(茜**エンド後のお話です)
会社も今日で終わりかあ……。嫌なこともあったけど、割と楽しかった。
送別会は昨日、金曜日にしてもらっていた。今日は最後の仕事の引継ぎと、私物の整理。
休日なのに、同僚の子には最後の最後に悪いことをしてしまった……。
わりといい男もいたよね。……でも、あたしの好みじゃなかったかな。
給湯室で、みんなでさぼるのって楽しかったな。高校のときみたいで。
課長ったら、泣いてるんだもん。ちょっと嬉しかったかな、あはは……。
電車の中、つり革につかまって夜の街に目をやりながら、私はそんなことを思っていた。
みんな、さようなら……か。ちょっと寂しいかな。
どんな別れも、寂しさが伴うものなのだろう、きっと。
しかし、これからなすべきことが山のようにある。
別れはすべて、前に進むために決めたのだから、立ち止まっていてはいけないんだ。
『会社を辞め、この街を出る。また、私が前へ進むために』
孝之と別れてから2箇月たったころ、私が出した結論。
大切なもの……孝之を、私は失った。
孝之がいない日々なんて考えられないって、私は思ってたのに。
人って、割と強いのかもしれない……。
その中を、私は淡々と過ごしていた。なにをどうするつもりもなく。
日々が訪れ、過ぎて行った。
ある日のこと。
会社から最寄の駅への途中、スイミングスクールのバスが私の横を通りすぎ、前方に停まる。
小学生の子供たちがバスから降りる。
ふーん、スイミングスクールがあるんだ……。
体育館に似た建物から、子供たちの嬌声と水の音が聞こえてきた。
あ……。
なんていうか、いてもたってもいられない気持ちが私の中に芽生える。
いつの間にか……私は、そのスクールの受付の人にこう言っていた。
「あの、見学させていただきたいんですけど……」
見学用の通路を隔てるガラス越しにプールを覗く。
この時間は、学校帰りの小学生たちの、どうやら初心者から中級者のクラスらしい。
そこそこ泳げる子もいるが、大部分の子供たちの泳ぎは決して上手とは言えない。
……けれど、なんて楽しそうに泳ぐのだろう。
皆が平泳ぎでコースを泳ぐなかで、先生と1対1でクロールを教わっている男の子がいる。
他の子より遅れて入学した子なのだろうか。
プールの中で壁を蹴り、クロールで……数メートルで停まる。
あらあら……。
先生は、その子の隣りに移動し、言葉と身振り手振りでクロールの泳法を教えようとする。
先生の言うことに熱心に耳を傾け、男の子は何度も頷く。
飼い主の言葉を聞く子犬のよう……なんて思ってしまう、それほど真摯で、かわいくて。
うまくいかない。男の子は、泳ぎのコツがわからない。
コースの端まで、先生と生徒は練習をしながら移動する。
でも、何度やっても距離は伸びない。
……いえ、ちがう。少しずつ伸びている。
何度目だろうか、彼は立ち止まった場所から、再び泳ぎ出す。
5mを超え、10mを超え……停まらない。
やがてコースの端に着いて男の子は止まる。
顔を上げた男の子が、先生のほうを向いて……にこっと笑う。
「うん……」かっこいいよ、キミ。
かわいいなんて思ったのは、彼に失礼だった。
私はわくわくしながら、結局……最後までそのクラスを見続けてしまった。
「見学させていただいて、ありがとうございました」
……受付の女性にお礼を言い、私はスイミングスクールを後にした。
泳げないで頑張る男の子……そんな小さな事に心を動かされるなんて。
でも、そんな自分が嫌ではなかった。
数日後。
私は、とあるプールのスタート台の上に立っていた。
頭の中で、スタートの合図を鳴らし、プールに飛び込む。
ただ、泳いだ。何も考えず、へとへとになるまで体を虐めて。
その夜考えた。自分に何が残っているのか、したいことはないのかを。
「あたし、水泳が好き……」口から、ついこぼれるあたしの思い。
好きなんだ、水泳が……。
明け方になるころ、私は結論を言葉にした。
「泳ぎたい。選手としてはもう無理かもしれない……。けれど、水泳に関わって生きていきたい」
私がそう心を決めたのは、10月中ごろだった。
私は父母を説き伏せ、体育大学入学を目指し、体進(*体育進学センター:体育大学専門の予備校)
に通うことにした。
でも、この街は出る。さすがに……ココにはいられないから。
心の痛みも、これからへの不安も、本当に正しい道を選んだのかという心配も……たくさんある。
でも、これも勝負。勝たなくてはいけないゲーム。
「うん、負けちゃだめ。しっかり、水月……」
ガタンゴトン……。
電車の窓に映る自分を見ながら、ふと苦笑した。
頑張れ自分……か、ちょっと恥ずかしいかも。
この電車に乗るのも、しばらくはないんだろうな。ばいばい……。
って、あたしは乙女かっ!?
……ハァ。
一人ツッコミは、ちょっと……むなしかった。
「次は柊町〜、柊町〜お降りの方はお手回り品をお確かめの上……」
お決まりの女性の声のアナウンスが響き、私はそこで物思いをやめた。
電車を降り、改札を目指し歩き始める。
……と、前方に見知ったカップルの後ろ姿があった。
孝之、遙!?
遙、目覚めたんだ……。
見間違えるはずはない、孝之の後姿……。
ちらっと遙に話しかけたときの横顔……ほら、やっぱり孝之だ。
孝之の隣りにいるのは遙……そう決まってる。
遙は明るい色彩の服と、かわいらしく、大きいスカート。見まごうはずもない。
そして2人は歩いていく。愛情の証として手をつなぎ……。
退院したんだ、遙……。おめでとう。
でも、足がすくんで、私は歩けなくなる。
「遙なんて目覚めなければ良かった」私は、そう孝之に言ってしまっていたから。
「……」
なんで最後に、こんなところで会うのだろう……。今は、まだ会いたくない……。
私は改札へ向かう人の列から離れ、歩みを遅くする。
私の心の中に別の声が生まれ、私に問いかける。
(本当に……それでいいの?)
ううん、いいはずが……ない。
(あたしたちは、友達なんだよね?)
そう、私は2人のこと好き、今でも……。
(じゃあ、どうしたらいい?)
会って「退院おめでとう」って言わなくちゃいけない。
「さようなら」って、別れの挨拶を言わなくちゃいけない。
「ごめん」って言わなくちゃいけない……。
何かするのにも、理屈っぽくなったよね……私。歳、とったかな?
私は、2人に向かって走り出す。
人の波を泳ぎながら、私は2人のもとへ急ぐ。
昔のように、友達に会うのにふさわしい顔で。笑顔で。
2人の後ろに来て、私は名前を呼ぶ。
「遙っ、孝之っ」
高校のときのように呼べただろうか?
孝之が振り向く。
そして、遙が……振り向くはずだったのに。
振り向いたのは茜。
孝之と……茜がそこにいた。振り向いたのは遙ではなかった。
「水月……元気だったか?」孝之が私に話しかける。
遙じゃなかった……。
私は、孝之と茜を目の前にして、次の言葉を忘れていた。
「あ……水月……センパイ」小さく、ようやく搾り出したような声。
驚き、うろたえ、見る見るうちに茜の表情はゆがむ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうしたの、茜……?」
茜、どうして謝るの、どうしておびえるように私をみるの?
「水月先輩、ごめんなさいっ……」泣きながらそう言うと、茜はその場から走り去った。
「茜っ」孝之があわてて茜を呼ぶ。
何があったのだろう、茜に……。何があったのだろう、今までの間に……。
「水月っ、詳しい話はあとで……。……すまない……」
「う、うん……」
そう言って、孝之は茜の跡を追って走り出した。
人のいなくなったホーム。
勇気を出して、2人に声をかけたつもりだったのに……。
疲れを感じ、私はホームのベンチに腰を下ろした。
座っても、くつろげるわけもなく、私の気持ちはちぢに乱れるばかり。
どうして、茜と孝之が2人で?
結局、遙は目覚めなかったのだろうか……。
なぜ、2人が寄り添うように、手をつないで歩いていたの?あの場所は今は、遙のいるべき場所のはず……。
なぜ、茜が……私に謝るの……? わからない……。
舞台から降りた私……。私にとっては、孝之との別れという『終わり』があった。
そして、孝之は遙を待ち続ける……また目覚めるまで。
そう思っていた。でも、もしかしたら……。
「ううん、そんなことはない。だって、だって……そうだとしたら」
言いようのない不安……ようやく忘れたはずの、暗い気持ちが私を包む。
最終電車の乗客とともに、改札を出る。
もう、私には関係ないって思えたらいいのに。
でも、そんなふうに割り切れるわけもない……。孝之と、遙と、茜のことなんだから……。
その夜、夢を見た。はっきりとは覚えていないけど、孝之と遙と茜と私でプールに行ったときの夢
だった。
目が覚める。
どんな内容だったか、夢が速やかに消えていく。楽しいことだけはわかっているのに……。
消えて行く夢を送りながら、私は思った。
「みんなで、いつまでも楽しいままだったらよかったのに……」
それは無理な相談ってことは、身をもって知っているけれど。
今日は日曜。
昨日のことを思い出す。わからないことばかりだった昨日の2人。
会って話がしたい……たとえ、それが私にとって嫌な話でも。
だって、このままじゃ……。
母の用意した朝食を取りながら、電話をしてみようか……と考えていた。
けど、電話していいのだろうか。ううん……孝之に電話できる、私?
電話をすることで、また孝之を苦しめることにならないだろうか。
なんとなくつけているTVからは戦争のニュース。そして、CMに入る。
あたしも世の中もぐちゃぐちゃだ……。
いつのまにか天気予報のコーナー。天気くらいは見ておこ……。
「……今晩、いえ正確には月曜未明なんですが、しし座流星群が日本で……」
「……流れ星に願いをかけてみてはどうでしょうか、みなさん」
なに〜、願いをかけてみてはどうでしょうかだって〜?
あのね……願いをかけてかなうんだったら、誰も苦労はしないって。
……近ごろひねくれてきたな、あたし。
私は野菜サラダをフォークで、つんつんとつついた。
まだ、朝早いというのに家の電話がなり、母がでる。
「はい、速瀬です。……。はい、おはようございます。お久しぶり。……ええ、ちょっと待ってて
下さい」
母が、電話口から私を呼んだ。
「水月、ほら……あの、茜ちゃんから電話よ」
「あ……。うん」
「はい、お電話代わりました。水月です」
まがりなりにも社会人を3年したせいだろうか、事務的な言い方が自然と出てくる。
もっと違う、口調で話しかければいいのに。
「あ……水月、先輩」
「茜、久しぶり。……ん、昨日会ったよね。あはは……」
「はい……昨日は失礼なことをしてすみません」
「ううん、いいのよ。そんなこと」
「あの……先輩。私と……会ってくれませんか?」
「あ……」
茜のまっすぐな物言いに言葉が詰まる。
電話があるなら……、もし私が電話をするなら孝之だと思っていた。
茜からとは思っていなかった。
「孝之さんと一緒では、お話しできないことがあるんです、だから……」
孝之さん……って、茜……!?
「……」
「駄目、ですか……」
「あ、ごめん。駄目じゃないよ、私も……会いたいから」
「よかった……」
「うん。じゃあ、何時にどこにしよっか」
……。
……。
お昼過ぎ、駅前で待ち合わせをすることになった。
決まった間隔で駅から出てくる人の波、その中から茜が姿を現した。
「水月先輩……。わざわざ来てもらって、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をする茜。
「ううん、私のほうこそ。会って話がしたかったのは、私も同じ……。電話してくれて、ありがと」
「いいえ……」
「どう、元気だった?」つい、そんなことを言ってしまう。
「はい……」茜、痩せた?それに、なんだか疲れた顔してる。
あ、今日は……。
「私のこと『水月先輩』って呼んでくれるんだ。嬉しいよ、茜……」
茜に会うとき、いつも胸が痛かった。あなたに嫌われてるって、そのたびに思い出させられて
つらかった。
「ちがうんです……私、お礼なんて言われちゃいけないんです」
そう言って、茜は視線を逸らした。
話を変えよう……。
「ね、どこか静かなところに行って話をしない?」
「あ、はい……。私の家なら、今日、誰もいませんけど……」
ごめん、茜。それは嫌……いろんなことを思ってしまうから。
「う〜ん、突然お客さんとか来るかもしれないでしょ。私の家も誰もいないんだけど……互いの家は
止めようか」
「ええ……」
「じゃあ……」喫茶店もなあ……近場の公園も、ちょっと……。
ひとつの場所が、私の頭に浮かぶ。
「学校の裏手の丘にしましょうか?人は来ないわよ、保証する」
「え……でも……」
私にはまだ……つらい場所。
でも、孝之の、遙の、私たちの話にふさわしい場所じゃないだろうか。
「今日は学校も休みで、ちょうどいいよね。それに眺めも良いの、知ってる?」
「はい、知ってます……姉さんに……聞いて」
「あ、でも部活に出てる生徒がいるかな……」
そう言えば茜、今日練習はないの?……きっと、休んだのだろう……。
「そう……ですね。できれば、知り合いに顔は……」
「それじゃあ、裏から行きましょうか。学校から反対の道もあるの」
私たちは、駅から歩き始めた。
「今日は、どこかによってから駅に来たの?」
「はい……、姉さんのお見舞いに行ってきました」
「遙、やっぱり……退院してなかったんだ」
「…………」
「遙は……目覚めてないの?」
「……!!」茜が言葉の代わりに、きゅっと唇をかむ。
「そう……」
その後に続ける言葉がわからない、私と茜。
遠い昔……茜と2人で歩くとき、黙ったままなんて考えられなかった。
「量産型のほうが、ツッコミ性能が高い」って、孝之が私に言ったことがあった。
量産型とは、あたしを試作機にみたてて、茜のことを指した表現。
あたしたちを、ある意味馬鹿にした、でもとてもうまい言い方。言われたとき、あたしは嬉しさを
感じながら、孝之に怒ったふりをしてみせた。それほど私たちは、かしましくて、よく似ていて。
茜は、私にまとわりついて、甘えて、慕って……私も茜から目が離せなかった。
かつて通いなれた道にある、自動販売機。
「そうだ、ジュースでも買っていこう?あそこに行ってもなんにもないから」
茜の返事を待たず、私は硬貨を投入する。
「茜、何にする?私、おごるから」
「いえ……」ただ、茜は遠慮する。
「ん……。じゃあ、私と同じでいいね。
ガタッ、ゴトン……
「はい」私は、スポーツドリンク系の飲み物を2本買って、1本を茜に手渡した。
茜は、私の手から缶を取るのを、一瞬ためらって……それからジュースを受け取った。
「……すみません」
「いいの。これでも、社会人なんだがら、私」
茜が私におびえてる……そのことは私を悲しませた。
学校からすると裏手になる神社、その脇を通り丘へ上る。
このまま、何も聞かずに帰らない?……そのほうがいいよ
道すがら、そんな考えが頭に浮かぶ。
「着いたわ……どう、良い眺めでしょ?」
「はい……」
「ここは……さぼるのが好きな、ぐうたら学生たちがお気に入りの場所だったの。
それから、水泳マニア少女と……その友達の、夢見る乙女もここが好きになったの……」
茜が頷き、そして私から目を逸らす。
……私、何を言ってるんだろう。
「座ろっか」
私と茜は隣りあわせに、よい具合に枯れた雑草の上に腰掛けた。
この質問をするときが来た……。
私は息を吸いこんで、目をつぶる。つとめて冷静でいられるように。
そして尋ねた。
「茜……、孝之と付き合ってるの?」
「はい……」
「……っ」息が止る。胸がつまる。
どうして、どうして……。
私と孝之が別れたのは、あなたのためじゃない。
孝之が遙を選んだから……孝之が遙を待つっていったからっ。
怒りと悲しみが、私の心を満たす。
「どうして……」
「水月先輩も知ってるように、お姉ちゃんは……姉さんは8月に目覚めた後、また眠りに落ちてしま
いました……。姉さんが目覚めていたのは、ほんの2週間ばかりでした……」
ほんの2週間……それで私は……。後悔に似た気持ちが、また私を包む。
どうして目覚めたの、遙……。遙が目覚めなければ……。
だめ!!……再び、それを思っちゃいけない……私と遙は今でも友達なんだ。
ようやく、そう思えるようになったのに。
「先輩……、水月先輩……」茜が心配そうに声をかける。
「あ、ごめん。ちょっと……驚いちゃって」
何度か声をかけたらしいが、それに気がつかないほど考え込んでいた。
「……茜もつらかったでしょう」そう言うのが、精一杯だった。
「孝之さんは、とても……とても悲しみました。でも、私は……わかりません」
「茜……」
「水月先輩……水月先輩にはお話しなくちゃならないんです。聞いて……ください」
茜の言葉の最後は、泣き声まじりだった。
「姉さんが妊娠したんです……」
茜の言葉に、私は息を呑む。そして、まるで自分が孝之の恋人であるかのように、うろたえた。
「孝之の子……だよね?」
「はい。姉さんは……ほんのひととき目覚めていたうちに、また孝之さんを……」
小声で、とぎれとぎれに茜が言う。
「また、孝之さんの心を独り占めして……眠ってしまいました」
遙、起きなさいよ……。せめて、あなたが起きていれば……。
無茶なことを、心の中でつぶやいた。
「……お腹の子は、どうなったの?」
むごいことを聞く。堕胎手術を受けるより、どうしようもないのに。
しかし、それは茜の言葉に否定された。
「もうすぐ4ヵ月です」
「産むの……その子を産んでどうするの?」ああ、なんて嫌な物言いなのだろう。
「はい。私、その赤ちゃんの……お母さんになることにしたんです」
「茜……」
「孝之さんと2人で、姉さんの子を育てるころに決めたんです」
そう言いきる茜。しかし、言葉の最後は弱々しかった。
「だから孝之と付き合ったっていうの……?なによ、そんなのって……」
言いたいことが、いっぱい出てきて……何をどう言ったらいいのかわからない。
茜の選択したことは、18歳の女の子には重いこと、辛いこと。
それを私は理解してるのに……どうして否定的なことしか、私は言えないのだろう。
「あなたは……遙の代わりをするつもりなの?」
「はい」
「そんなの、おかしいよ……。遙のかわりに、孝之と付き合うなんて駄目だよっ」
あたしは、何に怒っているのだろう。
孝之が茜と付き合うことにだろうか。それとも、茜が自分を投げ打って未来を閉ざしてしまうこと
にだろうか?
「茜。遙と孝之のためなら、自分はどうなってもいいなんて考えてない?」
「……」
「でもね……茜を心配しているまわりの人だっているのよ?このこと、わかってる?」
「はい……」
「わかってないわよっ……」
「それでも、私はそうしたいんです。孝之さんと一緒にいたいんです」
「茜……」
「私、孝之さんが好きなんです。ずっと好きだったんです……」
「え……」私は、茜の言葉に途惑う。
「だから、決めたんです。そう……決めたんです」
「……」言葉が出なかった。
茜の告白は続く。
「私、赤ちゃんのお母さんになるって……孝之さんが悩んでいるのをいいことに……孝之さんを取っ
ちゃったんです。姉さんを裏切って、水月先輩を裏切って」
「私、孝之さんが好きだったんです。中3のころから」
そんな想いが茜のなかにあったなんて、私は…いや誰も、ずっと気づいていなかった。
「姉さんと一緒にいる孝之さんが好きで、姉さんが入院してからも、孝之さんがお見舞いにくると毎
日会えるのが嬉しくて……悲しんでいる孝之さんを見るのがつらくて……でも私、姉さんが羨ましか
った」
「やがて、孝之さんがお見舞いに来なくなって……先輩と一緒になった……。姉さんのことを裏切っ
たって、私は怒っていたけれど、私が怒ったのは……」
私は、茜の期待を裏切ったから嫌われて……遙から孝之をとったから、憎まれて……とばかり思っ
ていた。
「自分のことしか考えてなかったんです、私。孝之さんのことも、水月先輩のことも思うことはでき
なかった……理屈ではわかってても」
「今度だって、そうなんです。私、孝之さんに抱かれたんですっ。今までの私の想いを、思い出に換
えてください。そうすれば……私、諦められるって……。
孝之さんは、抱いてくれました……私がそんなずるいことを言ったから」
「言わないで、茜……」胸が痛いから、やめて。
なのに、茜はかぶりを振って言葉を続ける。
「その日は、姉さんが孝之さんに抱かれてた日だったんです。そんな日の夜、私は孝之さんに抱かれ
ていたんです」自虐的に茜が言う。
「だから、姉さんはまた眠ってしまいました…………その夜に」
「え……」
「私が裏切ったから……」
「それに……。姉さんが妊娠したことがわかったとき、孝之さんは、その現実に負けそうだったんで
す……。まるで、事故の直後の孝之さんのように……。だから、私……孝之さんのそばにいたいから
って……」
「姉さんと…姉さんと水月先輩のどちらかを、孝之さんに無理やり選ばせたのだって、私です。
なのに、なのに…………水月先輩の居た場所を取っちゃったんですっ」
そう言って、茜は大粒の涙を流した。
「自分のことを嫌な女だと思います。今、苦しいのはみんな自分のせいだと思います……。
それでも……孝之さんのことが好き、なんです」
孝之と茜が付き合うなんて、私には……。
あたしは、また自分の思索に落ちようとしていた。
ふと、私を見る茜の顔が目に入る。
悲しむような、おびえるような顔の茜が……。
茜は強いから、あたしに言わなくちゃいけないと、ずっと思っていたのだろう。
どんなにつらくても、あたしに謝らなくっちゃって。
でも、この子はこれからどうするのだろう……どうなるのだろう。
今の茜は脆く、壊れそうだった……。
「……だけど……茜、自分のことも考えてる?」
「考えてます……」嘘だ。
「水泳は……?」
「そんなこと、どうでもいいんです……」それも嘘だって、よくわかる……私には。
「それに……遙は目覚めるのよ、いつか……」
「っ……」
「孝之は遙を……愛してるのよ……?」
しばらくの間の沈黙。やがて、悲しげに茜がつぶやいた。
「それは……わかってます」
「だから……悲しむから……」そこから先を続けようとすると、茜が言った。
「先輩だって……」
「水月先輩だって……孝之さんを、姉さんを失って駄目になりそうだった孝之さんを、支えてたじゃ
ないですか……」
「っ……」
「自分のことを投げ打って…、自分のことはあきらめて…孝之さんのことだけを見て」
「それは……ちがうの……」私は口先で逃れようとする。
聞きたくないことを言われそうなのが怖くて。けれど、言い返した私の口調は弱かった。
「嘘です……」
「ようやく水月先輩の気持ちがわかったんです。姉さんがいたから、孝之さんを諦めていた気持ちが。
わかったんです……。どうして実業団の試験のとき、先輩の記録が落ちたのか……いいえ、記録を
落としたのか……。
姉さんの見舞いに来なくなった孝之さんと、先輩が付き合い出した理由が……」
「茜……止めて……」
それは、あの人には知られたくないことだから。ほんとは、それを知るのは私だけでいいはずだか
ら……。
「だって、わかっちゃったんです……。ごめんなさい……」
隣りから、茜の嗚咽が聞こえる……。
「私も……水月先輩と同じなんです。だから……」
「……うん」
私だけじゃなかった。遙の幸せを願い、孝之をあきらめようと悩んでいたのは。孝之のことを一番
に考え、支えようとしていたのは。
茜も、そうだった。
「ごめんなさい……、ごめんなさい水月先輩っ」
「私をののしってください、私が水月先輩にしたように。私が本当は……一番ずるかったんです」
茜はそう言って、ぽろぽろと涙をこぼした。
私は、茜に何を言えばいいんだろう。
あんなにいつも笑っていた子が。人を好きになって、姉を裏切っているという思いに苛まれて……
そして私にすまないと思って……。
謝ってばかりだよ、茜……泣いてばかりだよ、茜……?
「…………」
私は……私はもう……孝之とは終わったんだ。
今、孝之を好きで、苦しんで、傷付いているのは茜。
水泳を諦めるという大きな代償を払ってこの子は得ようというのだ。
孝之といることを。
傷心の孝之を支えながら、
遙と孝之の赤ちゃんを育てながら、
いつか遙が目覚めるときがくるという不安におびえながら。
そう、私はもう終わったんだ……。私は、両手を強く握り締めた。
だから……。
「茜、顔をあげて……」
今の茜に必要なのは、誰かが許してあげること。すべてを許してあげること。
意地を張って、頑張って……誰にも助けを求めようとしなくて……。
一人でなんでも背負おうとして……誰にも話せなくて……。
だから、見て……この子の心は、もうつぶれそう。
話せるのは、自分が裏切ったはずの私だけ。
茜のことがわかってるのは、茜が許しを乞うはずの私だけ……。
「もういいの、茜。私は……孝之にもう、さよならしたんだから」
私は、ハンカチを取り出し、茜の顔を拭く。
「先輩……」
「ほら、じっとしてて」
「はい……」
「ね、茜……。人を好きになるって悪いことじゃないって……私は思う」
「あ……」
「誰かの恋人だから……その人を好きになっちゃいけない。そんな器用なこと、人はできないんだよ。
人を好きになるのに、理由なんて……ないんだから」
(同じことを言うんですね……)
茜が何か小声でつぶやいた。
「どうしたの?」
「水月先輩……やさしいです」
「……バカ……ほら、泣き止みなさい。拭いても無駄じゃない……」
「だって、だって……」
「んもう……じゃあ、もう少し泣いてていいよ……」
「はい」
あの頃のような、私と茜がいた。
茜の頬を拭いながら、私は茜に語り掛けた。母が子にやさしく諭すように。
「ね、茜……」
「ひっくっ……。はい……」
「これから……いろんなことがあると思う。でもね、あたしは『茜は間違ってない、正しい』って思
うから」
「……ごめんなさい」
「もう、謝らなくていいの」
「私は、あなたことわかるから……。大好きだから……」
私は、茜の肩に手を置き…そして、抱き寄せた。
「あ……」茜が小さな声をあげた。
「水月先輩……温かいです」
「うん……茜も……」
お互いの体温を感じながら、私たちは丘からの風景を黙って見やる。よく知る景色を……私がもう
すぐ離れる街を。
「あの……」
「ん、なに?」
「もうちょっとだけ、こうしていてください……」
「うん……」
「あ、私のこと全然話してなかったね」茜を体で感じながら、私は話しかけた。
「私、今度大学に行こうと思ってるんだ。体育大学に行って、また水泳を始めるつもり」
「ほんとうですか?」
「うん」
「だから……この街を出るの」
「え……」茜が驚く。
「ううん、たいしたことはないんだ。ちょっと、一人暮しをしてみようかなって……」
茜の表情が固くなって、それから横に顔を逸らした。私に表情が見えないように。
「…………」
ふと思いついたことを、私は口にした。
「ね、茜も私と同じ大学に行かない?私は無理だけど……茜は推薦入試で行けるんじゃないかしら。
そしたら、私一生懸命勉強して、同じ大学に入るの。もちろん、2人で一緒に水泳部に入るんだっ。
どう?」私は、素晴らしいことを閃いたって、そんな顔をして言った。
「楽しいでしょうね……」
「うん、楽しいに決まってる……。なにしろ白陵柊の水泳部のヒロイン2人が一度に入るのよ。一人
はトウが立ってるけど、うふふっ……」
「そんなことないです、水月先輩はっ」茜が、本気で否定してくれた……。
「あ……、茜。今、私がトウがたってるって言ったわね?」
「ちがいますよ、酷いです……」茜が苦笑する。
何かに気づいたように、茜がうつむいた。
「今の話、とても……とても楽しかったです。でも……水泳はやめます」
「そっか……ごめん」
わかっていたけど、私は言わずにはいられなかった。
「楽しい、素敵な話です……。水月先輩に言ってもらって、嬉しかったです」
茜はそう言って、微笑んだ。
まだ4時なのに、11月の陽は傾き、冷たい風が吹きはじめる。
「降りよ、そろそろ……」
丘を降り、学校の横を通ると見知った通学路。
横を歩く茜が言った。
「生まれて来る子のこと、私、愛せる……と思うんです。孝之さんと姉さんの子だから……」
「うん……」
突然、母の役割をひきうけ、育児をすることになって。心無い世間からなにを言われるのか。
そして、学校の期待選手が、唐突に水泳をやめてどうなるのだろうか……いや、本当の問題は「水
泳が好きでたまらない少女が、それをあきらめるとはどういうことか」だ……。
それについては、私も少し知っている。
「それに、生まれてくる子が可哀想です。姉さんが眠っているからって、お母さんがいなかったら……」
「うん」
「お母さんになるって実感は、まだわかないんですけど」
両の手のひらを見て、それから顔を上げ、茜がにこっと笑った。
分かれ道に辿り着く。茜の道と私の道が重なるのはここまで。
「さよなら……ですね、水月先輩」
「うん…。孝之にはもうお別れをしてあるから……よろしく言っといてくれる、茜から?」
「はい……」
「遙にも……。私、さよなら言いそびれちゃったから、お願いね」
「……はい」
「これから、いろんなことがあると思う……けど、茜なら大丈夫」
……根拠のない私の言葉。でも私の他に、茜に励ましを贈れる人はいないから……。
「でも、でも……どうしてもつらいことがあったときは連絡して。電話して不在だったら、私に繋が
るまでかけるのよ」
「はい」
「絶対に、絶対に遠慮しないでね。連絡なかったら、茜は元気なんだって思ってるからね」
「先輩は……。水月先輩は、こんなにやさしかったんですね。心配のしかたが、お母さんみたいです
……」茜が泣き笑いの表情をする。
「なによ、今ごろわかったの?でも、せめて『お姉さんみたい』とか言ってほしいわ……」
私も、笑ってるはずなのに……頬を濡らしていた。
「さようなら、茜。また会おうね……いつか必ず」
「はいっ……」
私は、踵を返して振り向かなかった。いつか、笑顔の茜に会えるから……そう信じて。
さようなら孝之。さようなら、茜。
私は奥歯をかみ締めて……なにかを堪えて、家路を辿った。
「ただいま……」まだ、家には誰もいなかった。
部屋に戻り、普段着に着替えていると……私は、もう格好良くはいられなかった。
茜と会っていたときには、押さえていた思いがこみ上げてくる。
「どうして、どうして……」涙が止らない。
どうして、あのとき別れを受け入れてしまったのだろう。
私は、なにがあっても、孝之から離れなければ良かったんじゃないのだろうか?たとえ、見苦しく
ても、嫌な女でいても、媚びて見せても。
遙と孝之の赤ちゃん……?私だって、私だって愛せたよ。だって、孝之のこと好きなんだから。
私はベッドに潜りこみ、頭から布団をかぶった。
「そうしたら、そうしたら……今も孝之の側にいられたかもしれない……。馬鹿、馬鹿っ」
思いを声にして叫ぶ。こぶしをつくり、敷き布団を叩く。
「3年前と同じだよ、孝之。だったら……私でよかったじゃない……」
けれど、孝之の隣りには茜がいる。もう孝之のことを「鳴海さん」とは呼ばない茜が。
もう、孝之の隣りにいるのは私じゃない……。
「うっ……ううっ……」
……いつの間にか寝ていた。点けたままだったはずの部屋の明かりも消えていた。
泣きつかれて寝てしまうなんて……私、子供みたい。「ふふ……」恥ずかしくて、鼻で笑った。
時計を見ると、午前2時半。家のものはみんな寝てるだろう。
「あ、そうだ。今夜って……」
階下に下りると、食堂に母がいた。
「あら水月、目が覚めたのね……」
「あ……お母さん、まだ起きてたの?」
「え……。ええ、今日、流れ星がたくさん降るっていってたから、起きてたの」そう言う母はやさし
かった。
「きれいだったわよ……水月も見てきたら」
「うん……そのつもり」
「わたしはもう寝ないと……。じゃあ、おやすみ水月」
「おやすみ、お母さん……」
お母さん、心配かけた?……ごめん。
私は半纏を羽織って、外に出た。
今夜は、33年に一度とかの流星の降る夜。
なのに、新聞には「3年前にも『しし座流星群』が見られました」と書いてあった。
……あたしは、3年前も流星群をみようとして、こうしていたっけ……。
東の空は、あっちかな……。
暗闇になれるまで、東の空をじっとみる。
この前のときの願いはなんだったろう、きっと……。
「あ……」流れ星が落ちる。
「あ、また……」おもしろいように、星が降っていく。
見とれるうちにますます増える流れ星の数。
「わあ……凄い……」
流れ星のバーゲンセール……。星が天球を縦横に走る。
「あ……」
思い出した……。
ね、流れ星に願いをかけるとかなうんだよね。
これだけ流れ星が降っているんだから、星が落ちないうちに願い事できるよね。
私は祈る。
「遙が幸せになりますように」
「孝之が幸せになりますように」
「茜と、赤ちゃんが幸せになりますように……」
私は繰り返した、何度も……何度も……。
もう、いいかな。
あ、最後に……
「私も……幸せになれますように」
数年後。
大学になんとか合格して、それから私は再び泳ぎ出していた。
選手として3年のブランクは小さくは無かったけれど、私なりに努力してるし、それに伴う結果も
出せている……と思う。
そして……あれからまだ、茜から連絡はない……。
「暑う〜」
8月初め。夜とはいえ熱帯夜……。
私は、自分のアパートのドアを開ける。
ガチャ……。
「ただいま〜……うわっ」部屋の中、めちゃめちゃ暑い。
クーラー効くかなあ……。練習からようやく帰ってきたら、この仕打ち……。
あ、郵便……。
郵便受けに手を入れ、それと思しきものをごそっと掴み、部屋に戻りテーブルの上に置いた。
クーラーを入れた後、それらを手にして分別していく。
電話代、公共料金、ピザの宣伝ビラ……。うわ、宅配***って、これ何?……もう。
どうでもいい郵便物の下に埋もれて、1枚のハガキがあった。
差出人は『鳴海 茜』
「!?」
それは、書中見舞いの官製ハガキ、裏は写真というものだった。
よく似た母子が、頬をくっつけんばかりに寄せ合って
夏の日差しの中、2人は満面の笑みを浮かべている。
そんな、バストアップの写真。
子供は、お母さんに似てとてもかわいい。
けど、私には男の子か女の子かわからない。たぶん……。
「茜……」
今、幸せなんだね……。
孝之、遙、そして茜。3人に今までなにがあったのか、これからなにがあるのか。
もう、私にはわからなかった。
でも、茜と、茜の子の笑顔がここにある。
「よかったね、茜……」
あたし、あなたの幸せを祈ってるよ。あなたの子供の幸せを祈ってるよ。
そして遙と……写真を撮ったであろう人の幸せを……。
私は、手に持つ写真をそっと抱きしめて……目をつぶった……。
(終わり)