性が無いことの証左でもあるのだ。

嫌なら、会わないようにすればいいだけ。

では何故、自分は助手を続けているのだろう。

(実験が楽しい・・・っていうのも、あるわね)

しかし、当然それだけでは説明できない。

二人の、大事な手順をいくつも跳び越えて、いきなり最終段階から始まった関係。だけども、美奈はそれについてあまり抵抗は感じていない。その理由はいったいなんなのだろうか。

(そうね、あとは──)

ふいに、実験中に見た彼の横顔が思い浮かぶ。

普段生徒に見せる、教師としての顔とはまるで違う、子供のように無邪気な表情。

そして同時に、美奈は初めてそれを見たときの自分の気持ちも思い出す。

自分よりも優れた知性に対する、尊敬や感嘆の念もあっただろう。でも、あのとき感じた気持ちは、それだけではなかったはずだ。

美奈の中に、あのときの、胸を締めつけるような、切ない感覚がよみがえる。

これは・・・愛しさ、だろうか?

(やだ。それじゃあ、まるっきり恋煩いじゃない)

プライドが邪魔をして、美奈はその考えを認めきれない。

では、この胸の高鳴りをどう説明する?

頭がぼうっとする。考えがまとまらない。

(この感じ。これはやっぱり・・・恋、なの?)

それは単に、長風呂でのぼせているだけなのだったが、今の美奈にそれを確認する冷静な思考能力は残っていなかった。

彼女の入浴時間はすでに一時間近い。かなり危険な状態である。

「美奈ー、いつまで入ってるの。後がつかえてるんだから、早く出なさい」

脱衣所から、母──五十嵐節子(自称:三十九歳と四十二ヶ月)が呼びかける。当然、美奈の返事はない。

もう一度。今度も応答はない。節子は眉をひそめた。

「ちょっと美奈、アンタもしかしてまた・・・開けるわよ!」

勢いよくドアを開けた節子の目に入ったのは、口もと近くまで湯船に浸かり、ぐったりとした美奈の姿だった。いちおう目は開いているものの、それがなにも認識していないことは明白である。

「こら、美奈! アンタはまた・・・トイレや風呂で考え事するのはやめなさいって何度も言ったでしょっ!」

節子は大股で歩みより、ぺちぺちと美奈の頬を叩く。それから、開け放ったままのドアの方に振り返り、大声で呼びかけた。

「はずみー! ちょっと手伝って、はずみー!」

「どうした母さん?」

それに反応した父──五十嵐幸太郎(四十三歳、商社勤務)の声がリビングから近づいてくる。間髪入れず、

「お父さんは来ないで!」

「な、なんだね。そんな邪険にしなくても・・・」

節子の迫力に気圧され、幸太郎はリビングへすごすごと引き返していく。男一人、女三人の五十嵐家において、少数民族である彼はいろいろと肩身の狭い思いをしている。その背中に、なにやら哀愁が漂っていた。

・・・が、まあ、それはともかく。

「はずみー! さっさと来なさい!」

くり返し聞こえる母の怒声、ぱたぱたと響く妹の足音。

美奈の朦朧とした意識には、そんな音だけが入ってくる。

(ほんとに、騒がしい家・・・ゆっくり悩むことも・・・できやしないんだから・・・)

けれども、その騒がしさに不思議な心地よさを感じながら、美奈は湯船に沈んでいった。



(お母さんも、あんなに怒らなくたっていいのに・・・)

浴槽から救助され、ようやく落ち着いて部屋に戻ったのがつい先ほど。

ベッドに座り、痛む頭をさすりながら、パジャマ姿の美奈はまだ考えていた。

とりあえず、ひとつわかったことがある。

自分の気持ち。これはもう明白だ。認めるしかない。

どう呼称するかはともかく、自分の内にある彼への好意が、大きなものになっているのは間違いないだろう。

(でも・・・)

なら自分は、これから具体的にどうしたいのだろうか。どうすれば良いのだろうか。

それに、彼のほうは美奈のことをどう思っているのだろうか。

しかしながら、これらが容易に解答の得られる問題ではないことも、美奈にはなんとなく分かっていた。

参考書など役に立たないし、以前はずみから借りて読んだ少女漫画や恋愛小説で得た知識では心許ない。

見聞きするよりも、実践がものをいう分野であるのは明白だと思われたからである。

考えるほどに、どうも、美奈個人の情報量では結論など出そうにないことがわかる。

(一人で考えていても、きりがないかもしれないわね・・・)

では、自分自身に起きた変化について、信頼できる人物に相談してみる、というのはどうだろうか。

美奈の思考はそこに行きつく。

(・・・お母さんに相談してみようかな)

美奈の両親の馴れ初めは、母から父への告白だったと聞いていた。大きな期待はできないが、なにかしら得るところはあるのではないだろうか。

時計を見る。十二時四十分。まだ母は起きているだろう。

(うん、じゃあ早速──)

そこまで考えて腰を浮かしかけたところで、幸運にも、美奈はその行為の危険性に気付くことが出来た。

母、節子が大変な噂好きであることに思い至ったのである。

そのままベッドに座りなおし、クッションを手繰りよせ、想像する。

(もし、お母さんに話したら・・・)

おそらく、翌日には近所の魚屋か八百屋あたりで──

「そーなのよ、美奈ったら好きな男ができたんですって。ホント、そーいうのに縁ないんじゃないかと思って、あたしも心配してたのよー! え、うん。相手の男に関しては口割らなかったんだけどもね」

「まあ、美奈ちゃんもそーいうお年頃ですものねえ。ほほほ」

「ほんと、若いっていいわねえ。ほほほ」

 ──などと、娘の恋愛相談を肴にして、盛り上がる井戸端会議の様子が目に浮かぶようだ。

(言えない・・・! 絶っっ対に言えないわ・・・・・・!)

美奈はクッションを抱えて、ぶんぶんと首を振った。想像しただけでこれほど恥ずかしいのでは、現実になったらもう外を歩けない。そして後から母に抗議しても、しれっとした顔で聞き流されるのがオチだろう。そういう人なのである。

母はダメだ。では、誰に相談すべきだろうか?

美奈は熟考した。

母を除外すれば、機密保持とアドバイスの有用性の二点から、対象は一人に絞りこまれる。

(・・・大丈夫かしら?)

その女性も、いろいろと美奈の不安をあおってやまない人物ではある。

ともあれ、他に適格者がいないのだから仕方がない。少なくとも、口の堅さは信用できるのだ。

(とにかく、明日だわ・・・)

美奈は目覚ましをセットすると、電気を消してごそごそとベッドにもぐり込んだ。

頭を切り替え、明日の弁当のおかずについてなど考えながら、目を閉じる。

たちまち、瞼の裏に彼の顔が浮かび上がった。胸の鼓動が早まり始める。

(考えない、考えない・・・!)

眉根を寄せて、美奈は寝返りを打つ。

なかなか寝付けそうには、なかった。



午前一時。リビングで就寝前のティータイムなど優雅に楽しんでいた節子の前に、目を眠たげにこすりつつ、はずみがやって来た。脳細胞がまだ何割か寝ているらしく、パジャマにプリントされたペンギンと同じような、妙によたよたした足取りだ。

「珍しいわね、はずみ。まだ起きてたの?」

「うー、お姉ちゃんの部屋がうるさくて寝られないんだもん。どすーんって寝返りうったり、大声で叫んだり・・・」

「・・・まーた思いつめてるの、あのコは」

節子はため息をつく。

「そうみたい。・・・お母さんはお仕事?」

はずみはテーブルの上に広げられた原稿用紙に目を向ける。色気も見栄もないセルフレームの眼鏡を通して、なにやら難しげな文章がびっしり書き込まれているのが見えた。

結婚前は週刊誌の編集者をしていた節子は、その文章力を見こまれて、退社した今もエッセイの連載を持っていたりする。

「んー、ちょっと行き詰まっちゃってねー。今日は終わりにしようかと思ってたトコ。コーヒーでも飲む?」

「いい。眠れなくなっちゃうから」

はずみは重たげに首を振った。ちょうどそのとき、二階からどすん、と鈍い衝撃音が響いてきた。防音材など無いに等しい安普請のため、一階までほとんど減殺されずに音が降ってくる。なんとはなしに、二人は天井を見上げ、次いで顔を見合わせる。

「オトコね、あれは。異性問題。間違いないわ」

節子は断言した。よくこれだけでわかるなーと思いつつ、はずみは頷く。

「やっぱりそうなのかなぁ・・・」

「はずみ、なにか知ってるの?」

はずみはしばし押し黙った。眉をしかめ、ぼけた頭を必死に働かせる。

「んー、お姉ちゃんに怒られるから、言わない」

「はずみ。・・・アタシと美奈、どっちが怖い?」

節子は湯飲みを両手で持ち、にっこりと微笑んだ。普段なら効果絶大なこの恫喝も、思考が鈍ったはずみに相手にはあまり意味がない。

「怖いのはお母さんだけど・・・言ったらお姉ちゃん、怒って口聞いてくれなくなっちゃうもん。前だって──」

「あー、はいはい。あれはアタシが悪かったわ」

降参、とばかりに節子は両手を上げる。以前、節子が余計な茶々を入れたために、怒った美奈が家事から一切手を引いてしまうということが何度かあった。もっとも最近のものは五十嵐家非公式記録(はずみの日記)に「沈黙の三日間」などと記載されている。

現在、五十嵐家の生活環境維持においては、美奈の貢献によるところ非常に大であるため、彼女がひとたび機嫌を損ねたら、家中が荒廃し、家族全員が飢えることになるのであった。

ちなみにはずみはここ一年ほど、母の料理を食べた記憶がない。

「あのコは、頭で考えすぎるのよ。いくら考えたって答えの出ない問題ってのもあるの。まったく、顔と頭はアタシに似て上物に育ったってーのに、どうしてああウジウジしてるのかしらね」

「お姉ちゃん真面目だから。・・・大丈夫かなあ?」

「ま、なるようにしかならないわ。こーいう問題はね」

節子はほうじ茶などすすりつつ言ったものだ。その哲学でこれまでの人生を乗り切っただけあって、母の言葉には、はずみにうかがいしれない重みがあるように感じられた。

「・・・で、はずみのほうにはそっち方面の相談とかないのかなー?」

ちら、と流し目をはずみに送る。はずみは自分に危機が迫っていることを直感で悟った。

「え? あ、えーっと、はずみあした日直だったんだ早く寝ないと!」

言うなり身を翻し、リビングを飛び出して行ってしまった。すぐに階段を駆け上る音が聞こえてくる。

「・・・逃げたか」

追撃をあきらめ湯飲みを置くと、節子は天井を見上げた。あいかわらず不定期に衝撃音が降ってくる。はたして、悩める女子高生美奈に輝ける明日は来るのだろうか。

「──来ないんじゃないかな?」

節子はぼそっとつぶやくと、テーブルの上を片付けはじめた



「うーん、おいしい。今日は大漁、大漁! この瞬間のために生きてるわねー」

幸せそうにコロッケパンをたいらげると、いそいそと次のパンを袋から取り出す。それらは血で血を洗う購買部戦役の戦果。汗と涙の結晶であった。

「・・・七海って、ほんっとによく食べるよね。なんで太らないのか不思議だわ」

箸の動きを止め、あきれ顔で美奈がコメントする。今は昼休み、彼女の隣でカスタードパンにかじりついているこの少女は宮ヶ瀬七海。美奈の唯一無二の親友である。

七海は女子バスケ部のエースで、身長は180センチをゆうに超える。星南大学のほか数校からもすでに誘いがきているほどの実力者だ。凛々しい顔立ちはどこか中性的で、一年女子の中にファンクラブまがいのものまで出来ている。

彼女の髪はさっぱりと短く、脚はスラリと長い。ズボンを履いて美奈と並ぶと似合いのカップルに見えるかもしれない。優等生とスポーツ特待生。どちらも校内どころか全国レベルの実力者どうし。この異色の取り合わせは、校内でもひときわ目を引く存在であった。

昼休みはいつも、美奈と七海は一緒に昼食をとる。最近はここ、裏庭のやや奥まったところにあるベンチが二人の指定席だ。教室は冷房が効きすぎているので、木陰で風がよく通るこのベンチは意外な穴場なのだった。

「ふふん、ちゃーんと食べたその分運動してるもんね」

七海はうそぶき、ひょいと美奈の弁当箱から鳥の唐揚げをつまみ上げる。美奈の弁当箱は女子のものとしてはやや大きめだ。パンにせよ学食にせよ、たいていそれでは足りない七海の手が伸びてくるので、多めに作ってきているのである。

そもそも、二人の友誼の始まりはこの美奈の弁当に起因している。今から、一年と少し前のことだ。


 ──五月、毎日を涼やかな風が通りぬける頃。その日は四時間目が体育で、しかも持久走という過酷な状況だった。直後の昼休み、戦場となる購買部に片づけ当番と着替えで完全に出遅れた七海は、売れ残ったコッペパンひとつというわびしい戦果に終わってしまったのである。

味気ないコッペパン。それはまさに敗者の烙印であり、俊足を誇る七海にとって耐え難い屈辱だった。立ち尽くす彼女の前で、戦友にしてライバル、陸上部に所属する蔵石圭は勝利と哀れみの笑みを浮かべて悠々と去っていったものだ。

(くっ、圭のヤツこれみよがしに・・・! カツサンドに焼きそばパンにグラタンロールに・・・)

七海は圭が見せびらかしたパンの味をむなしく想像する。空腹と疲労がそこに追い打ちをかけ、怒りに握り締めた拳にも普段の力がない。さらに七海はその手で唯一の戦利品であるコッペパンを握りつぶしていたことに気づいていっそうもの悲しい気分になった。

とぼとぼと、敗残者の足を引きずり教室に戻った七海。そんな彼女の目に、豪華絢爛な(その時の七海にはまさにそう見えた)美奈の弁当が飛び込んできたのである。

(おおっ・・・!?)

美奈が荒挽きウインナーを口に運ぶさまに、思わずぎらついた目で見入ってしまう。横合いからの強い視線に気付いた美奈が顔を上げた。

目と目が合う。

「・・・なに?」

美奈が恥ずかしそうに口元を押さえた。ぶしつけな視線に、居心地が悪そうに身をすくめる。それでも七海の視線は美奈に(というより弁当に)ロックオンされたままだ。

「・・・おいしそう」

「え?」

「おいしそう、ね。五十嵐さん、のお弁当」

七海は空腹でしゃべりが変になっていた。一方の美奈もやや困惑している。入試はトップ、入学式で新入生代表を務めた美奈の優等生ぶりは十分に生徒の間に浸透しており、すでに周囲の敬遠は始まっていた。この頃から、あまり彼女に話しかけてくる者はいなかったのである。美奈はしばらく珍しい生き物でも見るような目で七海を見ていたが、事情を了解したのだろう、ふと表情を緩めると、

「えーと・・・宮ヶ瀬さん。よかったら、少し食べる?」

ややぎこちなく微笑んで、ほとんど手をつけていない弁当箱を差し出す。色とりどりのおかずが、七海の目を奪った。

「いいの? ほんとに!?」

全身に喜色をみなぎらせ、七海が叫ぶ。気圧されたように、美奈は椅子ごとずり下がった。

・・・結局その後、美奈の弁当は半分以上が七海の胃に収まったのである。そして空腹を解消し、冷静さを取り戻した七海は美奈に謝り、遠慮する彼女にジュースを奢ったのだった。


 ──と、まあ、そういった次第で二人の関係は始まったのである。以来、昼食をともにするようになり、今日まで少しずつ友情を深めてきたのであった。

あの日からややあって、美奈はさして手間も変わらないから、たまにでも七海のぶんの弁当を作ろうか、と言ってみた。喜んでくれるものと思ったのだが、「戦場で、強敵(とも)がアタシを待っているのよ」などという答えが返ってきた。おそらく遠慮もあったのだろうが、美奈には理解できない特殊な理由やこだわりもあるらしい。

テストの前になると二人は一緒に勉強した。もっぱら美奈が教える側だったが、逆に球技大会のバスケでは美奈が七海にパスを教わった。

美奈の図書委員の仕事を七海が手伝ってくれることもある。書庫で蔵書を整理するのは意外と重労働のため、美奈はずいぶんと助けられていた。

いちいち挙げてみるのはこのくらいでいいだろう。とにかく美奈は今までに、これだけ打ち解けられた友人を持ったことがなかった。相談相手として、彼女以上に信頼できる相手などほかに考えられない。

美奈にとって、七海はそういう存在だった。

「──それはそうと、なんでアンタ白衣なんか着てるのよ?」

「え? ああ。うちのクラス、五時間目化学だから、先にね」

七海の言葉に、美奈は夏服の上に白衣を羽織った自分の服装を見なおした。襟もとのあたりに手を添える。

美奈と七海は二年になってクラスが分かれてしまったため、学校では昼休みぐらいしかゆっくりと話す機会はない。

「ん、これ学校指定のと違うんじゃない?」

「うん。高原先生に頂いたの。一着だけだと助手をするのに不便だろうからって」

「ふーん。・・・なんか変な手触りね、これ」

袖をつまんだ七海が尋ねる。少し厚手で、表面もやけに滑らかだ。七海は服飾に関しては素人だが、この白衣に妙な違和感を感じていた。美奈はさらりと答える。

「よくは知らないけど、対爆・対衝撃仕様だから刃も銃弾も通さないんだって。ちょっと重いのが難点だけど」

「・・・なんでそんな白衣が必要なのよ。いきなり学校倒壊させたりしないでしょうね、あの先生」

「ええと、大学時代に師事してた教授がかなり特殊な人で、いろんなところに出向させられたって言っていたから、その関係でじゃないのかなあ、この白衣」

その恩師は独立独歩を旨とする人で、修司たちのような助手は数人持っていたが、弟子はとらない主義だったらしい。そして修司も研究室に残って彼の後を受け継ごうなどという考えは持っていなかった。

この学校に赴任してから現在までの修司の研究姿勢には、その師の個人主義の影響が強く出ていると思われる。

「ま、いいけど。あんまり危ないことするんじゃないわよ」

七海は一応納得したように残ったカスタードパンを口に放り込んだ。

(さて、と・・・)

美奈は首を左右にめぐらす。このベンチはほかの生徒たちから少し離れている。よほどの大声でない限り、会話の内容までは聞き取れないはずだ。ちょうど話題もそっちに向いたことでもあるし。

(話すなら今よね)

しかし、その前にひとつ確認しておかなければならないことがあった。



人心地ついた七海はジュースを飲んでいる。美奈は努めて平静な声で尋ねた。

「ねえ、七海」

「なによ」

「あんたが実はレズで、わたしのこと狙ってるって聞いたんだけど」

「ぶっ、ナニソレ!?」

七海は飲んでいたバナナ・オレを吹き出してしまった。咳き込むその背中を美奈がさすってやる。

「前に匿名の電話があったの」

「・・・あー、ごめん。それ、たぶんファンの子だわ。アタシに近づかないようにってことかも」

「じゃあ、嘘なの?」

「あったりまえでしょ! アタシはノーマルよノーマル!」

「そ。なら、いいんだけど」

「・・・くっそお、いったい誰がんなウワサ吹きこみやがったんだか・・・」

七海は苛立たしげに空になった紙パックを握りつぶす。美奈が適当なフォローを考えながら七海に向き直った時、視界の隅、七海のななめ後ろの方にいる人物が目に留まった。頭の中に浮かんだいくつかの断片的な情報が、ひとつの方向性をもって組み合わさる。

「七海。わたし、わかったかも」

「え?」

「ほら、あそこ」

美奈の視線の先を七海も追う。二人から少し離れた池の側のベンチに、撃ち殺しそうな目で美奈を睨む一人の少女が座っていた。七海が振りかえるやいなや、チョココロネを両手で持ちながら笑顔をつくる。小柄で、男の保護欲を刺激しそうな可愛らしい容貌である。

「げっ」

七海はあわてて前を向いた。途端に背後から視線が突きたたってくる。美奈に向かって飛んでくる敵意の視線とは違い、思慕の感情が込められたものだが──鬱陶しさではいい勝負だった。一度気づいてしまうと無視するのも難しい。

視線の主の名は真野ちはる。一年生。七海のおっかけの急先鋒である。七海と少しでも同じ時を過ごすためバスケ部に入部したが、あまりの運動音痴ぶりに戦力外通知を受け、マネージャーへ転身したという経歴を持つ。しかしこれがなかなか好人事だったらしく、彼女はかいがいしく働いていてそちらでの評価は高い。

美奈に激しい敵愾心を抱いているようで、ことあるごとに突っかかってくるのであるが──

「視線で人が傷つけられるなら間違いなく致命傷ね、これは」

受け手の美奈の方は意外と冷静である。妬み嫉みといった類の感情をぶつけられるのには馴れているからだろうか。・・・あるいは単に鈍感なだけかもしれない。

今はこうして天敵あつかいされている美奈であるが、しばらく後にとある事件を経て、彼女も七海と同様にちはるの崇拝を受けるようになるのだが──それはまた別の話である。

「ずいぶん慕われてるようだけど、ほんとに彼女の片思いなんでしょうね?」

疑わしげな美奈の声。七海は即座に反論する。

「決まってるでしょうが!」

「じゃあ七海は、普通に、男の子が好きってコトで間違いないのね?」

何故かしつこく、念を押して尋ねる美奈に、七海は怪訝そうな顔をして座りなおした。

「・・・なんなのよ、いったい」

「うん・・・ちょっと相談したいことが、あって」

美奈の声のトーンが落ちる。もう確認は十分だろう。レズ疑惑も晴れたところで、美奈はすでに彼と自分に事実関係があることは伏せ、このところの自分が感じた気持ちについて、かいつまんで話していった。

成績のことで相談したこと、実験中に見た笑顔のこと──。事前にきちんと整理しておいたはずなのに、美奈の口を出る言葉はしどろもどろで、まとまりのない説明になってしまった。

バターロールとエビ巻き卵を口にしながら、七海は黙って聞き終えると、

「ほっほーう、美奈もついにそーいったことで悩むようになったか。いや、なんか最近あやしーとは思ってたけどねー」

ウンウンと感慨深げにうなずいてみたりする。ちなみに、七海自身には付き合っている相手はいない。好きな人の話をしたこともないので、美奈は七海に意中の男性がいるかどうかもわからないのだった。

「で、なに? 放課後はやっぱり実験にかこつけて、教師と生徒がラブラブランデブーってわけなの?」

「なんなのよ、それは・・・」

「だって、毎日のよーに二人で研究室にこもってナニしてるのよ?」

「なにって、実験」

「男と女の?」

「だから、どうしてそういう方向に頭がいくの!」

美奈は七海を横目でにらむ。実際この一ヶ月近く、彼との間に色っぽいことはひとつもなかった。それでも、彼と一緒に実験を行う毎日に、どこか充実したものを美奈が感じているのは確かである。

「じゃあ、ホントにただ実験してるだけだってーの?」

「うん。企業から依頼された薬品とかもあるけど、先生の趣味に近い実験も多いかな。この前は、新発売の殺虫剤の成分比較を・・・」

七海はしばし目を閉じてこめかみを押さえた。それからどこか哀れむような目で美奈を見る。

「友人として忠告するわ。あんたソレ絶対暗い。青春の無駄遣いも甚だしいわよ?」

「そんな言い方って・・・」

美奈が不服そうな顔をする。七海はしょーがないなといったカンジのため息をついた。

「しかし高原かー。ま、美奈は年上好みだろうと思ってたけど」

「その、七海は・・・変だとかそういう風には思わないの?」

「なにが?」

「だって、教師と生徒だなんて・・・」

語尾は消え入り、美奈はうつむいてしまう。

──そんな不道徳な関係。そう言葉を続けるのはためらわれた。実際に口に出すことで、自分の気持ちまで貶めてしまうような気がしたからである。この気持ちが否定されるべきものだとは考えたくなかった。

「はあ? そんなの関係ないよ。好きになった相手がたまたま年上で、教師だったってだけのことでしょ」

顔を上げた美奈が見たのはいつもと変わらない七海の表情。なにを言ってるんだこのコは、といった表情だった。彼女は本当になんとも思ってないようである。

「でも・・・」

「ほら、生活指導の樋口。アイツの奥さんだってここの卒業生だし。全然珍しいことじゃないって」

「・・・ええっ!?」

美奈の脳裏に、年中しかめ面で、厳しくも慕われている四十過ぎの中年教師の顔が浮かぶ。

あの頭の堅い樋口先生が女子高生──しかも自校の生徒と恋愛し、あまつさえ結婚していたとは・・・! そういえば奥さんとはかなり歳が離れていると以前七海に聞かされた覚えがある。

「あンヤロー結婚したとき三十五で奥さん卒業したての十八よ? しかもこれが美人でねー。多くの同級生が涙をのんだらしいけど。それはともかく、好きになったら年齢だの立場だの気にしたってしょうがないよ。

すがに在校中はバレないように気をつけないといけないだろーけどさ」

「えっと・・・」

じっと七海を見る美奈。恥ずかしげなその視線を正面から受けて七海は答えた。

「・・・結婚は先走りしすぎだったか。よーするに、別に教師と付き合ったって変じゃないと言いたかったんだけど――と、あらら、噂をすれば」

七海の視線を追うと、校舎のほうから一人の男性教師が歩いて来るのが見えた。美奈と揃いの――とはちょっとわからないほどにヨレてしまった白衣をおざなりに着ている。いつもと同じ、美奈がすっかり見なれた格好。高原修司その人に間違いなかった。

(先生・・・!)

美奈の頬がほのかに紅潮した。そんな自身の変調が、美奈を混乱させる。

(なんなの、これは・・・こんなの、こんなのわたしじゃない)

うつむいた美奈を見て、七海の目になにかよからぬ光が宿った。立ち上がると、手を振って大声で修司に呼びかける。

「おーい、せんせー! たっかはっらせんせー!」

「ち、ちょっと、七海?」

驚いた美奈が七海のスカートの裾をつかむ。何故か七海の背中に隠れようとしてしまう。見上げた七海の顔は光線の具合でよく見えなかったが、かろうじて判別できた口の端に浮かんだ笑みに、美奈はとてつもなく不吉な予感がした。そう、母・節子が自身いっぱいに「大丈夫、まかせて」と言ったときのような。

「ま、いいからいいから。・・・こっちだよー、せーんーせーっ!」

「ううう・・・」

七海の呼びかけに応じて、修司はすぐこちらにやって来た。なんだか足取りが重たげで、だいぶ疲労しているように見える。

「・・・なんの用だ宮ヶ瀬」

不機嫌そうな修司の第一声。が、その充血した目で七海の背後にいる美奈の姿を認めると、わずかに表情がゆるむ。いや、ゆるむどころか大口を開けて天を仰いだ。

「ふわああ」

「わ、せんせー大きなあくび。寝不足じゃないの?」

からかいの微粒子を含んだ七海の言葉に、ようやく口を閉じた修司はわずかに顔をしかめた。よく見れば、髪の寝ぐせや無精ひげもそのままだ。くたびれた格好に教師の威厳は感じられない。脇で見ていた美奈は修司

疲労の原因に思い当たった。

「ああ、ちょっと目の離せない実験だったものでな」

「・・・先生、寝不足と言うよりあの実験予定だと全く寝られなかったと思うんですけど、大丈夫なんですか?」

七海と対照的に、気遣うような調子の美奈の声。昨日彼女は途中で帰ったが、予定では今日の明け方までかかる実験だったはずである。修司は頷いた。

「結局終わる頃には運動部の連中が朝練始めてた。今日は午前中の受け持ちがなかったから、さっきまで研究室で寝てたんだが・・・」

「なら少しは眠れたんですね。あ、でも――」

「ふあー」

修司の研究室にある来客用ソファーは、ベッド代わりにするには少し堅い。おかげで身体の節々が痛むのか、修司は肩や腰を軽く叩きながら顔をしかめ――もうひとつ大きなあくびをした。あくびが終わるのを待って美奈が問いかける。

「・・・あの、それじゃ先生、朝の職員会議サボったんじゃないですか?」

「あ」

美奈の指摘に修司の動きが止まった。こういうところが教頭や学年主任に睨まれる原因なのだろうなと美奈は思う。

(・・・ちゃんと昨日帰る前に注意しておいたのに)

きっと実験に戻ってすぐに頭から消えてしまったのだろう。七海が楽しそうに修司の顔を覗き込んだ。

「せんせー、クビになるの?」

「なるか! 縁起でもない」

「でもこんなコトが続くようだとそのうち現実になるかもしれませんね」

冷静にツッこむ美奈。どのみち生徒に手を出したことがバレたら一発でクビだろうなということはひとまず置いておくらしい。修司はぽりぽりと頭を掻いた。

「・・・一応あとで職員室に顔出してくるか」

「あ、そーだ。実験て言えばせんせー、最近美奈を休みの日までこき使ってるでしょ。こないだの連休だって、一緒に買い物行こうと思ってたのに、実験だって断られたんだからね。ちょっとは遠慮しなさいよ」

「いや、あれは特別だ。時間がかかるから休日の方が都合のいい実験がたまっていたからな。そうそう徹夜もできんし・・・」

「なんの実験だったっていうのよ」

「そうだな・・・トリニトロトルエンの精製と使用実験、とか」

「トリニト・・・なに?」

「だからトルエンにニトロを三つくっつけてだな・・・」

「――TNT火薬のことよ」

寝ぼけた頭で語り始めようとした修司を遮って、美奈が化学の成績のよろしくない七海にもわかるよう簡単に解説する。

「あーあ、爆弾の材料の。なるほど勉強になった。ちょっと待て」

「なんだ宮ヶ瀬」

「その連休明け、西校舎裏のランニングコースに大穴が開いてたんだけど、まさかアレせんせーの仕業?」

美奈と修司がそろって目をそらした。

早朝練習の陸上部員が最初に発見したその直径約五メートルのクレーターを作った犯人はいまだに不明とされている。前日爆発音のようなものが付近の住民に聞こえていたらしく、

隕石が墜ちたとか大学部の地質研が調査用の爆発物を誤爆したとか校内にいくつかの憶測が飛んだが、どれも決定力を欠くうちに話自体が風化してしまった。学校主催の模試が近づいていたからであろう。

模試とはいえ、付属校から推薦入学する際の参考資料ともなる大事な試験を前に、訳のわからんことに関わっている余裕のある者など、教師生徒問わずこの学校には普通いない。

「あの穴、陸上部とバスケ部、それにバレー部とかその辺にいた運動部員総出でよーやく埋めたのよね」

命令したのは朝の早い校長だった。まあ適当に調べるフリをして、埋めてよしとの判断をぬけぬけと下したのは傍らに立っていた修司だったりするのだが。ともあれ、一般の生徒が登校してくる頃には一応の体裁を整えることができた。

修司に対する校内の一般的な評価は「なんか学校から特別な扱いを受けて研究とかやってる寡黙で怜悧ででも優しい教師兼化学者」といったところで、

そのややマッドな研究内容まで把握しているものなど数えるほどしかいないから、この件で彼が追求されることはなかったのである。もちろん今まさに修司に嫌疑をかけている七海は彼の正確な理解者の一人だ。

「知らんぞ俺は、裏山の天狗の仕業じゃないのか」

「・・・このあたりに天狗の伝承なんてありましたっけ?」

スッとぼけて適当なことを言う修司に対して、美奈が素直に疑問を口にした。

「さあな? 俺、比較民俗学は専門外だから」

「話をごまかすんじゃない! 美奈っ、だいたいアンタが止めないでどーすんのよ!」

「と言われてもあれはどうにも・・・」

あの日あの時、美奈は修司に頼まれて研究室にこもり、とある試薬と化合物の反応を観察していた。というか、今にしてみれば美奈に制止されることを考慮して集中を要するその仕事をさせていたと考えた方が自然であろう。

呼吸を整え七海はしばし黙考すると、

「・・・まーいいわ。駅前に最近オープンした高級フレンチレストランがあるのよ。そこのスペシャルディナーコース。この辺で手を打ってあげましょ」

「なんだって?」

脈絡のない七海の発言に修司が戸惑った声をあげる。

「口止め料よ。安いものでしょ?」

「ふざけるな」

「じゃ、盛大にバラしてこよ。他にもあるコトないコト色々と。善良な教師としての評価と信頼、もしかしたら職まで失うかもね」

七海は新聞部にコネがある。わざとらしいほど大仰に方向転換して行こうとする彼女の手を掴んで修司は引き止めた。このガキャ試合中ドリンクに薬物でも仕込んだろーかという内心を隠して下手に出ることにする。

「あるコトはともかくないコトはやめろ。──今度の給料入った後でいいか?」

「いーけど、美奈も一緒だからね」

「え、わたし?」

「おい、それは――」

「だぁってせんせー、教師と生徒が二人っきりでムーディな高級レストランにいるとこなんか誰かに見られたらどう言い訳すんの?」

「一人増えてもそれは変わらんと思うが」

「・・・その前に、七海そんなところに着ていく服持ってた?」

そういう美奈も洒落た服などロクに持っていない。暗めの照明と落ち着いた音楽でアダルトな空間を演出している店内に、白衣姿と制服姿が鎮座するさまを美奈は思い浮かべた。・・・頭痛がする。

「バレた時言い訳が容易なのは定食屋とかファミレスとかだろうなあ。あ、学食なら全然その心配はないぞ」

「副業でだいぶ儲けてるでしょーに、ずいぶんしみったれたコト言うのねせんせー」

「なにをいくら食ったって、胸に肉がつかないのは変わらないと思うぞ宮ヶ瀬」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

両者とも張り付けたような笑みを崩さぬまま向かい合った。交わした視線の間に不可視の火花が散る。美奈はこの場から逃げ出したくなった。

「・・・えーと、この件については日を改めてじっくり話し合うということに・・・しません?」

勇気を出して立ち上がると、美奈は二人の間に左手を割り込ませて愛用のアナログ式腕時計の時刻を示す。数秒の後、まず修司が身を引いてみせた。

「そろそろ昼休みも終わるしな。これ以上戯れてるヒマはない」

「じゃ、安いところ、その代わりに回数を増やすという方向で検討しておくねせんせー」

「・・・勝手にしろ。俺はもう行くからな」

「あ、待って先生、ネクタイ曲がってます」

背を向けかけた修司の前にまわると、美奈は手慣れた動作で彼のネクタイを直した。

「お、すまん五十嵐」

「こんな格好で職員室に入ったら、林田先生あたりに注意されますよ。すぐ授業ですし、どうせ行くならその後シャワーでも浴びてからにしたらどうですか?」

「む、そうだな・・・」

そんなやりとりの中、急速に二人の周囲にかもし出されたナチュラルな雰囲気にはじきだされて七海は居心地の悪さを感じた。とっさに茶化す言葉も出てこない。なんというのか、こう、妙にサマになっているというか板に付いてるというか――。

ハッと気付いて七海は辺りを見回す。ここはもともと人は少ないが、こちらに注意を払っているのはちはる以外いないようだ。アレは自分のコトしか見てないだろうし、もしそうでなくても簡単に口止めできる。ひとまず安心だ。

(校内ってことを考えてイチャつきなさいよこの二人は・・・というかアタシが相談に乗る必要ぜんぜんなさそうなんだけど)

それでも一応はしかけてみることにする。七海は気合いを入れて愛フィールド内に身を乗り入れると美奈の前に出た。

「ねー先生、今日このコ使う? ちょっと用があるんで借りたいんだけど」

美奈の頭をポンポンと手のひらで軽く叩きながら尋ねる。きょとんとした顔で美奈は七海を仰ぎ見た。

「そうだな、今日はとっとと帰って寝るつもりだから構わないが・・・ってなんで先に俺に聞く」

「あーら、おとぼけになる・・・いえね、また男子に仲介頼まれちゃって。ほら美奈ってこれで結構モテるから」

「な、ちょ・・・っ!」

騒ぎかけた美奈を後ろ手に制して、七海はちらりと修司の反応を伺う。彼女の裾を掴んだ美奈の手に力がこもり、緊張が伝わってくる。返答まで若干の間があった。

「・・・そうか」

「あれ? せんせー気にならない?」

思い切り挑発的に七海は言った。やや憮然として修司は答える。

「くだらないことを言うんじゃない。・・・そろそろ予鈴が鳴る、早く教室に戻れよ」

強引に話を打ちきると、修司は急ぎ足で校舎に戻っていった。背を向ける前に、彼がほんの一瞬美奈の顔に視線を走らせたのを七海は見逃していない。適当に手なんか振って見送っていると裾が強く引っ張られた。

「七海、どういうつもり?」

「どーいうって、反応を確かめたのよ。高原、普通に返事してたけど内心思いっきり動揺してたねあれは。あんたたち、ちゃんと恋愛してるじゃない」

「な・・・!」

赤面して絶句する美奈。そのとき、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り始めた。周囲があわただしく動き始める。美奈も五時間目は教室移動なので時間的余裕はあまりない。

「ほーら、さっさと動く。あ、用があるのはホントだからね。放課後教室に呼びに行くから待ってるのよ」

一方的に言うと、七海は美奈の抗議の視線を無視して校舎へ歩いていく。慌てて立ち上がった例の一年生──真野ちはるが早速後ろからまとわりついていった。すぐに角を曲がって二人とも見えなくなる。

(先生が動揺してた・・・?)

美奈には彼を細かく観察する余裕など無かった。手早く弁当箱を閉じてため息をつくと、美奈は自分の白衣を指でなぞる。

「先生も、わたしをそういう風に意識してくれてるの・・・?」

美奈の呟きは、誰の耳にも届かず風の中に掻き消えた。



六時限目終了のチャイムが鳴り響き、授業がすべて終わった少し後のこと。

美奈たち二年A組の帰りのHRが終わり、担任教師が退室するやいなや、七海が教室に踏み込んできた。

彼女のクラス、二年B組は学年一HRが短いことに定評がある。今日も例にもれず、たっぷり五分も前から廊下で待っていたのだった。

一学期末のテストがだんだんと近づいてきているので、掃除当番以外の生徒たちは次々と足早に教室を出ていく。

彼らとすれ違いながら、七海はちょうど席から立ち上がった美奈のところへずかずかと歩み寄った。

「あいっかわらず終わるの遅いわねー、アンタのクラス!」

「B組のほうが早すぎるのよ。・・・それで、用ってなんなの? 今日は『スーパーいわさき』でタイムセールがあるから、あまり遅くまではつきあえないわよ?」

「またアンタは女子高生らしからぬ生活感あふれる台詞を・・・。ちょっと新聞部につきあってほしいのよ。すぐ終わるから、いいでしょ?」

「新聞部?」

教科書を鞄にしまいながら美奈は聞き返した。その単語が、ごく近い記憶を刺激する。

「まさか七海、あなた高原先生をホントに売る気・・・?」

「そーじゃなくて、違う用事。・・・なんか機嫌悪そうね。さっきからかいすぎた?」

美奈に自覚はなかったが、少しキツめの口調になっていたようである。頬に手を当てると、彼女は表情を改めた。

「え、別にそんなことないけど。・・・ちょっと疲れてるのかも」

「ああ。おば――節子さん、また追い込みなんだっけ?」

禁句を言いさし、七海はあわてて訂正する。

たとえ本人が目の前にいなくても、七海は美奈の母・節子を『おばさん』とは呼ばない。と言うか、とても呼べない。

知り合ってまだ間もない頃、七海が初めて美奈の家に遊びに行ったときのことだが――

ちょうど着替え中の娘に代わって、節子が七海の応対に出た。

そして七海が挨拶の後、「おばさん若いですねー」などと軽口をたたいたところ──彼女は七海の顔をにこやかに下から覗き込み、形容しがたい声色で、

「あのね、お嬢ちゃん・・・? アタシの名前は『おばさん』じゃなくて五十嵐、節子。さあ、『節子さん』って呼んでごらんなさい。はーい、りぴーとあふたみー・・・!!」

「ひ、ひええぇ・・・っ!?」

 ──といったカンジで、それはもう迫力満点の脅しをかけられたそうな。

らしいといえばらしいが、実に・・・大人気ない話であった。

ややあって、出てきた美奈が自室に招き入れると、七海は「殺られるかと思ったわ・・・マジで」と蒼白な顔で述懐したものだ。

とゆーわけで、今でも七海は節子を苦手としているのだが・・・まあ、それはともかく。

「うん、明日締め切りなの。だからお母さん、今日は朝からずっと書斎に籠もりっきり」

閉じた鞄を下げ、美奈は微かなため息をついた。

兼業主婦・五十嵐節子は原稿の締め切りまぎわになると、家事を一切しなくなる。

・・・まあたしかに、彼女は普段もあまり熱心に家事をしているようには見えない。

しかし、それでもわりと家内の環境が整っているのは、彼女が良い意味での「手の抜き方」を心得ているからだろう。

傍目には、五十嵐家の環境保全は美奈が主に担っているように見えるであろうが、節子は娘の働きまで考慮に入れて巧みに省エネをしているのだった。

まさに年の功・・・とは本人の前ではとても言えない。

美奈はまだその領域には到達しておらず、家事をしていると母の要点を押さえた手際を思い知らされ、それと比較して自分の作業に無駄が多いことを痛感するのである。

とはいえ、美奈なくして節子の計算も成り立たないのであるから、彼女は自分の働きに十分自信を持って良いはずであった。

「ふーん。それじゃ大変だわねー」

「まあ、いつものことだから」

「じゃあ、さっさと済ませよっか。終わったら買い物付き合ってあげる」

美奈をうながすと、七海は先導するように歩き出した。




星南高校新聞部の部室は北校舎二階にある。

そこは伝統・実績のある文化系クラブの部室が集まっている区画だ。

ちなみに体育系クラブは、主としてグラウンドわきにあるプレハブの部室棟にまとめられている。

これらに入れない──ありていに言えば格の低いクラブ・同好会などは、校内にいくつかある空き部屋をあてがわれているのだが、さらにそこからもあぶれた者たちは放課後の教室に間借りするなどしていた。

たとえばさっき二人が通り過ぎた二年D組には、現在セクシーコマンドー部員が集まっている、といった具合に(非認可)。

「――それで、こんなトコロにいったいなんの用が?」

美奈と七海は新聞部部室前に到着していた。すぐ右隣は写真部、反対側は漫研である。

「まー、いいからいいから」

七海はおざなりにノックをすると返事も聞かずに扉を開けて中に入る。続いて美奈も引っ張り込まれた。

新聞部は、週刊ペースで発行している学校新聞のちょうど修羅場明けで、今日の活動は自由参加のはずである。

部室内を見渡すと、はたして部員は一人しかいなかった。

「ちょっと邪魔するわよー」

七海がすたすたと歩み寄ると、奥の机に向かっていたその女子生徒は椅子ごと振り返った。

この部屋に一脚しかない回転式の椅子──部長の証だ。

「・・・はい?」

落ちついた声。楚々たる風情に柔らかい物腰。そして特に、艶やかな緑の黒髪が印象的な美人だった。

両手を膝の上で重ねて、たおやかに微笑んでいる。

彼女──二年C組の池畑由希子は、つい先日新聞部部長の地位に就いたばかりだ。

夏休みもほど近いこの時期、それは大して珍しいことではないのだが、彼女には二年生になってすぐに就任したもう一つの役職があった。

『編集長』──学校新聞のみならず、新聞部が関与する全発行物の編集作業を取りしきる最高責任者である。

また星南高校の学校新聞は、写真部や漫研との共同作業も多いため、必然的にその権限と責任は部の境界を越えて及ぶ。

さらに卒業アルバム等の学校行事系出版物の編集に協力を要請されることも多い。

進級して早々にこの座に就いた由希子の能力がいかほどのものか、推して知るべし。

「宮ヶ瀬さんと、五十嵐さん。お二人そろって、今日はどうしたんですか?」

美奈は一度、七海は何度か取材を受けたことがあり、彼女とは顔見知りだった。

同級生の二人に対しても、由希子は折り目正しい言葉づかいで接してくる。口調も柔らかで、美奈と七海は彼女に好感を持っていた。

そんな由希子なのだが、関係各部の部員たちからは「今年の編集長は、菩薩の顔に閻魔の心を持っている」とか「あそこは毎週一回地獄と化す」などと言われ、怖れられているそうだ。

その手の妙な風聞は二人の耳にも届いていたが、目の前にいる小柄で華奢な少女を見ると、到底信じる気にはなれない。

(やっぱり根も葉もない噂だったみたいね・・・・・・って、えっ?)

ふと、机の横に立てかけられた一振りの木刀に美奈の目が留まった。

一見してもよく使い込まれているのがわかり、土産物屋などで売っているものとは明らかに雰囲気が違う。

そういえば──由希子は古流剣術の使い手だ、などというウワサもあった気がする。

入稿直前の追い込み時期、その鍛えし技量は部員の逃亡阻止に絶大な威力を発揮するらしい。

(七海。あの木刀の黒いシミ・・・もしかして、血?)

(まさか。もっともらしくウェザリングしてあるだけでしょ。威嚇目的だと思うけど)

小声で問う美奈に、なぜかプラモ用語で返す七海。

「あの・・・?」

自分を見てぼそぼそと囁きあう二人に、由希子は困惑して声を掛ける。

(うーん・・・)

やはりどうしても、そこの木刀から発散される凶悪なイメージと、目前の由希子とは結びつかない。

美奈と七海は、とりあえずそのブツは見なかったことにして、愛想笑いを浮かべた。

「えーと、ちょっと池畑さんに見てもらいたいものがあるのよ」

七海はスカートのポケットを探りながら言った。

「きのう、CD返しにミキの家に行ったんだけど――」

「ミキ・・・? ああ、副部長のことですね」

新聞部副部長をつとめる二年生男子、手塚美貴(よしたか)は七海の幼なじみで、彼女から『ミキ』と呼ばれている。

その名前同様、内面や外見もわりと非男性的であり、スカートを履いて七海と並ぶと似合いのカップルに見えるかもしれない。

「そーよ。それでどーやら、内職の現場に踏み込んじゃったらしくてさ。と、あった。部屋でこんなのをビニールに詰めてたの。見てくれる?」

由希子は七海が差し出したものに目を落とした。横から美奈も興味深げに覗きこむ。

――写真だ。

数枚の印画紙それぞれに、体育の授業風景が焼き付けられていた。

女子生徒たちが体操服にブルマー姿でグラウンドを走っているところ。

レオタードをまとい体育館で創作ダンスの授業を受けているところ。

そして――スクール水着を着用し屋内プールで泳いでいるところ。

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

由希子は無表情に、一方の美奈はやや困惑した顔で、しばしそれらの写真を見つめた。

さて、星南高校には屋外と屋内両方にプールがあるが、水泳の授業も水泳部も、男子が屋外、女子が屋内という割当である。

雨の日などは、屋外プールで男子生徒が冷水で足がつりそうになりながら泳いでいるのに対し、女子生徒は常に水温調節された屋内プールで優雅に泳いでいるのだった。

シャワールームや更衣室も、当然新設された屋内プールのものの方が上等である。

無論、明白きわまる差別待遇であり、男子生徒の中にそれを不満に感じる者も少なくはない。

が、もともと屋内プール自体が、全国大会で好成績を収め続ける女子水泳部のおかげで出来たのであるから、そう強くでれるわけもないのだった。

女子の空き時間にお情けで使用を許されている現状を甘受するしかないのである。

ちなみに男子水泳部は県大会にすら何年も出られないという不甲斐なさだ。

まあそれはそれとして、水泳のみならず、星南高校では通常男女別々の場所で体育の授業は行われているのである。

つまり、七海の示したこれらの写真は、女子生徒がカメラを隠し持っていたなどという可能性が考えにくい以上、授業を抜け出した男子生徒が撮影したものと考えるのが自然だ。

そういった自分の見解を述べた後、七海は声を高めた。

「新聞部が組織だってこーいう盗撮写真を売りさばいているのか、はっきりした答えを聞かせてもらいたいわね」

「七海、体育祭とか文化祭の写真を掲示販売してるのは知ってるけど・・・その類とは違うの?」

「ンな可愛げのあるもんじゃないでしょコレは。よく見なさいよ、撮った人間のヨコシマな心根が知れるような写真ばーっかり」

「でも・・・」

美奈は由希子の手元を覗き込んだまま続ける。

「見ててもあまりきわどい写真は無いみたいだけど。盗撮写真って、低い位置から股間を狙ったりとかするんじゃないの?」

「・・・まあ、そのへんはあのアホが来たら聞けばいいことだし」

「わかりました」

それまで無言で写真を見ていた由希子が顔を上げた。

「まず最初に認めておきます。これらの写真は、私たち新聞部が販売しているものに間違いありません」

「・・・って、ホントに?」

さすがに由希子が関与しているとは思っていなかったので、七海は驚いた顔で聞き返す。

「ええ。・・・そうですね、順を追って説明しましょうか」

由希子は机に向き直り、引き出しの中を探り始めた。と、部室の前に、バタバタと慌ただしく複数の足音が近づいてくる。

「――言ってるそばから、来たわね。当事者が」

七海が呟くと同時に部室のドアが勢いよく開け放たれた。二人の男子生徒が入ってくる。

「部長、遅れてすいません。実は問題が――って七海ちゃんっ!?」

「遅ーいミキ!」

七海は両手を腰にあてて、先に入ってきた男子生徒を怒鳴りつけた。

「な、なんで七海ちゃんがいるの・・・? い、五十嵐さんまで」

「どうも」

由希子の傍らで写真を見ていた美奈が軽く頭を下げた。

「ど、どーも・・・!」

なぜか照れながら返礼する細身の男子生徒――手塚美貴の前に立ちはだかり、七海は指を突きつけた。

「決まってんでしょ。アンタの説明が要領を得なかったから、直接責任者に聞きに来たのよ」

七海はそこで、ミキの後から入ってきたもう一人の男子生徒に煩わしげな視線を向ける。

「・・・で、アタシも聞きたいんだけど、なんで千家なんかを連れてきたわけ?」

困り顔のミキを尻目に、千家と呼ばれた小柄な男子生徒は、親しげな笑みを浮かべて進み出た。

「いやー、ミキに泣きつかれてね。こりゃ撮影した当人も行くべきかなー、と。あとそろそろ君の出演の意志が固まったかなーとか思ってさ。どお、そのへん?」

「なわけないでしょ。帰れ!」

「あらま、つれないお言葉。んじゃ五十嵐さんは――」

「イヤよ。絶っっ対に、イヤ」

七海に続いて美奈もはっきりきっぱり拒絶する。

写真部と映研をかけもちしている千家は、夏休み明けの文化祭に自主映画の出展を目論んでおり、二人にしつこく出演を要請していた。

映画のタイトルは『学園戦隊セイギマン』。

配役は七海がセイギイエローで、美奈がセイギピンクである。

もちろん、すべて今のように二秒で断られた。

「だいたい、わたしはクラスでやる甘味屋の調理担当に決まってるし・・・夏休み中に係のみんなで何度か集まって試作品を作ったりするらしいから、けっこう忙しいの」

料理ができることを見込まれてだが、美奈の場合、それ以前に愛想がないので接客係から外されたことは言うまでもない。

「アタシはクラスに加えてバスケ部のほうでもやることあるだろうから、ムリね」

七海の場合は、馬力があるのでいいように使いたおされてるということも言うまでもない。

三人のやりとりを、由希子は冷静に、ミキは当惑しながら一歩しりぞいて眺めている。

美奈はふと疑問に思ったことを聞いてみた。

「あと千家くん、映画研究部はたしか、真面目なドキュメンタリーを撮ることがもう決まっているんじゃなかった?」

「あー、たしかにそうだけど。ホラ、来年は受験で映画撮るヒマがあるかわかんないだろ? だから有志でハジけたやつを別に一本撮ろうということになったんだ」

「ハジけた・・・ねえ」

「人手がないから、参加者は映研部員に限らず、幅広く募集してる。キミよ、来たれ!」

大仰な身振りで力説する千家。しかし全員が冷たい沈黙で応じた。

由希子などは完全に彼を無視してファイルケースを開いていたりする。

美奈は前に千家が無理矢理おしつけていったシナリオ草案を思い返した。

生真面目に一通り目を通したのだが、今はなんて無駄に時間を費やしたのだろうと思っている。

「一応、渡されたものは読んだけど・・・。でも、あれだと七海が入ると五人の身長のバランスが悪いんじゃないの?」

読んでまず一番に気になったことを指摘してやると、

「ふっ、まかせな! オレもそう思ってすでに代案を用意してきた」

「・・・いちおう聞くけど、どんな?」

「宇宙刑事ものということにして、刑事役を宮ヶ瀬さんに、助手の女の子役を五十嵐さんに――」

(・・・聞くんじゃなかった)

美奈は小さくため息をついた。

「…なんでもいいけど、千家くん。だいたい爆発の演出も入れるって、学校側の許可は取ったの?」

「そのへんはバッチリ。五駅ほど行った所に採石場があるから、そこで撮るつもりさ」

爆発シーンの撮影は採石場で。基本中の基本、ステップ1である。

ちなみにステップ2はそこで強制廃車確定気味の改造車やバイクを乗り回すこと。

もちろん爆炎のド真ん中を突っ切りながらである。

――危険ですから決してマネしないでください。

「爆発!? ちょっと千家、アンタそんなのまで入れるつもりだったの?」

「企画書に書いてあっただろ? 宮ヶ瀬さんにも渡したはずだけど」

「う…」

無論あんなもの、帰宅して二秒でゴミ箱行きである。

まあ、表紙に大書されイヤでも目に付くタイトルが『セイギマン』では、それも仕方あるまい。

美奈も一度目を通した後はすみやかに廃棄したが、まだ大体の内容は覚えていた。

あんないらぬ情報までしっかり忘れないでいる自分の記憶力が、この時ばかりは疎ましい。

「それにしてもよく許可がでたわね…高等部の学生だけでやるんじゃないの? 大学部の人も参加してるとか?」

「まさか。あっちはあっちでなんか撮るらしいし。爆発系の演出は高原先生に協力してもらうんだよ」

「高原先生に!?」

美奈が予想もしなかった名前が出てきた。

「ああ。けっこうその手の番組の知識があるみたいでさ、参考になったよ」

(そういえば…)

美奈は以前、実験後の茶飲み話のなかで、修司が科学の道を志した理由を聞いた覚えがある。

(死神博士とかギルモア博士みたいな、すごい科学者になりたいと思ったのが最初だったとか…)

修司は、美奈にこの両博士はどちらも歴史に残る人体改造魔だと説明していた。

なにかが間違っているような気もしたが、二人をよく知らない美奈には真偽のほどはわからない。

「宇宙刑事ものに変更する時も先生にアドバイスもらったし。あ、これイメージ画ね」

千家は鞄からラフスケッチをいそいそと引っぱり出す。

色鉛筆で丁寧に描かれたそれは、銀色のメカメカしい着ぐるみが雄々しく立つ傍らに、ミニスカートの女の子がアレなデザインの光線銃を構えて寄り添っている、というものだった。

(うっ、これは……)

美奈は自身のおぼろげな記憶(特撮・宇宙刑事の項)をたどってみた。

正直、元ネタにしてるどころではなく『そのまんま』な気がしてならない。

「あの、ちょっと千家くん。このデザインは、色々とマズいと思うんだけど」

美奈がイロイロな事情から困惑していると、千家は黙って次のスケッチを差し出した。

手持ちの一枚目を七海に渡して、美奈はそれを受け取る。

(ヒロイン役のコスチューム設定、ね。なんだか、これもずいぶん…)

先だってのセイギイエローとピンクもそうだったが、このデザイン案の女子が着ているコスチュームもやたらとスカートが短い。

と言うか、今回のものは前よりさらに短くなっている。短すぎる。

「千家、デザインがまんまパクリなのはおいとくとしても、この短いスカートにはどーいう意図があるの?」

美奈からスケッチを回された七海も、同じところが気になったようだ。

質問する声に怒りの成分が多く含まれている。

「え」

応じた千家の顔にイヤなカンジの汗が流れた。

美奈はスケッチに目が向いていたので見えなかったが、七海の声だけでなく表情もかなり怖かったようだ。

「…高原先生に相談した時に、『これじゃまだ長い。もっと短くしろ』って言われたんだ」

「はあ? ホントに?」

「ホントだって。『いいかね? スカートの丈は戦闘員に蹴りをいれるときに、チラリとすこし見えるくらいが絶妙なのだ』とか、えらくノリノリで講釈してくれたけど」

「…………」

「だもんでオレも『さっすがセンセー、わかってるぅ!』ってその場で描きあげてこの短さに……どしたの、五十嵐さん」

美奈は右手で額を押さえて頭痛をこらえていた。反対の左手は大机について、身体を支える。

「いえ、ちょっと」

そういえば、思い当たるふしがある。

数日前、修司が美奈に夏休みの予定を聞いてきた。『よければちょっと手を借りたいんだが』と遠慮がちに言ったものである。

夏期講習とアルバイト、それに文化祭の準備で美奈の予定はすでにビッシリ埋まっていた。

しかし修司の実験助手は、美奈にとっても楽しみな、最優先事項なのだ。

だから『あ、実験ですか? それなら予定あけますから、ぜひ手伝わせてください』と即答したのである。

当然喜んでくれると思ったが、修司は『え? あ、うん。じゃあ連絡するから、頼むな』と妙に歯切れの悪い返事を残して去っていった。

今にして思えば、あの時本当は映画の話を切り出そうとしていたのではなかろうか。

だが、たとえ修司の頼みでも、かなり抵抗のある話である。美奈も七海も、ごくまっとうな羞恥心を持っていた。

(まったく、どうしてこんな恥ずかしいデザインに……せめてもう少し)

美奈はそこでハタと気付いた。

(そうじゃない。そうじゃなくて)

企画の根本に問題があるのに、細部について議論したところでそもそも無意味なのだ。

それに、いくら千家が妥協案(あくまで彼の主観)を提示しても、二人が引き受ける可能性は最初からゼロなのだから。

つまりさっきからの会話は、まったく無駄話以外のなにものでもない。

時計を見る。…あまり長引くとタイムセールに間に合わないかもしれない。

早く本題を済ませなければ。

ようやく冷静さを回復して、美奈は顔を上げる。

「千家くん。わるいけど、あまり時間がないの。映画の話はまたにして、今はこっちの問題を先に――」

大机に広げられた七海持参の写真の中から、適当な一枚をつかんで千家に突き付けようとして、美奈はそれに自分のよく知っている人物が写っているのに気付いた。

そう、毎朝毎晩、鏡の中に見る顔――自分の顔だ。学校指定のレオタード姿で、タオルを羽織り、汗を拭いている。

体育館で創作ダンスの授業を受けているところだった。

今年はこの授業はまだ受けていないので、一年生の時のものだろう。今より表情が硬いので判りやすい。

「……これ、なに?」

冷たい声で美奈が尋ねた。視線を向けられたミキは力いっぱい首を振る。

「違うよ、僕じゃない! カメラは持ってるけど、僕は取材にしか使わないよ!」

「あ、オレだソレ撮ったの」

千家が馬鹿正直に手を上げる。それを聞いた美奈と七海の眉がはね上がったところで──

「みなさん。そろそろ、話をはじめてかまいませんか?」

話がどんどん混乱しようとする中、辛抱強く出番を待っていた由希子が、よく通る声で言った。

不思議な迫力で一同を沈黙させる。

由希子はまず千家に向かって椅子を回した。

「千家君」

「なんスか」

「夏休みには、体育系文化系問わず、多くの部が大会やコンクールを控えていることはもちろん知っていますね?」

「はあ」

「当然、取材にも人手が要ります。たくさん」

「はあ」

「そんな状況で、よもや映研の不正規企画などにかまけて、学校新聞発行の妨げとするようなことはありませんね?」

「……はあ」

千家の返答が遅れる。由希子の瞳が冷たい光を放った。

「ありませんね?」

「ももももちろんです。ハイ」

「では、その話はひとまず終わりです。それと…副部長?」

由希子は続いて切れ長な目をミキに向ける。

「は、はいっ!」

「貴方には、後で写真の管理責任を追及しますから、覚悟しておくように」

「は、はい…」

ミキの怯えた視線が血染めの木刀に向けられた。いまだに信じがたいが、どうやらやはりアレは実用品らしい。

「さて、落ち着いたところで──説明を始めさせていただきますね」

一同を見渡し、由希子はせきばらいをしてから話し始めた。

「周知のように、我が星南高校は特にスポーツに力を入れています。陸上部、サッカー部、水泳部、バスケ部といった全国区クラスのものをはじめ、ほとんどの運動部が高水準の実績をあげています」

いったん言葉を切って、由希子は続ける。

「そのため、生徒会予算も大量に運動部に持って行かれ、我ら文化系クラブに分配される予算は残りカスみたいなものです」

千家が同意するように頷く。

「新聞部の今年度予算が幾らか教えてあげましょうか? 五万円ですよ。水泳部はOBや父兄から寄付金集めまくって開閉式天井の贅沢な温水プールまで建てたというのに」

ちなみに千家所属の写真部予算は四万五千円である。それにひきかえ水泳部は──あえて言うまい。

「鉛筆、消しゴム、原稿用紙、コピー用紙等々、消耗費の多くを部員の私費で賄っているというのが、私達の現状なのです」

ここでハンカチを取りだし目頭を押さえてみたりする。なんだか完全にキャラが変わっていた。

帰宅部の美奈には関係のない話だが、予算配分量トップ5に入るバスケ部所属の七海のほうは、心なしか居心地が悪そうである。

「──そこで、コレです」

と、由希子は膝の上に乗せていたものを美奈と七海に手渡した。

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